「 戦争を知らない若い貴方達へ 」

           今朝丸 千里(けさまる ちさと)著

 「戦争を知らないあなたたちへ
   ……戦争を体験したおじいちゃんおほあちゃんたちから学ぶこと……」
                               今朝丸千里

1、はじめに

 今の日本は、ほかの国と戦争をしていない。それは、太平洋戦争で負けた後,太平洋戦争を体験したおじいちゃん、おほあちゃんたちみんなは、何でも皆で話し合って「平和な日本にしよう」「平和な世界をつくろう」と考えたからです。
 そして「もう二度と戦争をしない」と、今ある「日本国憲法」で決めました。
「日本国憲法」とはね、日本中誰でも皆が一人ひとり、絶対に守らなけれぱならない約束なんだよ。
 皆の中には、戦争の話と聞くと、「戦争したのは、おじいちゃん、おぱあちゃんたちだから、自分たちには関係がない。」と思っている人もいるかもしれない。
 しかし、おじいちゃんや、おほあちゃんたちが体験した太平洋戦争の話を聞く事で、みんな一人ひとりが「戦争」と「平和」について学び、考えてほしいと、私は思っています。
 皆は、テレビのニュースで見たことがあるでしょう。私も含め、皆は「戦争」がない今の日本に生まれ、実際に戦争を知らないけれど、
他国の子どもの中には、生まれた時からずっと戦争が続いていて、戦争のない国があるなんて知らない子どももいるのです。
 そして、たくさんの爆弾や地雷に怯え、家を壌され、家族を失い、けがをしたリしています。
 おじいちゃんやおぱあちゃんたちは、「戦争」や「テロ」でたくさんの人々が死に、自然や家が破壊されるのを見るたび、自分が体験した戦争を思い出し、なんともいえない悲しい思いになるそうです。
 そして、二度と皆には、こんな悲惨な戦争体験をさせてはいけないと強く思うそうです。
 「でも、大丈夫。今の、日本は戦争もテロもないよ。」と皆の中には、安心している人がいるかもしれませんね。
 しかし、よその国で、「戦争」や「テロ」が今もあるということは、いつ、日本も「戦争」や「テロ」にまきこまれることになるかもしれないと思いませんか?
 そうなったら恐よね。
 今の日本が「平和」だからと、「戦争」や「テロ」、「平和」や「安全」に全然、無関心でいては、今の『日本の平和』は続けることができないような気がします。
 そして、「戦争」も「テロ」もない、『平和な世界』も創ることはできないと私は思います。
 昔、戦争をしていた日本だけど、太平洋戦争後、「もう、二度と戦争をしない」と決めたおじいちゃん、おぱあちゃんたちは、きっと強い思いで、平和を願ったのだろうね。
 いろいろなことを振り返り、新しい今の日本を作ってくれたのだろうね。だから、私はその願い・思いを受け継ごうと思ったよ。
 私も戦争を体験していないので、おじいちゃんやおぱあちゃんたちから戦争体験を聞き、戦争の跡や亡くなった方々の碑を訪ねて、祈ることしかできなかった。
 しかし、そうしているうち、亡くなった人列こも代わって、戦争を知らないあなたたちに、どうして、戦争を体験してしまったのか、どんなに多くの悲しみと犠牲があったのか、皆にもいろんなこと知って欲しいと思ったよ。
 私は、そういう思いから、太平津戦争を体験したおじいちゃん、おぱあちゃんたちが、 私たちr戦争を知らない」若者に伝えたい、願いや思いをこめて書かれている本を読んだり、体験した話を聞いたりし、
 @どうして、おじいちゃんやおぱあちゃんたちは、多くの国を相手に太平洋戦争を体験したのだろう?
 A太平津戦争中、おじいちゃんやおぱあちゃんたちは、どのような体験をしたのだろう?
 B太平津戦争に負けたあと、おじいちゃん、おぱあちゃんたちはどう思ったのだろう?
 C今を生きている、若者に何を伝えたいのだろう? そうして、みんなに、これからどう生きて欲しいと思っているのだろう?
を中心に、おじいちゃんや、おぱあちゃんたちの話と、それについて、私が感じたことを書きました。
 「戦争」や「テロ」がなく、安全で安心して暮らせる「平和な日本」「平和な世界」を創るためにはどうしたらよいか、皆で考えていってほしいと思っています。

