呉の戦災
 − あれから半世紀 くりかえすな −

                 呉戦災展実行委員会編


表 表紙(呉 地域)     裏 表紙(広 地域)

 表紙の写真は、米陸軍第21爆撃機軍団の第3写真偵察飛行隊が、爆撃の効果を判定するために撮影した航空写真で、原資料名は『THE UNITED STATES STRATEGIC BOMBING SURVEY(略称USSBS米国戦略爆撃調査団報告)「DAMAGE ASSESSMENT REPORTS(爆撃評価報告)」』です。 (題字:福島幸子)


  もくじ ・・・・・・・・・・・・・(書籍のページ番号) 1

  はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2

T 戦争への道 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2

 1 呉と海軍・海軍工廠 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2
 2 日中十五年戦争とアジア・太平洋戦争のはじまり ・・・・ 4
 3 日本の戦争加害 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 6

U 戦時体制と空襲 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 8

 1 戦時体制下でのくらし ・・・・・・・・・・・・・・・・ 8
 2 日本への空襲 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 14

V 呉の空襲 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 17

 1 呉が「真珠湾攻撃」された日 ・・・・・・・・・・・・ 18
 2 恐怖の白昼爆撃 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 20
 3 呉・海軍工廠、壊滅 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 24
 4 呉市街地夜間無差別大空襲 ・・・・・・・・・・・・・ 28
 5 帝国海軍、最期の日 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 36
 6 爆弾と焼夷弾 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 40
 7 原爆投下計画と呉 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 41
 8 呉空襲の特色 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 41

W 呉の現在 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 42

 1 呉・と基地 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 42
 2 呉の戦災遺跡 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 46

V 資料と参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 50

 1 呉空襲の記録とアメリカ軍の記録 ・・・・・・・・・・ 50
 2 参考文献 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 51

 おわりに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 52
 アジア・人平洋戦争および呉の戦災略年表 ・・・・・・・ 53


焼夷弾が落ちてくるようす。 火の雨に見えた。『一億人の昭和史』毎日新聞社>


(p.1)

はじめに

被災50周年記念が間いかけるもの
                         呉戦災を記録する会
                            朝倉邦夫

「のどもと過ぎれば、熱さを忘れる。」ということわざがあります。
 今から50年前、日本がアジアおよび太平洋地域で戦争を起こしたことから、国土は焦土と化し、多くの牛命と財産が失われました。
 中国を始めアジアの人々を2000万人以上殺し、日本の民衆も空襲で多大な死傷者を出し、日々の生活苦にさらされました。
 呉市の繁華街や住宅地も火の海にされ、生きながらに2000人の市民が焼き殺され、一夜にして廃墟となりました。
 空襲で家を失い、怪我をした人だけでなく、ヒロシマのピカドンにあったり、救援にかけつけた市民の二次被爆者は今も苦しんでいます。
 しかし、今では、日本がアメリカと戦争をしたことを知らない人も多くいます。原爆をどこの国が落としたのかを知らない人もいます。
 もちろん、日本の人々が中国やアジアで多くの人を殺し、財産を奪ったことなど、全く忘れ去り、知らない人も多くいます。
 50年前、戦争に敗れ、廃墟となった中から立ち上がった戦後の日本は、二度と戦争はすまいと心に決め、平和憲法のもとに復興をすすめ、今日の平和と繁栄をもたらしました。
 だが、呉が50年前、全国第8位の爆弾量を投下され、中国地方で最初に本格的な空襲を受け、沖縄をのぞく日本本土で、アメリカと激烈な戦闘をした唯一の場所であることを知る人もいなくなりました。
 なぜ呉がそのようにひどい戦災を受けたのだろうか、空襲の記録や被災状況の記録の多くがなぜ失われているのだろうか、広島や福山など他の都市では造られている平和・戦災記念館が、呉市ではなぜ造られないのだろうか。
 いま多くの学校で平和教育が行なわれています。しかし、その内容は、原爆の恐怖を中心にしたヒロシマの問題が多く、郷土の「呉の戦災」を日常的に取り上げることはまれです。
 白分の生活している郷土「呉」の歴史を掘り起こし、その歴史を通して、「今の呉」を考え、「今の日本と世界」を考えていく一つの手がかりとして、「呉の戦災50周年記念」があるのだと思います。

(p.1)

(p.2)

T 戦争への道

1 呉と海軍・海軍工廠

 呉浦が、それまでの平穏な村落から世界的な軍港へと変わっていった最
初のきっかけは、1883年(明治16)に行なわれた海岸の調査によります。
 その結果、呉が、当時の考え方からして軍港最適地であると判断され、
横須賀についで二つめの海軍鎮守府を置くことが決定されました。
 調査から6年後の1889年(明治22)に、呉海軍鎮守府が閉庁し、同時に造
船部が開設されます。
 戦前の日本全体のなかで、呉が海軍の基地として、どういう位置・役割を
担っていたのかは、艦艇の修理を短期間で行なった日清戦争前後あたりか
らうかがえるようになりました。その歴史を少しふりかえってみましょう。

 1899年(明治32)呉における最初の軍艦(通報艦)「宮古」が建造される
 1907年(明治40)日本最初の装甲艦(巡洋艦)「筑波」が建造される
  呉工廠製12インチ(約30・)の、最初の国産主砲を搭載
  これによって呉工廠は横須賀を抜いて日本一と呼ばれるようになる
 1909年(明治42)船体鋼材全部が国産品の巡洋艦「伊吹」が建造される
 1911年(明治44)当時世界最大の戦艦「安芸」が建造される
 1915年(大正4)世界初の3万トン級の戦艦「扶桑」が建造される
 1920年(大正9)世界初の16インチ(約40cm)主砲搭載の戦艦「長門」が
  建造される
 1941年(昭和16)世界初の18インチ(約46cm)主砲など、日本海軍の技術
  を結集した巨大戦艦「大和」が建造される

(p.2)

(p.3)

 戦前、日本には四つの海軍鎮守府と、その管轄下にある海軍工廠が存在
し、戦艦・空母などは呉と横須賀で、巡洋艦は佐世保で、駆逐艦は佐世保と
舞鶴で、潜水艦は呉と横須賀で造るという生産態勢ができあがっていまし
た。
 その中でも、呉は瀬戸内海という波静かなところにあり、艦隊の訓練を
する場所として適していたことから、呉海軍工廠では造船・造機・造兵・製鋼・
礒装・検査・実験部など、機能強化が集中的に行なわれ、最新技術の導入が
可能となりました。こうして新造艦艇の兵器と鋼鉄は、すべて呉から製造
供給されるようになったのです。
 呉の工員の数が他の三海軍工廠の合計を越えていった過程は、「日本で
初めて造られるもの」から、「世界で初めて造られるもの」へと、その能
力を高めた形で表れ、呉海軍工廠は「東洋一」といわれるほどでした。
 軍事都市・呉の特色としてこの他、海軍の幹部を養成する場所であったこ
と、燃料など軍需物資の補給基地であったこと、乗組員の休養・補給基地で
あったこと、広島の第五師団とともに海外出兵の基地であったこと、同時
に軍内部で反戦運動も行なわれたこと、そして「東洋一の兵器工場」の陰
では、劣悪な労働条件に抗して労働運動も起こり、大規模なストライキや
米騒動が発生したこと、などが挙げられます。

 呉が、空襲を受け、戦場にもなったり、原子爆弾を投下する候補地にも
あげられていたのは、「東洋一の兵器工場」とともに、海外派兵のための
出撃基地だったという背景があったからです。

(p.3)

(p.4)

2 日中十五年戦争とアジア・太平洋戦争のはじまり

 1931年(昭和6)9月18日、満州事変が引き起こされた。これは、1929年(昭和4)に起こった世界人恐慌による空前の不況を切り抜けるため、また民衆の不満を外に向けるために、軍部に強く引っ張られていた当時の政権が選択した道であった。これ以降日本は国中をあげて中国への侵略戦争をすすめていった。中国との戦争は15年間にもわたることになる。
 このころ日本国内の政治勢力に、侵略戦争を防ぐ力はなかった。政党をみると、右派の社会民衆党は満州事変を支持し、中間と左派の連合体である全国労農大衆党は戦争反対の方針をかかげただけで、実際の行動はとらなかった。戦争に反対した政党は共産党だけであったが、少数での動きにしかすぎなかった。

