「大和ミュージアム」 課題・見学記

 「呉市海事歴史科学館」 別称―「大和ミュージアム」見学

                  伊藤 英敏 ( 日本民主主義文学会呉支部 )

 《その1》

 二〇〇八年二月十四日、呉革新懇談会の呼びかけで、呉市海事歴史科学館(別称 「大和ミュージアム」)を見学した。
開館2年余りで入館者三百万人突破という頃の熱気はないが、まだ賑わいを保っていた。

 この施設は計画当初から、目的や内容や経営に多くの疑問が提起されたが、前市長の強引な建設計画に共産党を除く全ての会派が賛成し、約六十億円かけ三年前の二〇〇五年四月に竣工した。

その直後から来館ブームが新聞紙上をにぎわし、町おこしの成功例との意見がある一方で、前市長の市職員採用での汚職が発覚し、逮捕・有罪という異常事態を招き、玉虫色の評価が市民の間でささやかれている。

 その後このブームに便乗して、隣に海上自衛隊が退役潜水艦を陸上げし、内部を一般公開するという前代未聞の計画を立案し、目立った反対運動もなく、防衛省の予算を使って、一年前の二〇〇七年に竣工した。

二つの施設が呉市の新名所として、今観光パンフなどで大々的に宣伝されているが、戦艦大和の模型と潜水艦の写真がデカデカと載り、呉の歴史はいかにも現在過去とも軍事色に塗りつぶされているかのようである。

 実際、両施設に隣接するスーパーの二階通路から見渡すと、右手に巨大潜水艦、左手に大和ミュージアム、そしてその間の道には、沈没した戦艦「陸奥」から引き上げられた、長さ二十m程の主砲身が置かれている。

潜水艦が陸上げされて初めて、雨の夜車でその道を通った。台座に高く据え付けられた四十m程の潜水艦はライトを浴びて、通行する人々を頭上から圧迫し、道路際に無造作に置かれ主砲身は、突然目に飛び込んで来て驚かせる。軍事基地に飛び込んだような錯覚に襲われ、戦慄が走った。

今まで戦争を考える時、兵器面の検討も実物を身近に見ることもなく、文学や写真や映像など少し離れた所からみてきた。戦争の本質に迫るのは兵器や戦術や戦略からではなく、まず全体像をつかみ、その上で個別の事実を評価していく方法が有効だと信じていたからである。

しかし現在、現行憲法では軍備の不保持を明記しているにもかかわらず、遵守すべき政府や自治体が過去・現在の巨大武器をこれ見よがしに陳列している。

兵器を今までのように国民の目の前から隠すのではなく、堂々と展示し兵器の日常化を計っている。
この潜水艦に「鉄のくじら館」の愛称をつけ、子どもたちを誘っているのもその一例である。

その頃自己紹介する時呉市民と言うと、「大和ミュージアムはすごいですね」と挨拶代わりに言われることがあった。その人がどんな意味を込めているかつかめないし、見学したこともないので、反論どころか意見の交換も成り立たず、気まずいままに終わることが多かった。
「反対だから、見ない、聞かない。しかし、言えない」という立場が価値あるのかを考えてみた。大砲も潜水艦もその時代の重要な兵器である。しかも戦艦「大和」は第二次世界大戦の趨勢を決するほどの、重要な役割を担って建造された。戦争をもっと幅広い視野から捕らえるために、今まで私の中で空白だった兵器面から追究することの必要性も感じていた。

開館二年目の二〇〇六年夏、意を決して初めて見学した。

その日は夏休みで、ブームの最中あったので館内はごった返していた。五百円の入館券を買い入場すると、目の前に三階まで吹き抜けのメイン広場「大和ひろば」があり、その中央に全長二十六m幅三。九mの、戦艦大和の十分の一の巨大模型が据えられていた。
しかし空間が広大なので小さく見えた。
世界最大最強戦艦と呼ばれ、写真ではその迫力を誇示していたが、私には進水式を待つ巡視艇にも、「宇宙船艦ヤマト」のセットにも見えた。