2、おじいちゃん、おほあちゃんたちが子どものころの社会

 「なせ、おじいちゃんやおほあちゃんたちは、多くの国を相手に戦争をしたのですか?」
 「おじいちゃん,おぱあちゃんたちは,太平淳戦争をどう思っておられるのですか?」と、私が宮原に住んでおられる武田正視おじいちゃんに尋ねたら、
「『戦中派の死生観』という本を読んで見なさい。」
「どうして、おじいちゃんやおほあちゃんたちが、多くの国を相手に戦争を始めたかということや、太平洋戦争に参加した日本の人たちの気持ちが少しはわかるかもしれんよ。」と本を貸してくださった。
 『戦中派の死生観』を書いた吉田満おじいちゃんは、沖縄に突入し撃沈された「戦艦大 和」に乗っていて、生き残ったおじいちゃんだった。
 吉田満おじいちゃんは、その本の中で、こういう思いも書かれている。
「なぜ、太平津戦争に勝つ見込みもないのに戦艦大和は、沖縄に突入したのですか?
戦争した人たちの気持ちが理解できない。」と戦争を知らない若者が質問をする。
そういう若者に対して、満おじいちゃんはこう尋ねたいんだって。
「それじゃ、我々は、どうすれぱよかったのかね?」
「戦争に出征しなさいという国の徴集を嫌ですと突っぱね,死刑に処せられるぺきだったのかな?どうせ死ぬことになるのなら、君たちだって、家族の為、国の為に、命を捧げる方を選ぶだろう…。それとも、兵士には一応なるが、闘うことに心もやさない、いい加減な兵士になれぱよかったかな?」
「誰が戦争を望むだろう。戦争は反対と内心思っていても、兵士としての役割を受け入れた以上、自分の行動には、責任を持つぺきだと考えたよ。
そして、生き残った者の責任として『戦争』という歴史を振リ返り、感じた事、考えたことを、君たち若者に伝えていかなくてはと思ったよ。」
 吉田満おじいちゃんは『戦争』という人間がおこした人災に何も言えず、死んでいった多くの人々の嘆き、悲しみ、無念さを伝える事と、
その頃の国のあり方で欠けていたものを私たちに伝えることで「私たちに、人が人として生きていく為の、大切にしなくてはいけないことを見失うことなく、幸せに生きて欲しい」と伝えたかったのだろうね。
 今、ある『日本国憲法』には、「もう二度と戦争をしない」という(平和主義)、
「国は国民みんなが幸せに生きていく為に、国民一人ひとりの生活・安全を保障しなくてはいけない」という(国民主義)、
「自由で平等に生きていく為の権利」としての(自由権・平等権)や、
「仕事や最低限度の衣食住を保障される権利」(社会権)からなる、
どの人も生まれながらに持つ、国民一人ひとりが生きていくために当然必要な「基本的人権」などが決められているよね。
 そして、国の徴集により、国のために、兵士にならなけれほならない(徴兵制)はないよね。
 しかし、太平洋戦争が終わるまでの『明治憲法(大日本帝国憲法)』では「国民は国のために生き、国の徴集により,、国のための兵士にならなくてはならなく」、
「生まれながらに、国民一人ひとりが、生きていくために当然必要な権利は抑えられていた」ので、おじいちゃん、おぱあちゃんたちは
「国が戦争する」と決めると、したがうしか方法がなかったらしい。戦前は、人の『命』を第一に大切にした憲法ではなかったんだね。
 「潜水艦や飛行機、軍艦に爆薬をつけ、相手の船や飛行機につっこみ、自分も死んでしまうというような戦術を決めた人たちは、まちがっている。
国といえども、人さまの子どもを軽々しく、扱ってはいけない。そうゆう、人の命をなんとも思わないような戦術は、絶対とるぺきではなかった。」
 「ぼくの同級生の、宮原田賢君は、特攻隊の一期生になった。
昭和19年10月25日の午前6時、フィリピンのクラークフィールドの飛行場を飛び立ち、若い命を空に散らしていった。
 このことは、絶対忘れられないし、絶対許されないと思ったよ。」と、宮原田君が最後に武田正視おじいちゃんに送ってきた遺書もみせてくださり『命』の尊さを私に語ってくださった。
 そのころの、日本の政治は軍国主義』で、「戦争に勝つ」ことが最優先されていたのです。
だから、若い搭乗員たちは国を信じ、片道の燃料と爆弾をつめ、死ぬのはわかっているのに、家族や故郷のために、任務を遂行したのでしょう。
 それは、「お国の為に死になさい。それが日本の為」と教える教育を、だれもが素直に受け入れていたからです。
 子どものころから、そう教育されていた時代だからこそ、誰もが、このように死んでいく人たちを止めることも、守ることもできず、本心を抑え、涙をこらえて見送っていったのでしょう。
 今の皆だったら「おかしいよ」とか「嫌だよ」とか言うのだろうけれど、その頃は、