 1937年(昭和12)7月、日中戦争が始められると、政府は「国民精神総動員運動」をすすめた。戦争に協力しない言論や思想、運動、宗教はますます迫害された。その一方、学校教育をはじめ、出版物や、映画、演劇なども、戦争賛美・戦争謳歌一色となっていった。
 1938年(昭和13)には国家総動員法が制定され、1940年(昭和15)には共産党以外の政党はすべて解散して「大政翼賛会」が、またすべての労働組合が解散して「大日本産業報国会」が、それぞれ結成された。国民の意志を代表するすべての組織はなくなって、あるのは軍部と官僚を中心とする独裁支配体制だけになった。

「国防と産業大博覧会」1935年(昭和10)、三呉線(三原一呉間)の全通を記念して開催された。
<『国防と産業大博覧会誌』>

(p.4)

(p.5)

 呉での反戦運動
 満州事変のさなかの1932年(昭和7)に呉軍港に日本共産党の組織が作られ、反戦運動が展開された。その中心となったのは元二等機関兵・阪口喜一郎で、仲間とともに、同年、機関紙「葺ゆるマスト」を発行した。
 同年末まで6号が発行され、約100人の読者があったという。後に獄死した阪口喜一郎の記念碑は、人阪府堺市にある。

 政府は、この独裁支配体制をつくり、守るために、何度にもわたって反戦運動を弾圧した。戦争反対を唱える者は、治安維持法によって捕らえられた。弾圧は共産党に対してのみならず、自由主義者から宗教者にまでおよび、敗戦を迎えるまでに約7万5000人が検挙された。検挙された人の家族や、戦争反対を唱える人たちは、国に協力しない“非国民"だといわれて「村八分」の目にあったり、白眼視されたりした。こうして民衆は、しだいに日常生活の全面にわたって戦争に協力する体制に組み込まれていった。
中国への侵略戦争は長期戦となった。すでに国際連開を脱退していた日本は、同じ独裁支配体制をもち第二次世界大戦に突入していたドイッ・イタリアと手を握り「枢軸国」を形成する。アメリカ・イギリスなどの「連合国」は日本に対する経済封鎖を強め、行き場を失った日本はついに1941年(昭和ユ6)太平洋戦争を開始することになるのである。

(p.5)

(p.6)

3 日本の戦争加害

 日本はアジア言者民族を「米英帝国主義」から解放し、「人東亜共栄圏」をつくることを大義名分として、アメリカ・イギリスなど連合国に宣戦布告し、アジア・太平洋戦争を始めていったのである。
 しかし、開戦の本当の理山は、長期戦化した日中戦争を打開することと、連合国による経済封鎖をやぶって東南アジアの資源をわがものにするためであった。したがって、各地で物資の略奪や現地住民の殺傷など、多大な戦争犯罪を引き起こした。
 ベトナムでは、水田をジュート(せんい原料)畑に変えさせたり、トンキン米として食料不足の日本へ持ち帰ったために食料不足がおこり、200万人に達する餓死者を出した。
 フィリピンでは、アメリカ軍やフィリピンの捕虜を虐待し、日本軍の方針に反した人々を、きびしく処罰し、合計1万2千人を殺した。
 シンガポールでは、日本軍に反抗するとみなした5千人以上の華僑(中国系住民)を虐殺した。
 また各地で軍票という代用手形を乱発し、経済を人混乱させるなど、日本軍の蛮行は枚挙にいとまがなかったが、「銃後」の国民には知らされなかった。
 国内では労働力不足をおぎなうために、70万人以上の朝鮮人と約5万人の中国人を日本列島各地に強制連行して鉱山やダム、鉄道、道路といった建設理場などで労働させた。呉市内や呉周辺でも、防空壕や地下工場などの建設に従
事させたといわれている。
 南洋群島や沖縄、太平洋の諸島など、戦場になった地域や、サハリン、満州(中国東北部)などにも多数の朝鮮人を移動させ、労働や軍役に従事させた。また、日本兵の慰安婦として、朝鮮や台湾の女性を戦場にかりだした。
 日本が大義名分とした「大束亜共栄圏」の姿は、そのようなものであった。

(p.6)

(p.7)

 中国をはじめ朝鮮、東南アジア各地域には、日本の支配に抵抗する運動がおこり、その力が、戦後の独立運動を押しすすめたのである。
 1931年(昭和6)9月の満州事変に開始された中国への侵略戦争で、日本軍は「三光」(焼きつくし、奪いつくし、殺しつくす)作戦、毒ガス戦、陸軍73!部隊による細菌兵器の開発と人体実験などを実行した。特に、兵十だけでなく一般市民も含めて20万人以上ともいわれる中国人民を殺害した「南京大虐殺」は、日本軍による世紀の蛮行として、広く知られている。やがて日本軍は中国の強い抵抗に逢い、各地で敗北に追いやられていく。呉からは、1932年(昭和7)1月の上海事変において海軍特別陸戦隊451人が派遣され、出撃基地としての性格を明らかにしている。

 呉出身の反戦歌人、渡辺直己一
 渡辺直己は、呉市の高等女学校の先生であり、アララギ派の歌人でもあった。陸軍中尉として華中に転戦して戦死したが、戦場で数多くの短歌を残している。
  照準つけしままの姿勢に息絶えし少年もありき敵陣の中に
  壕の中に坐せしめて撃ちし朱占匪は哀願もせず眼をあきしまま
 中国民族の苛烈な抵抗がうかがわれるし、日本の兵士の「中国」観がわかる。

(p.7)

(p.8)

U 戦時体制と空襲

1 戦時体制下のくらし

(1) 町内会と隣組
 1937年(昭和ユ2)9月の日中戦争開始で、政府は、すべての民衆に戦争政策を周知徹底させ、総力戦体制をつくりあげることが必要になり、町内会の存在が注目された。
 町内会は、もともとは任意団体であったが、1940年(昭和15)9月の内務省訓令によって、地方行政の末端組織として位置づけられた。さらに1943年(昭和18)、府県制・市制・町村制の改正によって「政府一都道府県一市区町村一町内会」という指揮命令系統が、法律で確立された。
 隣組(隣保班ともいう)は10戸前後を単位とした、町内会を構成する基本組織で、いわば「近所づきあい」的な小集団である。この隣組が、政府の意図する戦争政策を確実にすすめる役割を担った。“ふだんのくらし"に、「戦争」が入り込んできたのである。
 呉には!944年(昭和19)の時点で、225の町内会、4657の隣組があった。

  町内会が担った主な事業

・祭祀、慶弔に関する事項
・隣保親睦相互扶助に関する事項
・矯風修養および慰安に関する事項
・災害防護に関する事項
・市役所、その他の官公署との連絡に関する事項
・各種団体との連絡協調に関する事項
・その他共同の福利増進に関する事項

  『「戦中・戦前」用語ものしり物語』
   (北村恒信著光人社1991年)より

(p.8)

(p.9)

 米や、衣料・砂糖・マッチの切符など、日常活物資の配給は、町内会・隣組を通じて行なわれた。出征兵士壮行会や、戦死者遺骨出迎えも、町内会・隣組が催した。また、塵芥処理、貯蓄奨励、国債消化などの仕事や、納税事務、
市民の転出入なども扱った。防空演習や、戦争末期の竹ヤリ訓練なども、町内会・隣組を単位に行なわれ、一般市民は、戦争への協力、戦争の訓練をせずに「ふつうに一日を過ごす」ことがきなくなった。
 心の中では「戦争反対」「軍隊に入りたくない」「死にたくない」と思っていても、口に出したり行動に表したりすることが、とても困難になったのである。そんなことをすれば、日常生活が送られなくなるような空気が、日本中に満ち満ちていた。

(p.9)

(p.10)

(2) 防空体制

 ・ 警防団・家庭防火群
 1939年(昭和14)から警防団がつくられた。これは、消防に従事してきた
消防組と、防空のためにつくられていた防護団とを統合したもので、民間
防空の中核となった。
 呉市警防団は12ブロックの分団に分けられ、それぞれ約150人で編成さ
れ、合計2337人で発足した。団長・副団長は県知事から、分団長以下は警
察署長から任命された。団員は、警察署・消防署の指導の下に訓練に励んだ。
 警防団は、現在の消防団のもとである。家庭防火群(家庭防空群ともいう)
は、15月以内を一群とした民間防空組織である。
 1940年(昭和15)に町内会が設置されたのにともなって、隣組単位に再編
成された。