実物はこの縦横十倍、面積百倍、容積は千倍もある。そこで三千三百人余りの乗組員が生活し、戦い、そして死んでいったことが、いかに想像力を働かせても実感がわかない。
巨大戦艦も武器の臭いが剥ぎ落とされて、「武器は戦争も平和も語らない」という無機質な空間があるのみである。

一般に博物館には中心的な展示物があり、人々に感銘を与えたり、考える材料を提供したり、その後の人生に影響を与えたりする。

例えば、広島平和祈念資料館では原爆投下による惨状を再現することにより、原爆兵器の威力や原爆病の影響を明らかにし、戦争被害を通して、「ノーモア ヒロシマ」と平和への願いを示している。

他の例では、ベトナムの首都ハノイの「ベトナム戦争記念館」の地対空ミサイルがある。ミサイル発射装置は高さ二十mもある巨大兵器で、空に向かって林立し、いかにも発射せんばかりであった。
それを見た時も戦慄し、展示することに疑問をもった。
しかし、その後館内を見学していくうちに、アメリカ空軍のナパーム弾や枯葉剤攻撃を阻止する上で、ミサイルが重要な役割を果たしたと説明を受け、防衛のための武器を初めて理解した。

では戦艦大和はどうであろうか。侵略戦争である太平洋戦争で使われた兵器、また海上特攻として沖縄行きを命ぜられ、アメリカ軍に撃沈された大和の戦死者をどう評価すればいいのか。このスマートな模型は何も語ってこない。

「大和ひろば」では大勢の人々が、よいスポットを求めて行き来し写真をとっている。それは単なる記念写真の背景にしかなっていない。
戦争を考えるヒントがあるのではないかと期待してきたが、いくら眺めてもそれは浮かんでこない。次の展示コーナーを期待して、早々と離れた。

最初の展示室「呉の歴史」コーナーは雑踏のようで、ゆっくり見ることもできず、人の肩越しに見学した。初めての写真や資料が多かった。

@ 呉鎮守府開庁までの歴史

ペリー来航から明治維新へと進む中で、欧米列強のアジア進出に対抗して危機感を抱き、軍備増強に望む明治政府の意向によって海軍が生まれ、西欧技術を導入し、呉に鎮守府が置かれた道筋を展示している。

呉に鎮守府を置き海軍工廠を造るためには膨大な敷地を必要とし、多く住民が土地の買収・立ち退き・移転に関係した。
また呉で一番有名な亀山神社も勅令で移転させられ、その跡地に鎮守府司令官宿舎建設された。政府のこのような施策に対して、市民側からの反応や問題点などは全く触れられていない。

A 呉海軍工廠の設立と増強

呉海軍工廠内で新造された軍艦・魚雷・大砲・甲鈑が並び、技術は西欧より習得から国産化への道をたどり、自前で軍艦・兵器を製造する力量が付いたことが述べられている。鎮守府高官の業績の羅列は、呉市の歴史というより海軍史に比重が置かれていた。

B 「第六潜水艦」の事故〔1910年発生〕

「第6潜水艇」は訓練中に事故を起こし、乗組員十四名全員が死亡した。そのときの佐久間 勉艇長の遺書の一部として、「サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ」を紹介している。その態度は危機に際しての軍人として沈着冷静な対応として、「世界の人々に深い感銘を与えました」と解説されている。

C 大戦景気 「職工黄金時代」

市民生活の展示は全体的に大変少ないが、大正から昭和初期、芸術・スポーツを楽しみ、軍拡・軍縮の影響を大いに受けた職工の生活や、その中で活躍した文化人や団体が紹介されている。
宮路嘉六〔労働文学〕・宇高伸一〔演劇〕・渡辺直己〔歌人〕藤井清水〔作曲〕などの他に、アララギ歌会・呉ロンンバルジャ管弦楽団、スポーツでは、中学校野球大会〔甲子園〕・駅伝・全国バレーボール大会なども紹介されていた。呉市が軍事だけではなく、文化の面でも高揚した時期があったと説明されている。