「戦争は反対」など、国にいろいろな不満・疑問を持っていたとしても、自由に口にすることさえできなかったのです。
 このように、戦争していた人々も、心の中ではいつも泣いていたのです。
それを考えると「なんで、おじいちゃん、おばあちゃんたちは、あんな恐い戦争をしたの?」と強くも責められないと私は思うのです。
 悪いのは、『戦争』を引き起こした人々と原因、そして、それを防げなかった制度にあると私は思います。
皆はどう恩いますか?(この事は、きっと私たちのこれからの課題でもあるでしょうね。…)
 太平津戦争中、今の中学生にあたる14,15歳の子どもたちが「学徒動員」に、今の高校生にあたる17,18歳の子どもたちが「動員学徒」に、
女学校を卒業したぱかりの乙女たちが「挺身隊」へと、学業をすて、青春全てをすて、戦争の為に働き、戦争の為に死んでいったのです。
 命を散らしていったんだって。もし、みんなが、今、そういう立場になったらどうしますか?
 それに、学校でも「戦争に勝つ」ことが優先され、子どもたちは、勉強どころか、修学旅行にもいけなかったし、空襲をうけ「ウー、ウー」という警戒警報のサイレンで、必死に防空壕に逃げ込むという学生時代を過ごされたらしいです。
 ねえ、みんな、「兵士」「学徒動員」、「動員学徒」、「挺身隊」が、例えば、自分、自分の兄弟、姉妹、友だち、子どもだったらと想像してみたら、戦争を知らない私たち若者に
「なんで、おじいちゃん、おぱあちゃんたちは、あんな恐い戦争をしたの?」と尋ねられても「責められているようでつらい」という気持ちが少しはわかるよね。
 私は、戦争もなく、何不自由なく、学ぺる時代に生き、おじいちゃん、おぱあちゃんたちより、学ぶ時問もあり、場所もあリ、好きな学ぴをできる環境にありながら、果たして、その環境を有意義に過ごしていたのかなと反省します。
 みんなは有意義に、学生生活、あるいは一日いちにちを有意義に過ごしているかな?
 私たちは、戦争がなく「平和」に生きている今の一日一日の時間をもっと大切に過ごさなくてはと思うよね。
 また、おじいちゃん、おぱあちゃんたちは「ヨーロッパ・アメリカなどの植民地となっていたアジアの国々を独立させ、日本を中心とするアジアを作ろう」という
国が勧めた『大東亜共栄圏思想(大東亜文化思想)』を信じながら、戦争をしたそうです。(その頃の多くの人々は、どうして戦争がはじまったのか、どうして戦争をしなけれぱならないのか、自分の国内の状況、他国の状況もよくわかっていないまま、 そして、それを尋ねる場も機会もないまま、戦争に巻き込まれていったのが現状のようだけれど…。)  しかし、正義心でどこかの国を救おうとか、守ろうと思っても、武力で実行すると、やはりたくさんの『命』を失う事と、新な憎しみを生む事にもなるよね。(現をの他国の戦争もそうだけれど。)  どんな事情があって、戦争を仕掛けていったにしても、後にどれだけ反省をしたとして も、多くの命が奪われ、自然が破壌された事実が残るだけだよね。  そう考えると、戦争を体験してしまった、おじいちゃんやおばあちゃんたちも犠牲者だね。  私たちが、戦争したおじいちゃんおぱあちゃんたちを、単に非難するだけでなく、その時代に生きた人々を理解し、その苦しみ、悲しみを共有したなら、 おじいちゃんやおぱあちゃんたちが、自分たちが知っている限りのいろいろな事を私たちに伝えようとしてくださっていることが、素直に耳に入ってくるよ。  「戦争を始めたころ、日本は不景気で、多くの国民は仕事がなく、生活は苦しく、食ぺることさえ難しい、つらい暮らしをしていた。  だから、多くの人や、さらに15.16才の子どもたちも、生きていくために、遠く県外からも呉に仕事を求め、職業軍人や海軍工廠で働くためにやってきたんだよ。  そうやって、必死で生きてきた人びとに対して、戦争をしたのはまちがいじゃないかと、単に非難するのは胸が痛む。  このような国の流れ、国の政治の仕方がまちがっていたとぽくは思うよ。」と、武田のおじいちゃんが、太平洋戦争当時の呉を中心とする、社会状況も話してくださったのも、理解できます。  ちょっと、難しい話になりましたが、国が、国艮一人ひとリの『生命』や『権利』より、国の政治の仕方を優先していたのは、まちがいだったとあなたたちも思いませんか?
 現在の『日本国憲法』に決めてある「平和主義」や、「国民主権」、そして「自由権」・「平等権」・「社会権」などの「基本的人権」や「地方自治権」などは、
私を含め皆一人ひとリの為の、本当に意味のある大切な『憲法』なんだなと改めて強く思います。
同時に、この憲法の意味を正しく理解しておきたいなと思いました。