 ・ 防空演習
「焼夷弾の燃え方と消火方法」
 1937年(昭和12)に防空法が施行されてから、灯火管制中心の防空演習が、
市民の訓練中心のものに変わった。
 バケツリレーや火たたきなどによる消火訓練、毒ガス戦を想定した訓練、
救護、炊き出し、連絡・伝達などがその内容で、警防団員の指導にしたがっ
て家庭防火群が動くという形で行なわれた。
 アジア・太平洋戦争の開始とともにその回数は増え、呉では、1944年(昭
和19)には43回も実施されている。
 しかし、爆弾や焼夷弾が大量に投下された空襲時には、まったくといっ
てよいほど役にたたない、無駄な訓練でもあった。

(p.10)

(p.11)

 ・ 防空壕・待避所
 呉市の防空壕は、町内合ごとに公共防空壕がつくられた。
 その規模は幅2メートル、高さ2・2メートル、長さ30メートルで、収容人
員90人を基準とした横穴防空壕であった。
 公共待避所は、道沿いに100メートルあるいは50メートルおきに、15人
収容のものが設置された。工場や各家庭用の待避所もつくられた。
 防空壕・待避所は、現在も残っているものがあり、戦争の記憶を今に伝え
ている。

(p.11)

(p.12)

 ・ 建物疎開
 日本の都市は、木造家屋が密集し人口も過大に集中しており、空き地が
少なく道路も狭く、空襲には弱く被害が多いことが予想された。そこで政
府は、1943年(昭和18)12月に、建物疎開・人員疎開・施設疎開を実施するこ
ととした。建物疎開は、まず疎開空地帯を造成して、防空区画をつくり、
それに相当数の疎開空地を配するというものであった。
 1944年(昭和19)5月、呉市は「重要地域都市」に指定され、消防道路と
空き地をつくるため建物疎開が始まった。塩川の両岸や、休山山ろくか二
河公園まで丁字型の疎開地がつくられた。
 この疎開地一帯が、現在の市役所や体育館、中央公園になっている。
 呉市における疎開家屋の合計は6051戸、疎開総面積は、借地分が約37・4
ヘクタール、買収分が約8・8ヘクタールの、合計46・2ヘクタールにものぼっ
た。突如として住を失うのだから、市民のこうむった迷惑は大きかった。

 ・ 人員疎開
 建物疎開と同じ時期に人員疎開も始まった。呉においては、6051戸の建
物疎開者2万4204人以外にも、1次から4次まで7292所帯が疎開したといわ
れる。
 一家の柱が召集または徴用されたり戦死した家族、つまり女性・老人・子
どもだけになった家族は、戦火を避けて疎開していった。
 しかしその一方で、疎開がままならぬ人たちも多かった。

(p.12)

(p.13)

 ・ 学童疎開
 1944年(昭和19)6月に、国民学校初等科(当時の小学校)3年以上6年までの
児童で、縁故疎開できない児童を集団で疎開させることが、閣議で決定し
た。こうして、この年の8月ごろから東京をはじめ全国の都市で、学童疎開
が始まった。
 呉では、1945年(昭和20)3月19日の初空襲の翌日、20日に集団疎開実施
を決め、3月31日に、鍋・坪内・宮原・横路の各国民学校が出発したのをはじ
め、市内27校の3年生以上3732人が、広島県高田郡など7郡の寺119ヵ所へ
疎開した。
 疎開先の生活は飢えと不衛生に'悩まされ、年端もいかぬ児童たちの苦し
く悲しかった体験話にはことかかず、敗戦後の9月8日から10月にかけての
引き揚げで終わった。

 ・ 防空砲台
 第1次世界大戦後、航空機の発達に伴い、防空砲台の必要性が認識され、
呉軍港の周辺にも、高島台・灰ヶ峰など10ヵ所に30門の高名砲が設置され
たが、それらは旧式のものであった。そこで1944年から1945年にかけて、
防空高名砲台20ヵ所82門、機銃砲台12ヵ所49基103挺、探照灯台30ヵ所に
増強がなされた。それにともなって、警備隊員も5807人に増やされた。
 しかし、射撃密度などの不足によって、実際にアメリカ軍機が来襲した
ときにはほとんど役にたたなかった。

(p.13)

(p.14)

2 日本への空襲

(1) 本土初空襲

 1942年(昭和17)4月18日、米空母ホーネットから発進したB25爆撃機16
機が、東京をはじ轟め名古屋、神戸など主要都市を爆撃し、中国大陸に脱
出した。本土初空襲である。死者45人、重軽傷者135人、全半焼家屋289戸
の被害であった。
 ドーリットル中佐を指揮官とするこの奇襲は日本軍部をあわてさせた。
 本土空襲を防ぐため日本海軍連合艦隊は6月、ミッドウェー作戦を強行し
たが、作戦を誤り、大敗した。
 これを期に、日本軍優位の戦局は逆転し、その後は敗戦への道をたどる
ことになる。

 (2)成都からの空襲
 アメリカ軍は長距離爆撃機の開発を急ぎ、B29(超空そらの要塞=スーパーフォー
トレス)爆撃機が完成した。しだいに量産されてきたB29の基地が中国の成
都におかれ、1944年(昭和19)6月16日、同基地から63機が発進し、北九州
の5都市を空襲し、死者216人、重軽傷者376人、全半焼家屋318戸以上の
被害を出した。
 成都から九州への空襲は10回にわたって行なわれ、のべ363機のB29が
九州の主要都市を襲い、377人以上の犠牲を負わせた。

 (3)マリアナ基地からの空襲
 ・マリアナ基地の増強
 サイパン島の日本軍が全滅したのは1944年(昭和19)7月7日であるが、ア
メリカ軍は戦闘中からすでに飛行場の拡張工事を始めていた。そして1944
年11月24日には早くも100機以上のB29が集結し、マリアナ基地からの第1
回東京空襲が行なわれた。アメリカ軍はB29部隊の増強をすすめ、1945年
2月初旬にはサイパン・テニアン・グアムといったマリアナ諸島の各基地から
500機以上のB29が日本本土を空襲できる態勢となっていた。

(p.14)

(p.15)

 ・軍事施設への高高度精密爆撃
 マリアナ基地のB29部隊を統括していたアメリカ陸軍第21爆撃機軍団の
司令官は、ヘイウッド・S・ハンセル准将であった。ハンセル准将は高高度精
密爆撃(1万メートルの上空から軍事施設のみをねらう爆撃)を主張し、1944
年11月24日から1945年(昭和20)1月19日までの間それをこうてつ実行した
が、車上層部が期待した効果はあがらず、司令官を更迭された。

 ・都市への夜間無差別焼夷弾爆撃
 後任の司令官には、カーチス・E・ルメイ少将が任命された。ルメイ少将
はヨーロッパ戦線で、ドイツ諸都市への絨椴じゅうたん爆撃戦術を編み出した軍人で
あった。ルメイ少将は高高度精密爆撃をしばらくは行なったが、夜には日
本側の抵抗が弱いことを見抜き、大都市を約1500メートルの低高度から夜
間に焼夷弾で無差別攻撃することを立案した。一般住民が住んでいる都市
地域そのものが攻撃目標にされたのはこのころからであるb
 1945年3月10日の夜、東京大空襲が行なわれたのを始まりとして、名古
屋、大阪、神戸と、大都市が次々に焼き払われた。ほとんどが焼け野原と
化した大都市は、B29部隊の目標リストからはずされ、攻撃目標は中小都
市へと移った。
 中小都市へ攻撃は1945年6月17日から始まり、敗戦当日の8月15日まで
に57の中小都市に対して16回の攻撃が行なわれている(1回の攻撃で平均4
都市が襲われた)。呉市街地空襲は、そのうちの一つである。
 このような、非戦闘員に対する無差別攻撃は、日本軍が中国の諸都市に
行なっていた。
 1940年(昭和15)5月-9月、日本海軍の陸上攻撃機は、当時の中華民国の
首都・重慶に対してのべ182回の無差別爆撃を行ない、多数の住民を殺傷し
た。
 アメリカ大統領ルーズベルトはこれをみて、日本に対する報復爆撃の検
討を命じたといわれる。
 1945年3月17日に硫黄島が占領された後は、ロッキードP51戦闘機(ムス
タング)がB29の護衛をしながら来襲するようになった。日本側にはP51に
太刀打ちできる戦闘機はなく、アメリカ軍の日本空襲作戦はほとんど一方
的にすすめられたのである。