その中で有名な歌人、渡辺直己の代表歌として紹介されているのは、「涙ぐむ母に訣れの言述べて 出で立つ朝よ青く晴れたる」である。
これを読むと、出征の日に晴れ晴れとした顔で、母に別れを告げているように解釈できるが、別の歌「細々と欠けたる月に対ひつつ戦いは竟に寂しきものか」をあげてみると、中国大陸の戦場での厳しい体験をもとに、戦争の非情さに対して厳しい目を向けているのがわかる。
かれにはこの両面があると思うのだが、ここでは前者の一句だけが紹介されている。一人の歌人を紹介するのに偏ったものと言わざるを得ない。

D 広海軍工廠の独立〔一九二三年〕と第十一海軍空廠の成立〔一九四一年〕

海軍の装備は艦船とともに航空機にも及び、それを作製する施設の強化・拡充が計られました。そして次々と新型の航空機が開発されていきます。

水上偵察機・飛行艇・艦上攻撃機・局地戦闘機など二十種類の飛行機が製造されました。その写真や模型が展示されています。

ここまで来て気付いたのだが、海軍や呉海軍工廠とともに、当時の呉市民生活に触れる内容を期待したのだが、実はそれは肩透かしで、この施設の名称通り、呉市「海事歴史」科学館であるのだ。

米騒動に立ち上がった貧しい市民の願いや、戦争を現代人の眼からとらえるなどのテーマは避けて、海軍から見たその時々の詳しい説明に過ぎないのだ。
だから兵器進化や海軍魂などを無批判に展示する一方で、苦い敗戦の経験を経て日本人が獲得した、過去への反省や平和への願いの視点を入れないで、戦前の価値観をそのまま引きずっているように思えた。

 このような価値観をもとに戦艦大和を展示するならば、どのような方向に話が進んでいき、どのような材料を提供するのだろうか。そこのところをよく見て、じっくり考えようと思った。