3、軍港都市「呉」の歴史

 日本最後の戦争である太平津戦争、その前半までは、日本は、よその国で、戦闘を繰リ返していました。
 ところが、太平洋戦争後半になると、日本国内にも戦闘がおよび、相手の国の飛行機が、たくさんやってきて、爆弾や原爆を落とし、
おじいちゃんやおぱあちゃんたちが、住んでいた町は、突然火の海になり、多くの人びとが死に、何もない灰の中にほうりだされました。
 広島・長崎に原爆が投下され、沖縄ではその地で激しい戦闘が繰り広げられたのは、皆も知っているでしょう。
 その頃には、日本中のいろいろな町が焼夷弾で焼き尽くされました。
 みんなが今住んでいる呉もそうです。みんなのおじいちゃんおぱあちゃんたちが、生まれるよりずっと前は、呉も小さな半農半漁の村で、平和に暮らしていました。
 ところが、1889年(明治22年) 呉の町にも、軍港と海軍工廠(軍艦や飛行機・兵器など戦争に使うものを作る工場)ができ、兵隊や海軍工廠で働こうとする人びとで、あっという間に、人口が増えました。
 そして、働く人のためにいろいろな店や、映画館などもたくさんできて、呉は、活気のあふれた「日本一の軍港都市」になったのです。
 そして、激しい空襲を何度も受け、焼け野原になったのです。私もお父さんに住んでいた家が焼けてなくなったと幼い頃聞いたことがありました。
(「焼夷弾が落ちてきてね…」と亡くなったお父さんは話してくれたのでしょうが、私はまだ小さくって『焼夷弾』のことを『しょう油弾』かと思っていました。)
 父と同じように休山中腹の宮原に住んでおられ、あんな恐い思いはもうしたくないし、皆には体験してほしくないと、
自分の戦争体験から「戦争の恐さと平和の尊さ」を小学校で子どもたちに話されている高橋節子おぱあちゃんが、その頃のことを教えてくださいました。
 「1932年〜1933年(昭和7,8年)頃、呉海軍工廠の各工場の煙突からは、昼夜をとわず、おびただしい黒煙が吹き出し、クレーンの作動のための騒音等が、毎日耳をっんざくほかりに鳴り響いていたよ。
小学校の子どもの人数も多くなり、講堂を区切って、仮設教室にしていた位、そのころの呉は、それは、それは活気のある町だった。
 でも、戦争は次第にはげしくなり、女学校を卒業すると私はすぐ呉海軍工廠の女子挺身隊になリ、砲こう部設計係に配属になったのよ。」
「昼休みの時、自分たちが働いていた工場に近い潜水艦基地から、乗組員が戦地に向かって出港する時、お見送りもしたよ。そのときの光景は今でも忘れることができないの。
潜水艦の甲板に将校さんや水兵さんたちが横一列に並び、別れを惜しむかのように、呉湾に臨む周囲の山々をジーツとながめていた。
それから、艦上から小さな包みを投げてくれたのだけれど、その小さな包みの中には、その頃一般市民が手にすることもできなかったチョコレート、お菓子、石鹸が入っていたの。
戦場に向かう勇士たちへのねぎらいの品々だったんだけれど、手をふって見送る私たちに、あとを頼むそ、強く生抜けと精一杯の心を込めて投げてくれたのだと思うと、今でも涙がでてくるよ。」
 「空襲はどんどん激しくなり、1945年(昭和20年)6月22日に海軍工廠が空襲を受けた時、命かながら爆弾の中を逃げまどった恐さは一生忘れられない。
 みんなにもこんな体験は絶対して欲しくない。シューツシューツシューツと蒸気機関車 のような音が頭上に迫り、ズズズズ、ドッカーンと内臓がけずりとられるようなすごい音がして、必死で防空壕へと逃げ込んだよ。
 でも熱気と煙がどんどん入ってきてそこにはいられなくなって、また、バラバラと機銃掃射の中を逃げまわり、やっと3番目の壕にたどりついた。
 けれど、満員だからと断われて、泣き泣き死にもの狂いで4番目の壕に逃げ込んだ。
 空襲が終わり、恐る恐るあたりを見渡すと、入れてもらえなかった3番目の壕は全員死亡だった。
 身の毛が逆立ったよ。自分はどうにか助かったけれど、たくさんの挺身隊の人や工場の方が亡くなった。家に帰って母と鞄き合って泣いたよ。」
 「1945年7月1日の呉空襲もとても怖かった。雨のようにシュルシュルと落ちてくる焼夷弾の中をお母さんは妹を背負い、私は弟の手を引いて休山へと逃げたのよ。
 弟は、まわりがメラメラ燃え出すと怯え、あまりの怖さにがタガタ震え身動きできなくなってしまった。
 何しているの。逃げんと死ぬのよ。と弟の手を引っ張るようにして、お母さんを必死で追い、休山まで逃げたの。
 山から呉の町がメラメラ燃えるのを見ながら、まわりの人たちも皆泣いていたよ。
 翌朝、家に帰ってみると、家はあとかたもなく燃え尽きていて、ガラスがまるでラムネびんのように曲がりくねっていて、その側で焼夷弾のもえかすが残っていた。
 それが何とも言えず、家族全員で座り込んで泣きあったよ。」とつらい思い出を話してくださった。
 私は高橋節子おばあちゃんだけでなく、たくさんの空襲を経験された人々の体験談を聞いたり、体験記を読んでいるうち、私も涙が流れてきます。
 もう二度とこのようなことがあってはならないと思いました。「焼夷弾」と広島や長崎に落ちた「原子爆弾」は、威力や体内に及ぼした影響力を考えると比ぺ物にならないのはよくわかっています。