(p.15)

(p.16)

 C艦載機による空襲、艦砲射撃

艦載機による空襲も多かった。米海軍機動部隊・高速空母群から幾多の艦載機が飛び立ち、爆撃や機銃掃射を繰り返した。!944年10月10日の那覇大空襲や、1945年3月19日の呉初空襲は艦載機によって行なわれたものである。小回り
のきく艦載機は、小さな農村、漁村、山村にも襲来した。
 また、沖縄や、釜石、室蘭、釧路といった太平洋沿岸の都市は艦砲射撃にさらされた。このころ日本海軍には米海軍の侵入を防ぐ力はなくなっていたのである。

(p.16)

(p.17)

V 呉の空襲 −− わたしたちの呉か戦場になった日 −−

 呉は、全国的にみても戦争被害の大きかった街です。
 アメリカ軍の資料では、呉に対する投下弾量は以下のようになります。

  爆弾2011発(1374トン) 焼夷弾16万454発(1081.7トン)
  合計16万2465発(2455.7トン)

 この投下弾量は全国7大都市に次ぐものです。しかしこれは艦載機による空襲を含んでいないので、それを人れると数量はさらに増人することになります。
 また、空襲された回数が県内で最も多かったところです。「広島県下における空襲被害状況表」(1946年11月9日広島県警察部調査)によれば、広島県が空襲を受けたのは大小ふくめて合計46回で、そのうち「被害場所」として呉がみられるのは14回あります。県内空襲回数の約3分の1が、呉なのです。
 なぜ、呉はそんなにひんぱんに空襲されたのか。どのような空襲であったのか。
 わたしたちの呉が戦場になった日を、ふりかえってみましょう。

 右の地図は、1945年(旧和20年)7月1日〜2日の呉市街地空襲での、B29の航路図。(このとき呉の他に熊本、宇部、下関が襲われている。)

(p.17)

(p.18)

 1.呉が「真珠湾攻撃」された日 (1945年3月19日)
   ーー歴戦のアメリカ海軍第58機動部隊、呉を襲うーー

 1941年(昭和16)12月8日、日本海軍の機動部隊によるハワイ真珠湾攻撃で、アメリカ・イギリスなど連合軍との太平洋戦争が開始されました。当時の呉に住んでいた人たちは、熱狂してこの真珠湾攻撃の成功を喜びましたが、やがて呉が「真珠湾」と化す日が来るとは、夢にも思っていなかったことでしょう。
 1945年(昭和20)3月19日午前7時20分ごろから午前11時5分までにわたって、呉は軍港を中心として、アメリカ海軍第58機動部隊の艦載機約350機による激しい攻撃を受けました。
 呉に集結していた日本海軍の戦艦、航空母艦、巡洋艦その他多数の艦船は、この攻撃によって艦隊行動が不可能な状況に追い込まれました。
 この日呉を攻撃したアメリカ海軍第58機動部隊は、マキン・タラワ攻略戦、マリアナ沖海戦、沖縄・那覇大空襲、レイテ海戦、硫黄島攻略戦などに参加し常勝を誇ってきた部隊で、やがて開始される沖縄攻略作戦の前哨戦として、呉を襲ったのでした。
 一般市民にも多くの犠牲をもたらしたこの空襲は、呉空襲の「幕開け」となったのであり、また中国・四国地方での初めての本格的な空襲でもあったのです。

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 2.恐怖の白昼爆撃 (1945年5月5日)
    ーー広海軍工廠・第11海軍航空廠が壊滅ーー

 1944年(昭和19)11月から開始された、マリアナ基地のB29による爆撃は、軍需工場や大都市に大きな犠牲と損害をもたらしてきましたが、ついに、呉が初めてB29による爆撃を受ける日がやってきました。
 ねらわれたのは、広海軍工廠・第11海軍航空廠です。この軍需工場は日本海軍の航空機エンジン生産の拠点で、この時は勤労動員の学生を含む約5万の人たちが働いていました。
 1945年(昭和20)5月5日午前10時40分から午前11時11分まで148機のB29が広の上空を覆いつくしました。投下された爆弾の量は合計722発(578トン)で、工場施設は壊滅的打撃を受けました。広島県警察史や呉地方復員部の資料によれば、犠牲者の数は少なくとも140人以上となっています。
 鉄壁を誇っていたはずの対空砲火群は、この空襲にほとんど無力でした。軍側はこの実態を「損害は軽微」と発表して、さらに大規模な被災に市民を追い込んでいくことになるのです。

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 米軍『戦術作戦任務報告』にみる爆撃データ
●第73航空回の111機のB29が高度約5730メートル(1万8900フィート)から、 1トン爆弾434発(434トン)を投下した。
●第58航空回の37機のB29が高度約5490メートル(1万8000フィート)から、 500キロ爆弾228発(144トン)を投下した。
●合計して、148機のB29が爆弾を722発(578トン)投下した。
 爆撃効果の判定は以下のとおりである。
・広海軍航空機工場有視界攻撃で屋根面積の72%、7万2490平方メートルに 損害を与えた。
・広海軍エンジン・タービン工場
・レーダー攻撃で屋根面積の51.5%、11万6355平方Mに損害を与えた。

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 3.呉海軍工廠、壊滅 (1945年6月22日)
   ーー市民に隠された空襲ーー

 日本海軍の一大拠点であった呉。約60年もの間、次々と新型軍艦を世に送り出し続け、呉海軍の名を世界に響きわたらせていた呉海軍工廠は、この日、B29の爆撃によって壊滅させられました。
 1945年(昭和20)6月22日午前9時31分から午前10時43分までの間に、162機のB29が合計1289発(796トン)もの爆弾を、呉海軍工廠に投下したのです。 アメリカ軍の目標は海軍工廠の中でも造兵部(兵器工場)でした。戦後に使用するためだったのでしょうか、造船部にはほとんど爆弾は落ちていません。
 当時、呉海軍工廠では勤労動員の学生を含む約10万人が働いていました。造兵部はほぼ壊滅し、海軍工廠に隣接する宮原・警固屋地区、また安芸郡音戸町にも爆弾は降り注ぎました。
 この空襲は、翌日の新聞には「死者1名もなし」と報道されましたが、実際には少なくとも400人以上の人たちが犠牲になっています。その中には、呉市・広島県内をはじめ中国・四国地方からの動員学徒、女子挺身隊も含まれていました。
 呉市の戦災関係の公式記録である『戦災復興誌』に、この空襲のことは記録されていません。

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  米軍『戦術作戦任務報告』にみる爆撃データ
●第73航空回の104機のB29が、高度約5490メートル(1万8000フィート)から、250キロ爆弾を227発(57トン)、500キロ爆弾を204発(102トン)、1トン爆弾を416発(416トン)投下した。
●第58航空回の58機のB29が、高度約6430メートル(2万1100フィート)から、500キロ爆弾を442発(221トン)投下した。
●合計して、162機のB29が爆弾を1289発(796トン)投下した。
 27機がレーダー爆撃、135機が有視界爆撃だった。
 爆撃効果の判定は、以下のとおりである。
・呉海軍工廠屋根面積の72%、26万7794平方メートルに損害を与えた。

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 4.呉市街地夜間無差別大空襲 (1945年7月1-2日)
   ーー呉市史上で最大の火災、犠牲者およそ2000人ーー