これまでが前半部分で、これから本番の戦艦大和のコーナーへと続く。

    (つづく)  瀬戸文学通信 第197号(2008年5月15日)所載

 《その2》

 いよいよ「大和」コーナーである。
 名称は、「技術の結晶 戦艦大和」となっている。
 入り口にVTRがあり、「大和」建造の歴史を簡単に解説している。
 要約すると、ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約の脱退
(一九三六年)を見越し、軍部は仮想敵国アメリカに対抗して、巨大戦艦を計画した。
海軍首脳は、戦艦の主砲口径を最大にすれば射程距離も最大になり、戦艦同士の砲撃戦で敗れるはずはない。
だから最大最強の戦艦は不沈艦と呼ぶにふさわしく、製造国は不敗の地位を獲得したことになる。
資源小国日本が資源大国アメリカに勝つにはこの方法しかなく、量より質で対抗しようと考えたのである。
すなわち、「アメリカが建造出来ない巨大戦艦」が、至上命令であった。
 しかし巨大戦艦建造には、海軍保有の最新技術を駆使するだけでは間に合わず、技術的に未知なる部分については、
呉海軍工廠内の技術者と職工による、現場での開発・改良によって乗り越え、
その例として電気溶接・先行儀装・ブロック建造・大型工作機械などをあげ、結果工期を短縮したと紹介している。
 VTRの先に、当時使用された実物の工具や設計図、造船船渠・工作機械(水圧プレス・旋盤)の写真がある。
 最後に、「大和」進水式の写真と説明がある。
 「極秘に建造された『大和』の進水式では、軍楽隊の演奏も参加者からのは拍手や万歳もなく、建造に関わった限られた人のみが立ち会うひそやかなものでした。
この時、呉市内では例外的に早朝から偽装の海軍陸戦隊による市街戦演習が行なわれて、市民の耳目をそちらに引きつけていました」
 ここまで海軍と呉市民の関係を直接述べることはなかったが、始めて接点が生まれている。
 その他の写真の説明文を注意深く読むと、いくつか接点がある。
 写真 造船船渠
 「建造を秘密にするために、造船船渠には屋根やシュロ縄がかけられていました」
 写真 人山の証
 「『やまと』建造をきっかけに防諜態勢が強化され、呉工廠を見下ろせる山への立ち入りの際も、このような許可証が必要でした」
 写真 目隠し塀
 「軍港が見えないように呉線の面倒八五五mにわたって張り巡らされたトタン板の目隠し塀」
 これらを総合すると「大和」は秘密主義の下に建造されていたことが判る。
 その点について、コーナーの冒頭にも次のようにも述べられている。
 「『大和』型戦艦は構造がきわめて複雑で、予定通りに工事を完成させるには緻密な計画が必要でした。
また機密保持も工廠の設備から市民生活にいたるまであらゆる面で徹底され、細心の注意が払われました」
 説明文の後半部分では、軍艦建造には機密が必要とさりげなく触れているが、具体的にはどんなものだったのだろうか。
 私が注目するは、大屋根・塀・トタン板・遮蔽物等の構造物だけでなく、形が見えない市民の心中である。
海軍は「見ざる、聞かざる、言わざる」とタブー視され、市内を軍人・特高・警官が街を閑歩していた。
社会内部にタブーがあると、それを悪用する組織によって肥大化し、自由に語られていた領域にまで侵入し、表現の萎縮現象が始まる。
市民は自らの言動が摘発され『非国民』のレッテルを貼られるのを恐れ、周囲を警戒し本心を隠していたのではないか。
 前の説明では実行者が隠され、「緻密な計画」や「機密保持」が独り歩きしてあいまいである。それを除くため主語を入れ、私が改作してみた。
 「海軍は機密保持のために、市民のあらゆる面を監視し、微細なことまで徹底的に統制しました」
 「市民は軍人内閣の示す法令を守らされ、戦争・徴兵・勤労動員・学徒動員・経済統制などの重要施策について、疑問をはさむ余地すらありませんでした。
まして戦争に反対する行動は、憲兵に逮捕され軍法会議にかけられるという恐怖心を植え付けられていました。
終戦の年には空襲による死の恐怖と、銃後の守りの運動に駆り出され、心身とも大変窮屈な生活を味わいました。
『大和』について、噂ぐらいしか知りませんでした」
 「『大和』は呉市民の誇りであった」と言う人に会ったことがあるが、心中に誇りと窮屈さがどう共存していたか聞かなかったことを残念に思う。
 この施設の建設目的の一つに「わが国の歴史と平和の大切さについて認識していただく」とある。
平和を考えるには、戦争に至る歴史を含めて、政治・経済・文化・教育・産業・思想などをひっくるめて考えなければならない。
この説明では、当時の市民にとって「大和」が誇りなのか、それとも窮屈さを招く存在なのか、判断する具体的な資料はない。
「呉市立」の公共施設であるからには、市民の視点に立った説明が必要であると思う。