 しかし、どちらもたくさんの人々の『命』、『家族』『親戚』『知人』、『家』、『自然』、『幸せ』を失ったのだから、「戦争」は人問が引き起こした最も罪な出来事だと思います。
 だから、私は子どもたちに話をしています。呉の町が世界中の人が注目するほど、優れた造船技術を持っていた為、呉海軍工廠への空襲は特にひどかったので、呉に住んでおられたたくさんの方々が亡くなられたことを…。
 子どもたちは「戦争」という出来事をかみくだいて理解する事はできなくても、「戦争」をしてよいことなのか、「戦争」をしてはいけないことかはきちんとわかってくれます。
 私が話したことが少しでも、心のどこかに残り、大人になってくれれぱいいなと願っています。
そんな子どもたちと平和を共に願い、作ったリースを持って、r「殉国の搭」にお参りに行ったことなどを、元女子挺身隊だった高橋節子おほあちゃんに話すと、是非自分もお参りをしたいといわれたので、平成17年(2004年)7月22日、おばあちゃんと「殉国の塔」にお参りにいきました。
 (「殉国の搭」は、昭和20年(1945年)6月22日の空襲で犠牲になった旧海軍工廠従業員及び女子挺身隊、動員学徒476名をしのんで、
昭和40年(1965年)11月に警固屋地区の法正寺、満行寺、法晃寺、善妙寺の仏教婦人会によって建てられた慰霊碑です。
平成12年(2000年)6月、警固屋中学校2年生が「平和を受け継ぎ、よりよい郷土をっくろう」という決意を表す「ピース・モニュメント」を設置しています。  ところが、鍋峠、日新製鋼予備品置場の裏手丘にこの塔があることは、あまり皆にも知られていません。)
 慰霊祭に出席して、感動しました。警固屋中学校の子どもたちが呉空襲の聞き取りをしたり、戦争と平和にっいて考え、自分たちと同じ若さで亡くなった乙女たちの心を思いながら、「殉国の乙女に捧げる詩」の歌を唄ってくれたからです。
 『歌詞をかみしめて歌っていると涙がでてきます。亡くなった人たちに、この思い、この声が届くようにと歌いたいです。』とコメントがあったけれど、その気持ちがしっかり込められており、聞いていると涙が出ました。
 また、平成16年(2004年)「呉市政だより」で、江口義男おじいちゃんが慰霊祭の紹介をしたのを見て、訪ねて来られた方がおられたのですが、戦後60年あまりたっているのに、劇的な事がありました。
 一人は、お父さんが呉海軍工廠で働いていて、昭和20年(1945年)6月22日の空襲で亡くなったのでは…と訪ねてこられた娘さんが、ここで亡くなられた方々の名簿の中に、お父さんの名前を見つけられたのです。
 娘さんといってももうおぱあちゃんですが、感きわまって喜んでおられたと江口義男おじいちゃんから聞きました。もちろん、江口義男おじいちゃんも感動されていました。
 昭和20年(1945年)6月22目の空襲で亡くなられ、名前がわかった方の遺骨は遺族に渡して、年月日と人数は石とか木切れで作った碑に書き残してあったそうです。
 その多くの遺骨の上に、墓標・土まんじゅうが作ってあったものを、加藤アキヨおぱあちゃんが見っけ、警固屋仏教婦人連合会が自分たちの会費の中から少しずっ出し合い、寄付を集められて現在の石碑を建てられたのですが、
この度、江口義男おじいちゃんが、その日亡くなられた方の名簿作りをてがけられているところだったのです。
 江口義男おじいちゃんの作られた名簿があったからこそ、こうやってそのおほあちゃんも、自分の「命」を授けてくださったお父さんの消息を知ることカさできたことを知り、私も胸の熱くなる思いがしました。
 慰霊祭が終わった後バス停にいると、「殉国の塔」の場所を一人のおぱあちゃんに尋ねられました。
 話を伺ってみると「夫が呉海軍工廠で働いていて、6月22日当直の日だったので、23日にこなったら帰ってくるかと思っていたら幾日すぎても帰ってこず、
工場に訪ねたら、死亡したと連絡はあったのだけど、どこでどう死んだかも知らされもせす、お骨もないままなので、主人が死んだ日と命日が同じ慰霊祭にきてみたんです。」と話されました。
 もう資材置き場の門の鍵を閉めていたので「殉国の搭」に行くには、畑の中の山道をとうらなけれぱいけません。
もう係の方は帰られかけていたのですが、せっかく尋ねてこられたのですからとお願いすると、係りの方が快く鍵をあけてくださいました。
『殉国の塔』にもう一度二人でお参り↓ました。「きっと、ご主人もこの搭の下に眠っておられますよ。」と話すとrきっと主人も喜んでいることでしょう。
一緒にお参りしてくださりありがとうございました。」と帰られました。
 あの日、この場所で、476名の方カミ亡くなられたと記録に残されているけれど、現在名簿に名前が挙がっているのは212人です。
このおぱあちゃんのご主人のように名前がわからないままの方がまだ264名おられるのだなと思うと何とも言えない思いになります。
 私たちにとっては余り関心のない、60年前に終わった「戦争」だけれど、今なおいろいろな方が、いろいろな思いを抱きつつ生きられておられることを知った一日でした。