 日本の大都市のほとんどを焼き尽くしたB29部隊は、6月中旬から中小都市の空襲を開始しました。呉はその重要な目標の一つとして選ばれ、B29部隊の「最大努力」による爆撃で、ついに市街地が焼き払われてしまったのです。
 B29が、曇り空の呉上空に達し第一弾を投下したのは7月2日の午前0時2分でした。燃え上がった炎を目印にしてB29は次々と呉市街地上空に侵入し、すりばち状の呉市街地の周辺から中心部へと焼夷弾を投下していきました。
 周辺部を焼かれて、市民は逃げ道を封じられ、防空壕に逃げ込んだ人たちも、猛烈な火炎や吹き込む煙にまかれて蒸し焼き状態になり、無残な死をとげました。
 呉を襲ったB29は合計152機、全部で16万454発(1081・7トン)もの焼夷弾が投下された空襲は、午前2時5分まで続けられました。
 この空襲で呉市街地は焼け野原となり、犠牲者は2000人以上ともいわれます。約337ヘクタールが焼失し、12万5千もの人が家を失いました。
 B29部隊の「最大努力」によるこの空襲は、呉市が始まって以来の大火災を引き起こし、市民の生命を奪って、くらしを破壊し、街の景色を一変させたのです。

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 米軍『戦術作戦任務報告』にみる爆撃データ
●第58航空回の53機のB29が、高度約3140メートル(1万300フィート)から、 50キロ膠化ガソリン焼夷爆弾M47-A2を1万3622発(470トン)投下した。
●同じく第58航空回の99機のB29が、高度約3140メートル(1万300フィート)から、250キロ集束焼夷弾E46を3059発(612トン)投下した。
 ※250キロ集束焼夷弾E46は、M69焼夷弾を48発内蔵したものである。 換算すると、呉には、M69焼夷弾が14万6832発、投下されたことになる。 合計、152機のB29が焼夷爆弾・焼夷弾を16万454発(1082トン)投下した。
●雲量が8-10あったので、132機がレーダー爆撃を行い、後から来た20機が有視界爆撃を行った。爆撃効果の判定は、以下のとおりである。
 ・呉都市地域損害面積は336.6h(1.3平方マイル)。

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 5.帝国海軍、最期の日 (1945年7月24-28日)
   ーー軍港・呉は戦場となった呉沖海空戦ーー

 3月19日の空襲によって艦隊行動が不可能になった日本海軍の艦艇は、被害を少なくするために、また燃料不足のせいで呉湾周辺に分散疎開されました。松の木で偽装するなど、ほとんど戦力のなかったこの「日本海軍残存艦隊」を目標として、アメリカ海軍第38機動部隊(第58機動部隊が改称)を中心とする連合軍の大艦隊は、このとき艦載機による集中攻撃をかけたのです。
 これはポツダム宣言を受諾させるよう、日本に圧力をかける目的で行なわれた「対日集中作戦」の第一陣でした。
 1945年(昭和20)7月24日から28日までの5日間に、のべ1845機にものぼる艦載機が来襲しました。
 呉湾で動けなくなっていた日本海軍軍艦は必死の抵抗を見せ、猛烈な戦いがくりひろげられましたが、それは一般市民を巻き込んだものでした。 軍艦をねらった爆弾やロケット弾は市民の頭上にも降り注ぎ、逃げまどう人には機銃掃射が浴びせられました。軍艦の対空砲火は市民の住宅にも炸裂しました。呉湾内外は戦場になったのです。
 ほとんどの軍艦は乗組員の多数を失って着底し、一般市民に少なくとも120人以上の犠牲をもたらして、世界的軍港・呉は、日本海軍の「墓場」と化しました。

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 6 爆弾と焼夷弾

(1)爆弾について

呉地域に投下された爆弾は、「B29爆撃機によって投下されたもの」と、
「艦載機によって投下されたもの」に大別される。このうち、爆弾が
「B29によって投下された」のは、5月5日の広海軍工廠・第11海軍航空廠へ
の空襲と、6月22日の呉海軍工廠への空襲であった。これら、軍需工場に
対する空襲に使用されたのは、以下の三種類の爆弾である。
 2000ポンド通常爆弾AN-M66(日本側の通称:1トン爆弾)
 1000ポンド通常爆弾AN-M65(〃:500キロ爆弾)
 500ポンド通常爆弾AN-M66(〃:250キロ爆弾)

(2)焼夷弾について
 焼夷弾は、B29部隊の日本都市に対する空襲で多用された。呉において
は、7月1-2日の夜間無差別市街地大空襲で、雨のように投下された。呉に
投下された焼夷弾は二種類であった。

 ●50キロ(100ポンド)膠化ガソリン焼夷爆弾AN-M47A2
 B29部隊が都市地域を爆撃するときに、ほとんどといってよいほど、先
 導機がこの焼夷爆弾を携行し、投下した。6発づつ集束されており、地上
 に爆発と火災による混乱を引きおこすのが目的であった。

 ●250キロ(500ポンド)集束焼夷弾E46
 これは、M69焼夷弾を2列x19本=38発内臓している集束焼夷弾である。
M69(6ポンド=2.7キロ)焼夷弾は、燃えやすい家屋が密集した日本本土の
都市攻撃用として、アメリカ軍が1942年に開発したものである。
 細長い六角形の金属筒で直径8センチ、長さ50センチ。ナパーム剤という
ゼリー状油脂を充填し、弾尾には麻布製の長いリボンがついていた。
 空中で、E46が38発のM69に分解するときにそのリボンに火がつくので、
空中に火の雨が降るように見えた。
 空襲を体験した人にとっては、もっともなじみ深い焼夷弾であった。

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 7 原爆投下計画と呉

 1941年(昭和16)、原爆製造計画である「マンハッタン・プロジェクト」を発足させて、アメリカは着々と原爆製造をすすめていました。1944年(昭和19)には日本に対して使用することを決定し、1945年(昭和20)4月27日には第1回原爆投下目標選定委員会が開かれました。その席上であげられた「目標地として検討に値する地域」の中には、他の16地域の名前と共に、呉も入っていました。最終目標地は広島・小倉・長崎となり、広島と長崎に投下されました。呉からは救援などで広島に出かけて、多くの人が二次被爆しました。

 8 呉空襲の特色

 呉の空襲は「B29爆撃機によるもの」と「艦載機によるもの」に大別されます。
 B29爆撃機による空襲は、軍事施設の破壊と一般市民居住地域の焼払いを期するアメリカ軍の戦略に従って行なわれました。5月5日の広海軍工廠・第11海軍航空廠への爆撃、6月22日の呉海軍工廠への爆撃、7月1日〜2日の呉市街地への無差別爆撃が、それにあたります。
 特に7月1日〜2日の呉市街地への無差別爆撃は、3月9日〜10日の東京人空襲に始まり日本中の都市を焼き払った非人道的で残虐なジェノサイド(みな殺し爆撃)の一つとして位置づけられるものです。
 アメリカ軍は、日本側の「労働力の弱体化」「戦意喪失」を無差別爆撃の大義名分としていましたが、それに対して空襲の恐ろしさを国民に知らせようともせず、バケツリレーによる初期消火などといった方法で立ち向かわせようとした日本側の無策ぶりも被害を大きくした要因です。
 艦隊機による空襲は、日本海軍の艦隊集結地・兵站基地としての呉軍港を壊滅させる目的で行なわれました。3月19日と7月24〜28日に呉軍港の日本海軍艦艇を襲ったのは、土佐沖まで接近してきた航空母艦から発進した艦載機群です。呉は日米両海軍の本格的な戦闘が行なわれた「戦場」となりました。戦闘には一般市民が巻き込まれ、犠牲を出しました。その点、呉空襲は沖縄戦と似た性格を持っていると言えます。