 次にいよいよ竣工した「大和」の戦闘が展示されていると期待した。ところがなぜかまた、「大和」の技術であった。
仕切られた部屋には巨大スクリーンがあり、CGによって「大和」の部分や装備が拡大・再現され、勇ましい音楽と激しい口調で放映されていた。
 その反対面に「大和」の巨大イラストがあり、十一ヶ所の説明があった。
 そのいずれも「大和」の技術は、現在も利用されていると結ばれていた。
 「大和」の技術        現代の技術
 ・ ブロックエ法・先行艤装 →造船業・高層ビル建設
 ・ 生産管理システム →世界一の造船大国
 ・ 精密光学機器 →世界有数の精密光学機器産業
 ・ 46センチ3連装主砲 →原子炉の水漏れ調査試験
 ・ 球状艦首(バルバスバウ) →大型タンカー〜漁船に利用
 ・ 弱電技術 →弱電(家電)技術の基盤
 ・ 製鋼技術 →特殊鋼の製造
 ・ 発電と配電技術 →大型発電機の発達を促進
 ・ 主機(タービン)
 ・ 推進器(スクリュー) →鋳物技術の基盤
 ・ 操縦性能(舵)
 例えば「精密光学機器」の説明は、つぎのようである。
 「目標までの距離を測る『大和』の十五m測距儀は世界一の大きさと性能を持っていました。
二組の上下像合致式とステレオ式の三連装式で構成され、目標を正確に測距できました。
こうした技術は戦後カメラなどの精密光学機器に大きな影響を与え、日本の精密光学機器産業を世界有数のものに育て上げました」
 技術に疎いのでその真偽を質すだけの力量はないが、どうも合点が行かない。
聞きかじった知識によると、生産管理システムについては、アメリカのフオード社の自動車製造ラインのシステムを艦舶用に改良したものだし、
球状船首は他の戦艦建造時に開発したものを、「大和」でも採用したのである。
 「大和」には、約四年の歳月と一億三千八百万円(一九三六年当時)の建造費をかけたにもかかわらず、「壮大な無駄」という評価が付きまとっている。 《参考までに下記に注:記録する会》
それを覆すために「その技術は日本の復興と高度成長を支え、現代にも受け継がれています」という誇大評価につながっているようにしか思えない。
 「戦争は悪いことばかりではない。技術の進歩にも貢献した」という意見もある。
それに対しては「もし戦争に費やした全戦費を技術開発に投入したら、もっとすばらしい技術を開発できたはずである。
しかも一番大切なことは人が死ぬことはない」という言葉を送りたい。
 次は「大和」の戦闘コーナーであるが、名称は「大和の生涯」となっている。
「大和の最期」を写真で見たことはあるが、その他の知識は「戦艦大和の最期」(吉田 満著)しかない。
その不足を補い、「大和」の最期について新しい発見を期待したのであった。
 最初の説明は
 「昭和十六年十二月十六日に竣工後、『大和』は連合艦隊旗艦として海軍作戦の指揮全般にあたりましたが、
すでに主役の座は戦艦から航空機へと移っており、『大和』は支援任務が多くなります。
戦争終結時には沖縄特攻作戦に出撃、最期を迎えました」である。
 次に4枚の大型パネルによって、西太平洋の地図に海戦位置、『大和』出撃航路が示され、簡単な説明がある。
@ ミッドウェー海戦(昭和十七年六月四〜六日)
 「ミッドウェー島攻略とアメリカ機動部隊の撃破をめざす南雲機動部隊の支援のため、『大和』以下第一戦隊も出撃しましたが、日本海軍は主力空母4隻を一挙に失い敗退しました。
A マリアナ沖海戦(昭和十九年六月十九〜二十日)
 「日本海軍最後の空母機動部隊を中心とした艦隊決戦。『大和』は『武蔵』とともに前衛部隊として対空戦闘を行ないました。」
B レイテ沖海戦(昭和十九年十月二十四〜二十六日)
 「レイテ湾をめざして進撃する第一遊撃部隊はアメリカ海軍空母部隊の攻撃などを受け、『武蔵』をはじめ多くの艦艇を失いました。
C 沖縄特攻(昭和一一十年四月七日)
 「昭和二十年四月六日、沖縄に向け徳山を出航した『大和』以下第二艦隊は翌七日、
九州南西海上においてアメリカ海軍空母機多数の攻撃を受けました。
 『大和』は応戦の末、多数の魚雷、爆弾の命中により、十四時二十三分沈没しました。
 最後に「『大和』の戦闘」として、沈没直前の巨大写真と説明がある。
 「後部に被害を受けた『大和』 後部副砲塔付近は爆弾命中により発生した火災の煙に包まれ、左舷側には至近弾の水柱が立ち上がっています」

 このコーナーは以上で終わっている。
 全くの期待はずれで、それでも諦めきれずうろついたが徒労だった。
船体の復元や「技術」の説明には大きな場所を使いながら、
「悲惨な戦闘」「三千余名の死」「最大最強の再評価」「沖縄特攻の意味」などに、
真摯な追求もなく、こんな極小な扱いしかしていないことに憤りすら感じた。

    (つづく)  瀬戸文学通信 第198号(2008年7月15日)所載

《記録する会の注:戦艦大和の建造費について》
 当時の金額で約1億4千万円。これは当時の日本の国家予算の約3%にあたる。
 現在の海上自衛隊の「金剛こんごう級のイージス艦」は建造費1200億円。
 最新鋭のイージス艦「金剛」=7,250トン 「大和=64,000トン」
 2008年度の国家予算を84兆円として、その3パーセント=2兆4千億円。
 最新鋭の「イージス艦」が20隻買える額にあたる。