 大林和子おぱあちゃんは「聞いてください、私たちの十六歳」という本のなかで、太平洋戦争時代の「学徒動員の体験」を振り返り思いをこのように書かれています。
 「私は、呉の冠崎の工場で、『回天』という人問魚雷(潜水艦の中に爆弾を詰め相手船に人間ごと体当する兵器)を作っていました。
 学徒動員のことを思い出すたびに、あの戦争は一体何だったのだろう? 青春の情熱を燃焼させ、学業を放棄してまで、
国の為、天皇の為に、死ぬ事が美しいのだと思いこまされていたのは、実に教育の力であったのだと思うと、教育がいかに大切であるかを痛感するのです。
 国の為、天皇の為に死ぬということが、美しいと教えられ、純真であるがゆえに、一途に、これを信じこまされたのです。
 わたくしたちのたどった道を、二度と.若い世代がたどることのないよう、平和な世の中が続くよう努めなけれほなりません。
 いま、平和な世の中に、生かされて、あのころのことは、これでよかったのだろうか?何度も、なんども、自分自身に問いかけてみる五十五年でした。」

 このように、全国からすぐれた技術を持った人々が集まり、活気のあった呉海軍工廠は、戦艦「大和」などの戦艦や航空母艦・飛行機・回天などいろいろな兵器を作っていた『日本一の軍港都市』だったのです。
 だから、戦争をしている相手の国に特にねらわれ、何回も激しい空襲をうけ、たくさんの「生命」と「財産」を失ったという『呉の歴史』をみんなにも知っておいて欲しいと思います。
 そして、広島や長崎、沖縄と同じように、何にも無くなったところから、今の呉を創り上げていってくださったおじいちゃんやおぱあちゃん方に対し、私は偉大さを感じ、また感謝の気持ちを持っています。
 そして、悩み、書しみ、「戦争を知らない私たち」へ伝えてくださろうとしている「思 い」をみんなでしっかリ、受けとめていきたいと思っています。
 私が、呉の歴史と呉空襲を良く知っておられる、朝倉邦夫のおじいちゃんに

「戦艦大和が作られた時の技術はすごいですね。」
「私が小さいころは、冷蔵庫でも、電化製品ではなく、木製の冷蔵庫で中に氷をいれて物を冷やしていたのに、
私が生まれる前に造られた大和には、冷暖房も備わっていたし、300人分もの食事が炊ける万能炊飯器もあったんですね。」と話すと

「そリや、人間は、戦争という窮地に追い込まれると、自分たちが生きるために、今存在する物以上に、すぐれた物をつくろうする。
そして、今までにない、いろいろなことを考えついたり、形に仕上げていくこともある。だから「戦争は発明の父』と言われるんだよ。
しかし、いくらその技術が世界一だとしても、その技術が戦艦大和という兵器に利用されたのだから、そんな技術はいらない。
戦争に使われるそんな技術はいらない。」と答えられた時、私も自分の気持ちがひきしまりました。

 どんな技術でも「戦争」に使わないで、平和利用の為に使われる大切さを、改めて強く思いました。
 このように、たくさんの犠牲を払った「呉」ですが、日本中がたくさんの犠牲を払いました。
 いろいろなデーターがあるけれど、『きけわだつみの声』にあげられた資料によると、日本は戦争をしたことで、次のような膨大な犠牲を払ったようです。

 1931年(昭和6年)9月から、1945年(昭和20年)8月にいたる15年間の戦争において、日本国民が支払わなけれぱならなかった、生命・財産の大きさがどれほどになるかは容易に計算することはできない。
 はじめの数年間、日中戦争のはじまるまでは、まだ戦争の犠牲がそれ程深刻なものとは、一般国民には思われなかった。
 しかし、1937年(昭和12年)、日本の全面的中国侵略が始まるとともに、国民生活にかかってくる戦争の重圧はかってない大きなものとなった。
 太平淳戦争までの4年聞、日本は、中国に対する宣戦なき戦争に223億の軍事費を費やし、18万5000の死者、32万5000の負傷者を出した。
 全体戦争の必要は、国艮生活のすぺての様相を変えてしまった。
しかし、日本が、絶望的な決意とともに、開始した太平津戦争は、もはや、単なる、全体戦争というよりも、死滅の戦いと呼ぶのが、ふさわしいほどだった。
 兵士の動員数は、のぺ1000万に達し、戦死者・行方不明者は、およそ200万人、民衆の死亡者は100万を数えた。家屋の喪失は、310万戸、おおよそ1500万人が住むぺき家を失った。
(金額はその当時のものです。全体戦争という表現が使ってありますが、国民総動員した戦争という意味ではないかと思います。)

 ねえ、みんな、すぐれたいろいろな技術がいくら開発されても、このような生命・財産を失うことになるような「戦争」の為に使われたのでは、意味のある使い方ではないよね。
戦争に勝とうが、負けようが、戦争のために、すぐれた技術を得る事よりも「戦争をしないほうが良かった。戦争はしてはいけないんだ。」と、朝倉のおじいちゃんが話されることはまちがってはいないと思いました。