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W 呉の現在

 1 呉と基地

 (1) 軍事基地と「共存共栄」する「平和産業都市」呉は、海軍基地が設置されたことによって人が集まり、やがて「呉市」になりました。
 侵略戦争の拡大とともに基地は大規模化し、人口は増え、市域は拡大していきました。このことは、よく「発展」ということはで表現されますが、同時に「海軍に依存せざるを得ない」という、呉の体質ができあがっていったことは否めません。
 そして、アジア・太平洋戦争の末期には、呉は激烈な空襲をくりかえして受け、海軍とともに壊滅したのです。
 戦後の呉の最大の課題は、海軍が消滅してしまったところからどうやっ
て立ち直るか、でした。その悩み・迷いのなかから、海軍施設の平和的利用をしようという考えが生まれ、1950年(昭和25)6月に「旧軍港市転換法」が呉市民の圧倒的支持をえて、公布されたのです。それは「平和産業港湾都市」として呉があゆんでいく第一歩でした。
 しかし、同じ1950年に始まった朝鮮戦争は連合国軍総司令部(GHQ)の対日政策を変えてしまい、戦後日本の再軍備化を促進させました。それにともなって、呉には再び軍艦の姿がみられるようになり、やがて海上自衛隊の設置により「基地の街」という姿に戻って、現在にいたっています。
 海軍施設は、かなりの部分が産業用地として転用されましたが、現在も基地のある場所は、そのほとんどがいわゆる"一等地"であり、また呉湾内中心部の140万平方メートルが自衛隊占有海域となっており、民間船舶の立ち入れない場所となっています。市内の国道を、弾薬を積んだトラックが走ることもあります。
 呉市は「平和産業港湾都市」、そして「非核平和都市」を名乗り、同時に市の基本姿勢として、基地との「共存共栄」をうたっています。軍事基地・軍事施設とともに歩んできた呉の歴史を振り返ることにより、私たちは、呉の平和的な発展を思い描いていくことができるはずです。

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 (2) 海上自衛隊の沿革

 呉の海上自衛隊の前身は、旧海軍出身者で編成され、艦船は旧海軍の残存艦船でした。戦争中にアメリカ軍によって投下された機雷の処理をする掃海艦艇と、侵略戦争の政策で海外に行っていた日本人(軍人、軍属など)の引き揚げをする復員艦船が、その中心でした。
 以下、呉海上自衛隊の設置までの過程を示してみます。

 1945(昭和20)年12月1日……海軍省は「第二復員省」、呉海軍鎮守府は「呉地方復員局」となり、掃海艦艇は呉地方復員局の掃海部所属となる。
 1948(昭和23)年1月1日……掃海艦艇は運輸省海運総高の掃海艦艇部所属となる。
 1950(昭和25)年6月4日……「海上保安庁」設置で、掃海艦艇は第六管区海上保安本部所属に変わる。
  6月25日……朝鮮戦争が始まる。
  10月11日……朝鮮・元山神で、掃海開始。
    17日…掃海艦艇MS14号艇、元山沖で触雷沈没。死者1名。
 ※この年「警察予備隊」(陸上自衛隊の前身)が設立される。
 1952(昭和27)年4月26日…海上保安庁が「海上警備隊」に改称される。
  8月1日‥「保安庁」が設置され、海上警備隊は「警備隊」に改称される。
  11月1日……10個の掃海隊が結成され、「呉航路啓開隊」となる。
 1954(昭和29)年7月11日・「防衛庁」が設置され、保安庁警備隊は「海上自衛隊」となり、「海上自衛隊呉地方総監部」が発足。

 (3) 海上自衛隊・呉基地の特徴
・ 海外派兵の出撃基地
 1991年4月26日、自衛隊としては初めて掃海母艦「はやせ」、補給艦「ときわ」以下、掃海艇4隻が呉基地からペルシャ湾へ派遣されました。
 独立した主権国家としての初の海外派兵となったのです。さらに1992年
9月17日には、カンボジアPKOとして補給艦「とわだ」以下、輸送船2隻が派遣されています。
 湾岸戦争時にペルシャ湾へ掃海艇群を派遣、アフガン戦争時に補給艦群を、東チモールPKOに補給艦を

・ 掃海部隊基地
 
 呉は、現在日本に2群ある掃海豚群のうち第1掃海豚群「はやせ」以下10隻の基地です。掃海部隊は、「実戦」経験を積んだ唯一の海上自衛艦隊です。

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・ 潜水艦部隊基地
 呉は、現在日本に2群ある潜水隊群のうち、第1潜水隊群「ふしみ」以下の支援艦2隻と、潜水艦9隻の基地です(第2潜水隊群は横須賀)。1980年代後半から、潜水艦部隊基地の施設は強化されています。
 また、潜水艦の音紋(スクリュー音)情報を収集する音響測定艦「ひびき」「はりま」の2隻は呉にのみ配備されています。

・ 海上自衛隊教育の中枢基地
 呉には、呉教育隊と、海上自衛隊唯一の潜水艦教育訓練隊があります。江田島には旧海軍兵学校の流れをくむ幹部候補生学校と、第一術科学校があります。練習艦隊司令部も1994年1月、横須賀から移転してきました。
 呉は海上自衛隊教育の中枢基地といえます。
・ 海上自衛隊最大の燃料・弾薬補給基地
 旧海軍の地下タンク・トンネルタンクを利用した吉浦貯油所の貯油能力は11万5400キロリットルであり、海上自衛隊最大の燃料基地となっています。
 給油は陸上・航空自衛隊や、アメリカ軍に対しても行なわれ、艦船が接岸できる燃料補給専用桟橋もあります。
 また切串弾薬庫(江田島)には、1993年1月に海上自衛隊初の弾薬補給桟橋
が完成しました。呉補給所は、貯油量で、海上自衛隊の50パーセントをしめる、最大の貯蔵能力・補給能力を持っています。

・ IDDN(防衛統合デジタル通信網)の基地
 IDDNは、東京・市ケ谷(防衛庁所在地)を拠点にした、太平洋側と日本海側の2つの本線と、本線から枝分かれした支線であり、全国の陸上・海上・航空自衛隊基地を統合しています。以前は別系統であった、陸・海・空の指揮および通信系統が、これにより一本化されたのです。
 1990-1991年にかけて、呉総監部には2個のパラボラアンテナが設置されました。パラボラアンテナ基地は全国8ヵ所にあり、呉はそのひとつです。

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・ アメリカ海軍・核兵器積載艦の入港基地
 アメリカ海軍艦船の母港となっている横須賀・佐世保に次いで、呉にはアメリカ海軍艦船がよく入港してきます。
 その中には核兵器積載の疑いがある艦艇も多くあり、その数は1971年以降、1994年まで56隻にのぼっています。

 (4) アメリカ陸軍秋月弾薬蔽
   (在日米軍・第9軍・第17地域支援軍・第83兵器大隊)
 アメリカ陸軍秋月弾薬廠の司令部は、呉市昭和町・海上自衛隊潜水艦基地の隣に置かれています(1983年3月に江田島から新築移転)。
 傘下に広弾薬庫(呉市広黄幡町)、秋月弾薬庫(江田島町秋月)、川上弾薬庫(東広島市八本松町)、知花サイト(沖縄県)があります。
 広島県内3弾薬庫の弾薬貯蔵量は11万5千トンで、アメリカ軍が太平洋戦争中に日本に投下した爆弾総量16万トンのおよそ72パーセントにあたります。

・ 秋月弾薬廠の役割
 秋月弾薬廠には、1988年からアメリカ前方展開軍(実戦部隊)用の事前集積船に対して弾薬を補給する任務が変わり、実際の戦場と直結する度合いがより強化されました。
 1991年の湾岸戦争の時に、広弾薬庫からペルシャ湾のアメリカ軍艦船へ弾薬が運ばれたことは、記憶に新しいところです。
・ 住民生活と弾薬庫
 民家や公共施設と弾薬庫の間の保安距離は、アメリカ国防省の規定では660メートルですが広島県内の3弾薬庫から660メートル以内には1000月以
上の民家があります(ちなみにアメリカ軍岩国基地では弾薬庫から660メートル以上離して兵舎などが建てられている)。
呉市議会が過去6回議決した全面返還要求も、これまで無視されたままです。

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2 呉の戦災遺跡

 (1) 呉市戦災遭難者供養塔(呉市本町 寺西児童公園)
 1945年(昭和20)7月1-2日の市街地空襲で死亡された約2000人の方の冥福を析り、人類の平和を念願するために、この地区の有志が「呉市戦災死者供養奉賛会」を結成し市民からの篤志を得て、1950年(昭和25)9月23日に建立されたものです。
 呉空襲の市民犠牲者の聖地であるこの地では、毎年7月1日に地元主催の慰霊祭が行なわれています。

 (2) 地蔵尊・供養塔(呉市本町 和庄児童公園)
 この近辺にはたくさんの横穴防空壕があり1945年7月1-2日の市街地空襲の時には多くの市民が逃げ込みましたが、煙にまかれて大勢の方が亡くなりました。
 特に、この地蔵尊のすぐ奥の防空壕は550人という多大の犠牲者を出した場所です。この事実を後世に伝え死者の冥福を祈念するために、1963年(昭和38)7月1目地元の方々によって建立されました。