 《その3》

 前回この施設に、「大和」の戦闘場面が全く省略されていることに、 不可解な印象を持ったと述べた。
 「大和の生涯」コーナーでは、誕生(計画設計)・成長(技術改良)
・竣工(技術の結晶)を丁寧に追いながら、最後の死(撃沈)はわずか四枚のパネルしかない。
 その一方で大壁面全体を使って、「戦艦大和戦死者沖縄特攻作戦名簿」で、三千五十六名の名前を県別に記している。
「大和」乗組員三千三百三十二名、生存者二百七十六名、戦死率は実に九十二%である。  いかに戦い死んだかを説明せずして、戦死者名簿を出す意味はどこにあるか。
 墓前では、故人の生前を知っている場合、思い出や追憶さらには感慨が起き、故人との再会や対話がある。
しかし故人を知らない場合には、死者への関心や想像力は湧いてこない。
 こんな方法では「大和」の歴史を深く理解できないと思うが、
名簿の端に戦死の意味を説明すると思われる一文がある。
「大和」乗組員の臼淵 磐大尉の言葉である。
 「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。
日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた。
敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救えるのか。今日目覚めずしていつ救われるのか。
俺たちはその先導となるのだ。日本の新生にさきがけて散る。まさに本望じゃないか」  つぎに解説がある。
〈 大和の副砲射撃指揮官として特攻作戦に参加し、戦死した臼淵 磐大尉 
 大尉のこの言葉は、出撃していった乗祖員の思いを伝えてくれます〉
 また別の箇所に、臼淵大尉の写真とともに略歴が記されている。
〈 特攻作戦について士官の間に議論が起こったとき、日本の新生に先駆けて散るのは本望ではないかと述べ、乗組員の心をひとつにしました 〉
 最初の臼淵大尉の言葉を読んだとき、ショックを受けた。文章は抽象的で解釈によっては上層部批判とも、覚悟の死とも取れる。
上層部批判は当時ご法度だから相当の覚悟ともいえるし、覚悟の死といえば何を納得したのか知りたいと思った。どこに真相があるのか、 臼淵大尉の言葉の意味を探る探求の旅を始めた。
 最初に出会ったのは、ドキュメント○八「シリーズ戦争の記憶」のプロデューサー日笠昭彦氏で、
 ーー戦争は言い換えれば、先人が残してくれた命について考える貴重な題材です。若いからといって、戦争について話す資格がないといってはいけない。戦争をわかろうとする姿勢を持つことが大事ですーーと述べている。
 三千五十六名の名前と対峙する時、死の恐怖に耐えて戦う姿、仲間の死を悼み己の死におののく姿、断末魔の叫びを上げる姿が浮かんでくるならば、命を考える題材となる。
若者たちも戦死者を追憶し、あの戦争を考え、現代の戦争や命についても発展させることができるであろう。
 しかし大壁面の前に立った人は、最初数の多さに驚いているがすこしの時間も足を止めることはない。
一人の中年女性が「かわいそうに」と呟いていているのを聞いた。これ以上の言葉は見当たらないが、この言葉から新しい探求が始まるようにも思えない。
 次に出会ったのは中川春香氏で、(岩波新書 栗原俊雄著「戦艦大和」)
ーーまだ学生だったころ、祖父の弟が大和に乗っていて戦死したと母から聞かされました。
「ああ、そうなんだ」というぐらいしか受け止めていなかった私ですが、三十才になり、会ったことのない大叔父はどんな人だろうと思うようになりました。
大和ミュージアムで三千以上もの戦死者の中に見つけた大叔父の名前は、少し高いところにありました。
その名前に触れたとき、私は絶句し、胸が苦しくなって、激しい衝撃を受けました。これが血というものでしょうかーー
その後、彼女は戦争の文献資料や映像を集め、大叔父が生きた時代のことを知ろうとしたと結ばれている。
 中川氏にとっては、ずっと気になっていた大叔父の名前を見つけて、
距離が一気に縮まり、感情が爆発し、大叔父を自分の内に取り込むことができた。
血縁を軸にして、大叔父の人生と時代を探求する道を歩むことになった。
故人が心中に蘇り、再会と対話が実現するであろう。
中川氏のような縁がない見学者にとって、この壁をどう乗り越えていけばいいのだろうか。
 戦死者には顔・体・願いがあり、隣には父母・妻子・兄弟・親戚がおり、周辺には学校・職場・友達・地域がとりまき、
運命を左右する国家・軍隊に捕らえられ、複雑多様な関係の中に生きている。
一人の死は身内に衝撃と苦悩を与え、周囲に悲しみや嘆きを広げる。しかし本音を出すことは禁じられていた。
 ところが、子供や学生は「天皇の赤子」として教育され、軍部に強制的に徴兵され、戦闘員として戦場に行き、国のために死ぬことが至上命令で、戦死者数は全く問題にされない。
軍上層部の中には、戦闘や空襲による死者が激増しているにもかかわらず、戦争終結のための動きが出なかったのは、死者に対する感覚が麻痺していたとしか思えない。
 この施設は、この視点から脱却していないのではないか。
一人ひとりの戦死者に人間臭さがなく、物言えば唇寒しの雰囲気感じさせず、死者への同情も感じえない危うい精神状態も、目を背けたくなる戦闘場面もない。
これでは見学者と戦死者をつなぐ窓口が無い。
そこで私は「大和での死」を本の中から探してみた。