4、臼淵大尉やたくさんの人々の遺書から学ぶ私たちへの課題

沖縄に突入した戦艦「大和」に乗っていて、戦死した、臼淵大尉は、『破れて目覚める。誠の進歩を重んずる国に生まれ変わる。それ以外に、日本が救われる道なし』と書き残されている。
 私もこの意味について考えてみたよ。太平洋戦争をしている日本は「戦争はしてはいけない」という「戦争した」過ちを真に知り、受けとめることで、新しい日本に生まれ変わることができるのだと、いいたかったのかな?
 日本が戦争に負けたと「負け」を認めることは、悲しくてつらいだろう。
でも、太平洋戦争をしている日本は、それそれが「戦争はしてはいけない」と反省しなくてはならないので、
はやく「負け」を認め、いろいろな角度から、新しい日本に変わるようみつめなおさなくてはならないのではないかと、生き残った人々に伝えたかったのだろうね。
 臼淵大尉は、自分に与えられた役割を探り続け、そういい残すことで「もう、二度と日本が戦争を起こさないように…。」と願ったのかな? と私は思いました。
 臼淵大尉は遺言を残すことで、自分の歴史を通して「戦争はしてはいけない」というあやまちを自分の死後、生きていく私たちに伝えたかったのでしょうね。
 臼淵大尉だけでなく、太平洋戦争を経験した方々の遺書は現在も多く残っています。
 軍人の立場できっぱりと、家族に別れの言葉をつらねた、死をおそれぬ正々堂々としたものが多くありますが、果たしてそれが本心であったかは疑問です。
 戦没学徒が弁当の包みの下などに隠して家族に手渡した、現在残っている手紙などは、自分たちの死の意味を悩み苦しみ、たどリついた戦没学徒の本心が、素直に書きあげたものが多く残っています。
「はるかなる山河に」「きけ、わだつみのこえ」「雲ながるる果てに」などはそのような戦没学徒の遺書をまとめた本です。
 しっかりと、戦争やその頃の時代を解明しています。
 このようなすぐれた若者たちが、太平洋戦争後、生きていれほ新しい日本の発展の原動力となっていたのに違いないと思ううと、すぐれた人材を失った戦争は、なんて愚かな出来事だったのだろうと思います。

 学徒出陣を1ヶ月後に控えた学生の大学の壮行式に、一人の老教授、末弘厳太郎が、「戦場におもむいた以上は、自分が兵隊である前に、まず、生きる人間である事、一日として忘れないで欲しい。
農民出身の兵隊が支那大陸にいると、朝晩に、故郷の田畑の苦労を思い出すように、どこにいても、大学のこと、学生生活のことを恩思い起こしてもらいたい。
そして、必ず元気で帰ってきて、再ぴ、平和がよみがえったあとの学問の世界に諸君の若い力でより豊かなものとしてくれることを約則して欲しい。」と述ぺられた言葉が強く心にっきささります。
 私は「戦争」という出来事のために、短い人生の生甲斐をむなしく模索しながら死んでいった若者のr命」をとても無念に思います。
 また、農民兵士の本心が書かれている「戦没農民兵士の手紙」は、農民以外には、おきかえることのできない、赤裸々な言葉で戦争の過酷さと生存の意義を訴えたものらしいですが、
 それぞれ、死にぎりぎりに向き含うことで、遺書を書き残す作業をとうし、人として一番大切にしなくてはいけないものを自分でみつけていったのでしょう。
 最も身近な肉親を守る為に、日本の明日を背負う子どもたちを守る為に、祖国の美しい風土を守る為に…。
 誰の遣書を読んでも、それは、とりもなおさず、今を生きているわたしたちにとっても大切なもので、守らなくてはならないものではないかなと私は思いました。
 しかし、このように自分の思い・願いを書き残すことができた人もいましたが、多くの学徒兵、少年兵は、
太平洋戦争の自覚も目的意識も修練も、手にいれるひまなどもありもしない即席教育のあと、未熟のまま消耗戦に狩り出され、
太平津洋戦争に参加したのが事実のようですから、遺書を残す事もなかったでしょう。  黙々と埋もれて死んだ無数の兵卒、応召兵、少年兵はなど、生死を賭けて戦った人々が、自分たちの意志でなく、無低抗に「戦争」に巻き込まれていったことに私は、強い悲しみと憤りをおぼえます。
 ねえ、みんな戦争は絶対嫌だね。
 私はみんなに、戦争体験のない私たちは、このようにたくさんの人々の「命」の犠牲の もとで、いまの「日本」があることを絶対に忘れてはいけないと思います。
 そして、「命」と引き換えに私たちに残してくださった、遺書に託された人間の「命」の大切さや「生きること」そして「平和」への願いを、皆でしっかりと受けとめなくてはと思います。