(3) 殉国の塔(呉市警固屋町1丁目)
 この塔は、1945年6月22日の呉工廠空襲によって亡くなられた動員学徒・女子挺身隊476人の冥福を祈って、警固屋町仏教婦人会の方々により1965年(昭和40)11月23日に建立されたものです。
 ここには以前、1トン爆弾の落とされた穴があり遺族の判明しない遺骨が埋葬されていました。
 呉における「ひめゆりの塔」であるこの地を訪れる人は滅多にいません。

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 (4) 呉海軍墓地(呉市上長迫町)
 海軍軍人・軍属の埋葬地として、1890年に海軍が設置した墓地です。
 戦後、整備されて1986年に呉市に無償譲与されました。
 ここには個人墓碑164基、慰霊碑88基があり(1994年9月現在)、慰霊碑は近年も相次いで建立されています。そのほとんどが、市民の戦争犠牲者の慰霊碑よりも大きく、碑文は海軍の「栄光」をたたえる内容になっています。慰霊祭には自衛隊も参加しています。

 (5) 入船山記念館(呉市寺町4)
 この地は長らく、亀山神社の鎮座地でしたが、呉海軍鎮守府の設置によって1889年には軍政会議所水支社、1905年からは鎮守府歴代長官の官舎として使用されてきました。
 戦後、1956年まで占領軍が使用していましたが呉市史跡となり1967年から一般公開されています。
 海軍を懐かしみ、賛美する内容の展示が多く、鎮守府長官の官舎は巨費を投じて1905年当時そのままに復元される予定です。

 (6) 第6号潜水艦殉難顕彰碑(呉市西三津田町 鯛乃宮神社)
 1910(明治43)年4月15日に岩国沖で遭難した第6号潜水艇の佐久間艇長をはじめとする乗組員14人の慰霊碑です。
 「死ぬ寸前まで任務を遂行した」として、佐久間艇長は「軍神」とされ、軍歌や、戦前の教科書にも登場し「国民精神の鑑」とされました。
 毎年4月15日には呉市関係者も出席して慰霊祭が行なわれています。

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 (7) 工僚神社(呉市広両谷3丁目 舟津神社)
 1945年5月5日の広工廠空襲での犠牲者の霊を慰めるために建立され、1946年(昭和21)11月24日に建立鎮座祭が行なわれました。
 それ以来、一般に広地区工業関係殉職者の霊も合祀されています。
 毎年5月5日に慰霊祭が行なわれています。

 (8) 戦死者の碑(呉市広黄幡町)
 米軍費幡弾薬庫の区域内にある山の上にあります。
 1945年5月5日の広工廠空襲での一般地域の犠牲者を慰霊するために、長浜・津久茂振興会によって1950年(昭和25)5月5日に建立されました。
 碑の裏側には、「昭和20年5月5日戦死」として12人の方の名前が、また、発起人の方の名前などが刻まれています。

 (9) 殉職者招魂碑(呉市二河町 スポーツ会館前)
 この碑は1922年(大正11)12月23日に建てられました。
 1893年(明治26)から1945年(昭和20)までの呉海軍工廠での殉職者を祀る招魂碑でしたが、1975年(昭和50)8月15日から、呉軍港創設以降の呉海軍鎮守府管下非戦闘員の殉職者が合祀され、名簿も納められています。
 毎年7月1日の呉戦災記念日にはここで慰霊祭が行なわれています。

 コメント記事

  同じ戦争犠牲者でも、慰霊は?
 軍港であるがゆえに・数多くの犠牲者を出した呉。
 呉市内はもとより倉橋島・江田島・能美島などにも慰霊碑が建立されています。軍関係の慰霊碑は大きく立派で、行政の援助もあり広くその存在が知られているのに対し、市民の戦争犠牲者の慰霊碑は小さく、行政の援助もなく、その存在さえほとんど知られていません。
 軍関係の碑文は「英霊」「勇戦敢闘」など、戦争を懐かしみ軍の栄光をたたえる内容がほとんどです。軍隊の論理を至上のものとした戦時中の思想が、戦争犠牲者の慰霊にも見事に反映され、次代に引き継がれようとしています。

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 ・ 謎の地下工場(呉海軍工廠、広海軍工廠・第1海軍航空廠)
  1. 呉海軍工廠の地下工場
 呉海軍工廠の移転計画は1944年(昭和19)3月に作成され、一部移転はその年内に、主要工場の移転は1945年から開始されました。地下工場への移転は、空襲を受けても戦争を継続しようとする軍部の強い意志のあらわれでした。
 広海軍工廠・第11航空廠の地下工場への移転も同時期に行なわれています。呉海軍工廠の最大の地下工場は「宮原第一地下工場」です。幅370メートルの間に少なくとも19の入り口があり、奥行は120メートルありました。

  2. 広海軍工廠・第11海軍航空廠の地下工場
 広海軍工廠・第11海軍航空廠は、日本海軍の航空機エンジン生産の拠点でした。
 空襲をさけて生産を続けるために、この軍需工場は中国・四国地方に幅広く分散疎開され、また工場周辺の山ぞいには多くの地下工場が造成されました。
 その数は88ヵ所にもおよんでおり、5月5日の空襲後もそこで部品生産が続けられました。
 この地下工場や防空壕の掘削には、徴用されていた朝鮮人も使用され、広地区には多くの朝鮮人用の宿舎がありました。
 現在のアメリカ陸軍の広弾薬庫も、この地下工場の跡を利用して造られています。

  3. その他
 現在使用されている長の木トンネル、魚貝山トンネル、旧黒瀬トンネルなども、もとは海軍の地下工場・軍需倉庫として造られていたものです。
 他にも、呉市内各地・倉橋島・江田島・能美島などに、地下工場の跡は数多くみられます。
(p.49)

(p.50)

X 資料と参考文献

1 呉空襲の記録とアメリカ軍の記録

 呉空襲について公表された記録は、戦時中の戦意昂揚を図る不正確な新
聞発表と、市長が概数を簡単に報告した呉市議会議報告(6月22日の呉海軍
工廠の空襲は報告なし)がある。
 戦後、消防署の資料を基に『呉市戦災復興誌』として出された(6月22日
の呉海軍工廠の空襲は記録にない)簡単な被災史と、警察署の資料を基に
『広島県警察百年史』に記載された記録がある。
 しかし、統計の基になった個別の被災報告記録や罹災簿は未発見で、正
確な記録の基礎資料がないため、本当の数や状況は不明である。
 それに対し、アメリカ軍の記録は正確で、マリアナ基地のB29部隊が日
本を空襲した時の『戦術作戦任務報告』と、戦後、今後の戦争に役立てる
ために空襲の精密な状況を調査した『米国戦略爆撃調査団報告』が米国立
公文書館に残されている。
 アメリカ軍は、事前に、詳細な偵察写真を撮り、それを地上情報(スパイ
などから得た資料)および、日本軍からの押収文書や日本兵捕虜に対する尋
問と総合分析し、建物の名称や工場の配置・構造を調べ、攻撃目標の地図と
詳細な建物構造の分析資料をつくった。
 その上で気象観測を行なって、爆撃目標を決め、効果のあがる爆弾・焼夷
弾の種類と爆弾量を決めて爆撃し、その状況を写真や映画に撮って、効果・
被害状況を判定していた。
 また、日本軍の反撃状況や米軍の被害状況と救難体制などを記録し、報
告した。その記録が『戦術作戦任務報告』である。
 その記録と実際の爆撃被害の状況を照合し、今後の戦争で効果的な作戦
を遂行するため、戦後、占領した日本を徹底的に調査した。その『米国戦
略爆撃調査団報告』の中に、呉市や海軍工廠などから提出された各種の資
料、空襲被害の調査報告書や市民からの聞き取り資料も入っている。
 また、米軍の空襲記録と空襲写真、戦後撮影した被害状況のカラー写真
が入っており、呉空襲の記録を調べることのできる貴重な資料となってい
る。
 「呉戦災を記録する会」が、戦災展で展示する写真や映画はその中の資
料の一部を利用したものである。