・戦闘時、戦闘機の爆弾が直撃し、一瞬のうちに肉弾が飛び散る死
・戦闘時、戦闘機の機銃弾に当たった死
・沈没時、艦内に閉じ込められ艦とともに沈んだ死
・沈没時、艦と運命をともにした指揮官の死
・沈没時、沈む艦の渦に巻き込まれた死
・漂流時、爆発によって吹き上げられた破片・落下物による死
・漂流時、浮き具がなく、力尽きて溺れた死
・漂流時、機銃掃射による死
・漂流時、救援にきた駆逐艦の垂らす綱を登れず、力尽きた死
・救助後、駆逐艦の甲板で疲労・傷病による死

 どの死も戦争の一面を語っていると思う。死を想起させない「海事歴史」とは、何を意味するのだろうか。
館内で「大和」以外の死は、次のように極端に少ない。

・「第六潜水艇」で訓練中に殉職した、佐久間艇長以下十四名
・「回天」の訓練中に殉職し、艇内に短歌「国を思い死ぬに死なれぬ益良雄が友々よひっつ死してゆくらん」を残した、黒木大佐
・「回天」に自ら志願し、ウルシー湾に突入し戦死した、仁科少佐・塚本大尉
・「ドイツU二三四号」艦内で秘密文書保持のため自決した、庄司・友永大佐
・「大和」の沈没時、艦と運命をともにした、伊藤連合艦隊司令長官・友賀艦長・茂木航海長・花田掌航海長
「大和」を護衛した水雷戦隊九隻中、沈没した五隻の死亡者九百八十一名

 これらの死は殉職死・殉国死・覚悟の死・特攻の死など、戦前、軍人の模範とされた死である。
しかし戦後、科学的裏づけなしの訓練、脱出不能な装置を持つ非情兵器、機密保持のための自決、艦高官が船とともに沈む慣習、どれも厳しく批判されたものである。
それを無批判に展示するのは、戦争での死について特異な価値観を持っているとしか思えない。
 この施設は、小泉内閣時代の復古主義に便乗して建設されたが、企画当初から関わってきた戸高一成現館長は
「たとえば十年前なら、軍事関係の博物館を公立で建てるなんてことは不可能だった。でも近年は大砲・戦争、拒否という単純な考えの人は少なくなって、多くの人がその時代を客観的に見ようとするようになった」と語っている。
 (「戦艦大和」栗原俊雄著岩波新書)
 戦後六十年、大砲・軍艦・潜水艦など兵器に対する国民のアレルギーが薄らいだので、「大和」や戦争を客観的に見てもらおうという意味だろう。
しかしそこには、大きな点が欠け落ちているように思う。
 ここには一部軍人の美化された殉死があるが、戦争の犠牲者はこれとは真反対の死、
すなわち、軍部の無謀な戦争に引きずり込まれ、無念無残な死、餓死、戦病死など不本意な死がその大半である。
軍部が国民を虫けらのよう扱い、他国を踏みにじった事実を見過ごしては、戦争や「大和」は見えてこないと思う。
 戸高館長の発言の中でこの施設は、「軍事関係の博物館」と位置づけされ、「大和」の模型などについてはこだわるが、戦争死の追求は全く弱いと思う。
そしてその延長線上かもしれないが、憲法九条を含む「改定」の意見を雑誌に載せている。今の体制で進むならば、この施設は軍事博物館に改変される危険性もある。