(p.50)

(p.51)

 2 参考文献(呉の戦災を調べるための主な資料)
 ーー行政が刊行した本ーー
『広島県警察百年史』 広島県警察本部 1971年
『呉市史』呉市(第5巻=1987年、第6巻=1988年第7巻=1993年、
  第8巻=1995年)
『呉市戦災復興誌』呉市 1959年
『広島県戦災史』広島県 1988年
『呉の歩み』呉市1989年

 ーー呉の空襲・戦災、歴史を知るための本・ビデオーー
『赤い月の街』(16mmカラー映画・35分、および、ビデオ。)
  呉の戦災を記録する1フィート運動呉市民の会 1986年
『改訂版 呉空襲記』中国新聞社 1979年
『日本の空襲七中国・四国』日本の空襲編集委員会 三省堂 1980年
『呉消防史 望楼は語る』北村恒信編 1978年
『広島県の歴史』後藤陽一著 山川出版社 1972年
『地下壕に埋もれた朝鮮人強制労働』広島の強制連行を調査する会編
                 明石書店 1992年
『讐ゆるマスト』山岸一章著 新日本出版社 1981年

 ーー日本の空襲、戦時中の実態をを知るための本ーー
『東京大空襲・戦災誌』(全5巻) 東京空襲を記録する会 1973年
 ※この書は、日本側・アメリカ側の公式資料(政府・軍)や、体験記などが
  豊富に掲載されていて、日本の空襲を調査する根本資料となっている。
『戦争中の暮しの記録』暮らしの手帳編・発行 1973年
『中小都市空襲』奥住喜重著 三省堂選書 1988年
『改訂大阪大空襲大阪が壊滅した日』小山仁宗著 東方出版 1990年
『「戦前・戦中」用語ものしり物語』北村恒信著 光入社 1991年
『天皇裕仁と東京大空襲』松浦総三著 大月書店 1994年
『天皇裕仁と地方都市空襲』松浦総三著 大月書店 1995年
『平和博物館・戦争博物館ガイドブック』歴史教育者協議会編
                   青木書店 1995年
  (1995年現在、以後は、作製中。)
ーーアメリカ軍の日本空襲記録ーー
『米軍資料日本空襲の全容マリアナ基地のB29部隊』小山仁示訳
                        東方出版 1995年
『ニミッツの太平洋海戦史』C=W=ニミッツ、E=B=ポーター著 1962年
『TACTICALMISSIONREPORT』(戦術作戦任務報告)
米陸軍第21爆撃機軍団 1945年、※
『THE UNITED STATETS STRATEGIC BOMBING SURVEY』
  (米国戦略爆撃調査団報告)  米国戦略爆撃調査団 1947年※
 ( ※の資料は国会図書館にマイクロフィルムで保存されていて、
   閲覧・コピーが可能である。)

(p.51)

(p.52)

 おわりにーー呉の戦後は終わっていない!一ー

 ひとむかし前どころか、半世紀もたった昔の空襲や戦時中のでき事に、いつまでもこだわり続けるのは、なぜか。
 無念の涙をのんで散った「殉国の塔」の乙女たち、防空壕でむし焼きになりススだらけで倒れた世や丁どもたち、空襲で焼かれて傷つき倒れ、家や財産を失なった多くの犠牲者を慰めるために、戦後を牛きた私たちは何をすべきだったのでしょうか。
 ピカでやられ、呉よりはるかに悲惨であったヒロシマは、市民の運動と行政の施策もあって、まがりなりにも被爆の実態が明らかにされ、慰霊の行事や「語り部」による体験の継承、二度と戦争を起こさぬための記念館づくりなど、市民の心に犠牲者の願いも届いているようです。
 原爆で焼かれようと、爆弾や焼夷弾で殺されようと、一人ひとりの命や無念の思いは同じであり、都市は違っても取り組むべきことは同じではないでしょうか。
 私たち呉市民の平和を願う運動の弱さが、戦争で犠牲になった多くの人びとを放置し、その無念さも忘れさせて、あの惨禍を再び繰り返す道を歩んでいると思えます。
 呉の栄光は「戦艦大和」の建造と「海軍の街」、そのために被った戦災・空襲の苦難は「受認すべき犠牲」との思いが市民の心をとらえているのでしょうか。
 思いはともあれ、「どんな被災の実態であったか、犠牲者にどう執いるか」は、戦争の後始末として、戦後なさねばならぬことであり、それをなし終えないでは、「戦後」は終わらない!
 戦災を体験した市民が、もっと多くの「語り部」となって、次の世代に体験を伝える運動を盛り上げることが何より大切です。そうすれば、呉市の行政も資料の収集と展示を充実させてくれるし、戦災犠牲者の無念の思いに応える道もひらけてきます。
 「戦争を知らない」若者が、戦災体験を受け継ぐことができ、平和な未来を築く手がかりを得ることができたとき、「戦後」が終るのだと思っています。

(p.52)

(p.53)

アジア・太平洋戦争および呉の戦災略年表

1931年(昭和6) 満州事変をおこす(日中十五年戦争の始まり)。
1933年(昭和8) ドイツ・ナチス政権が成立。日本、国際連盟を脱退。
1936年(昭和11) 日独防共協定を締結(翌年、日独伊三国防共協定で「枢軸」結成)。
1937年(昭和12) 日中全面戦争を始める。南京大虐殺事件。防空法を制定する。
1938年(昭和13) 国家総動員法を制定する。綿、ガソリンが切符制になる。
1939年(昭和14) 第2次世界大戦が始まる。国民徴用令による徴用が始まる。
1940年(昭和15) 日独伊三国同盟締結。
大政翼賛会、大日本産業報国会が結成される。
町内会・隣組を設置。米、みそ、醤油、砂糖、マッチ等が切符制になる。
1941年(昭和16) 国民学校令が公布される。日ソ中立条約締結。米が配給制になる。
12月8日 真珠湾を攻撃し米・英・蘭に宣戦布告、アジア・太平洋戦争開戦。
1942年(昭和17) 米海軍機動部隊による東京初空襲。ミッドウェー海戦で日本海軍が敗北し、戦局の転機となる(日本軍敗退の始まり)。
1943年(昭和18) イタリアが降伏。日本で学徒動員が始まる。
1944年(昭和19) サイパン島が陥落。航空機による特攻作戦が始まる。マリアナ基地からB29部隊による空襲が始まる(高高度精密爆撃)。建物疎開が始まる。
呉市の人口が40万を越える。
!945年(昭和20) 3月、硫黄島が陥落。B29部隊による大都市無差別焼夷弾攻撃が開始される。
3月19日 呉軍港が艦載機により空襲(中国地方で初の本格的空襲)をうける。
31日 呉近海へ機雷投下始まる。
呉市の学童疎開が始まる。
4月 1日 アメリカ軍、沖縄本島に上陸。
27日 呉が原子爆弾の投下候補地としてあげられる。
5月 5日 広海軍工廠・第!1海軍航空廠をB29が爆撃。7日ドイツが降伏。
6月17日 中小都市に対するB29の無差別焼夷弾攻撃が開始される。
22日 呉海軍工廠をB29が爆撃。23日沖縄が陥落。
7月1-2日 呉市街地をB29が無差別焼夷弾攻撃。24〜28日呉沖海空戦。
8月 6日 広島に原爆を投下。8日ソ連が日本に宣戦布告。9日長崎に原爆を投下。
15日 日本はポッダム宣言を受諾し無条件降伏をする。
9月 2日 アメリカ戦艦「ミズーリ」艦上で、降伏文書に調印し、戦争を終結する。



呉の戦災--あれから半世紀くりかえすな--

発行年月日 1995年6月22日
発行者 呉戦災展実行委員会
編集委員 朝倉邦夫(呉戦災を記録する会) 是恒高志(全教広島海田支部)
武智碩一(歴史教育者協議会) 林茂(非核の呉港を求める会)
平岡典道(高教組平和教育推進部) 平賀伸一(呉戦災を記録する会)
吉田明雄(呉戦災を記録する会)
発行所 呉戦災を記録する会
〒737呉市宮原3丁目4-23(朝倉邦夫方)
(TEL・FAX:0823-23-0104)
印刷所 株式会社ユニックス


(p.53)





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