 私の探求の旅をひとまず終わりにして、臼淵大尉の言葉に返ってみたい。
 この言葉は同じく「大和」に乗船し生き残った、吉田満の著書「戦艦大和の最期」の中に、エピソードとして残されている。
言葉の前段階の経過は次のようなものだ。(「戦艦大和」栗原俊雄著岩波新書)

 若い士官たちは死の意味について激論を交わしていた。
 「ガンルーム(若い士官たちの一室)」でのことだ。つまり少年の頃より軍人教育を受けてきた者が言う。

「国ノタメ、君ノタメ死ヌ ソレデイイジャナイカ ソレ以上何ガ必要ナノダ モッテ瞑スベキジャナイカ」
 吉田と同じ、学徒出身者は反論する。
「君国ノタメニ散ル ソレハ分カル ダガイッタイソレハドウイウコトトツナガッテイルノダ 俺ノ死、俺ノ命、マタ日本全体ノ敗北、
ソレヲ更ニ一般的ナ、普遍的ナ、何カ価値トイウョウナモノニ結ビ附ケタイノダ
 コレラー切ノコトハ ー体何ノタメニアルノダ」
「・・・貴様ハ特攻隊ノ菊水ノ『マーク』ヲ胸二附ケテ、天皇陛下万歳ト死ネテ、ソレデ嬉シクハナイノカ」
「ソレダケジャ嫌ダ モット、何カガ必要ナノダ」
「ヨシ、ソウイウ腐ッタ根性ヲ叩キ直シテヤル」

 その後、鉄拳の雨、乱闘の修羅場にとなったという。
この経過を抜きにして、臼淵大尉の言葉は生きてこない。
 軍隊という、上意下達・命令系統・戦闘集団のなかで、このような議論と乱闘が生まれた例を私は知らない。
それは特攻作戦=必死という極限状態だからこそできたのだと思うが、今までの黙々と上官の命令で戦う軍人の話だけを知っていたので、この話にはほっとするものを感じた。  しかし疑問は残る。この施設の説明文では、
〈 出撃していった乗組員の思いを伝えてくれます 〉
〈 日本の新生に先駆けて散るのは本望ではないかと述べ、乗組員の心をひとつにしました 〉
 この説明は、上層部批判の部分が削除され、後半の意見統一や殉国の部分だけが強調されています。言葉の半分しか伝えてなく、誤解を招きかねません。
前半の批判があるから、後半の意見統一があるのであって、批判抜きでは意見の統一が起きるはずがないと思う。
 また、これは三千余りの乗組員のうち何パーセントが参加したのか分からないのに、意思統一ができたというのはあまりにも断定しすぎだと思う。
多くの兵士は絶望的な状況下、上官の命令に従い、奇跡を信じて最後まで戦い、無念の死を迎えたと思う。
 今この施設では、第十回企画展として
 「呉へ!戦時下の少年少女たち」
   −動員学徒と女子挺身隊の日常−
が行われ、展示とともに体験談の発表が行われている。
兵器ばかりが目立つ館内で、体験者の肉声を聞くと、戦時下の青年男女の、勤労奉仕や空襲や友達の爆死や空腹の様子などが生々しく伝わってきます。
 この施設が、兵器展示館ではなく、戦時下の市民の生活を明らかにし、戦争と平和について考える場となるよう、一市民として行動していこうと思い、館を後にした。
    (終)  瀬戸文学通信 第199号(2008年9月5日)所載


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