5、呉の歌人「渡辺直己」の伝えたい心

 みんなはr歴史の丘」を知っていますか? 戦艦「大和」など多くの軍艦を作ったドッグを見下ろす歴史の丘。
そこには、呉海軍工廠のプレートやその頃のドッグヘ降りる石の階段などをくみ合わせて作った碑とか、正岡子規の稗とか、いろいろな石碑がたっています。
 小学校の社会見学のコースにも入っているから、知っている人もいるとは思うけれど、その中に、呉の歌人、渡辺直己の短歌の碑もあります。
 『ほそぼそとかけたる月に対いつつ 戦いはついに寂しきものか』と刻まれています。ちょっと、難しいよね。この短歌で私たちに伝えたい心はどんなことだろう?
渡辺直己ってどんな人だったのだろう? と私もずっと疑問でした。
 ある日、私が子どもの頃から知っている歯医者さんに、渡辺直己の歌がたくさんはってあったので、
「これ、渡辺直己の歌ですよね。渡辺直己を知っておられるのですか?」「私は歴史の丘に碑があるのは知っているのですが、
他の歌や渡辺直己さんのことを何にも知らないんです。」と武田生視おじいちゃんに尋ねたら
「ぼくは、渡辺直己と同じ呉一中の後輩なんだよ。」と、渡辺直己がどんな人だったのか、碑が造られたいきさつ等をいろいろ教えてくださいました。
 「直己はね、自分が生きるか死ぬかの戦いの場でさえ、敵を憎むことができなかった。 人の命の大切さや、しあわせを、敵、味方で分けることカができなかったんだよ。」
 「日本が中国と戦争をした時も、抵抗する中国人のおぱあさんや少年に心を痛め、短歌 を詠んでいる。
 直己はね、中国との戦争は何の意味があるのだろう?と、苦しみ、悩み、悲しんでいたと思うんだ。
 きっと、戦争を始めた人々の事を、なんて愚かな事をしたんだろうと絶望していたのではないかと僕は思うよ。」
 「彼は、戦争は多くの深い傷跡を残すものであると見抜いていたんだろうな。」 「戦争の悲惨さや、むごさを伝えることで、戦争はどんな出来事かを、みんなに伝え、考えて欲しいと願っていた人なんだよ。
 峠三吉と同じように、『人問の命の大切さ』『幸せとは…』を、心の底から求め携け、それを短歌に詠んだ『呉の歌人渡辺直己』のことをぼくはみんなに知ってもらいたいし、忘れないで欲しいと思っている。」
「だから、歴史の丘に直己の碑を作ったんだよ。」といろいろ教えてくださいました。

  「涙ぐむ母にわかれの言述ぺて、出でたつ朝よ青くはれたる」
  「炸裂する砲弾の中を蟻の如く、道襲する敵の数かぎリなし」
  「照準つけしままの姿勢に息絶えし、少年もありき敵陣の中に」
  「銃弾が打ち貫きし手帳が、そのまま行李の中に収められいぬ」

 私の知らないその当時のことが目にうかび、目の前にはってあった幾つかの短歌を詠むと、戦場に送り出す悲しい親子の別れや、
いっ自分が死ぬかと怯える戦闘の激しさ、家族を思い、故郷を守るため、祖国を守るため死んでいった人々が目にうかんできました。
 戦闘地域では、敵を殺さねば、自分が殺される。しかし、みんな一つしかない『尊い命』。
 生をうけた者は、家族がいる。戦う相手の国であろうと、自分の国であろうと異なるわけがない。
 戦闘地域においての親子の情を、自分の母とダブらせたのでしょうね。また、若者の戦闘参加を、自国の子どもたちとダブらせたのでしょう。
 この世に、誰が我が子、我が主人、我が恋人、我が父親を戦場に送り出して嬉しい人がいるでしょう。
 みんなのお母さんだって、みんなが生まれたとき、決してこのようなことは願ってはいません。

 武田正視おじいちゃんから渡辺直己さんのことをいろいろ聞いて、短歌で伝えようとする渡辺直己の心が少しわかったような気がしました。
 『ほそぼそとかけたる月に対いつつ戦いはついに寂しきものか』という三十一文字にっまった渡辺直己の「せっなさ」「やりきれなさ」「願い」を受けとめ、私はあらためて「歴史の丘」に行き、歌碑の前で「平和の誓い」をしました。
v  ところで、どうして、『戦争』の傷跡がなかなかぬぐいきれていないのでしょう。みんなも、今でも世界のいろいろな国で「憎しみ」が消えきっていないのを感じるでしょう。
 国際紛争は決して「武力』ではなくならないのでしょうね。
 戦闘地域では「悲しみ」の涙が渇くことのない日々を目の当たりにしてきているわけですから「憎しみ」がぬぐいきれなくなるのも理解できますよね。
 しかし、それをすっとひきずっていたら、太平洋戦争だけではありませんが、本当の意味での「戦争」が終わることは永遠にないのではないでしょうか。
 きっと世界中のどこの国もこの「僧しみ」をのりこえてこそ、お互いが理解しあえるよう、歩みよることができるのではないでしょうか?
 戦闘地域で過ごしたことのない自分だからいえる理想かもしれないけれど、一日も早くそうなって欲しいことを、本当に願っている私です。

6、『忘れないあの日のことを』写真を見すえて想像して… 焼け場の少年

 最後に、武田正視おじいちゃんが、大切にされている「新聞の切り抜き」を紹介します。 この2枚の写真から、おじいちゃんの「平和」を願う思いが、私にもしっかり伝わってきました。
 少年が直立不動の姿勢で立っている、この一枚の写真を、みんなにも、しっかりと見すえてもらいたい。
 焼き場に立つ少年から、あなたは何を感じ、何を思うのだろうか…。そして、今からの時間をどのように生きていくのだろうか?
 この写真のなかに、20世紀のすぺてが、世紀を超えて携続く人間というものの、哀しさと、崇高さが表れている。
 原爆を投下され、戦争が終わった直後の長崎。大きな穴を掘っただけの火葬場で、いくっもの遺体が炎をあげて燃えていた。
 そこに少年が現れて穴のへりに立った。脊負っているのは死んだ弟である。作業をしていた男達がひもを解いて小さな遺体を受け取ると炎の中に置いた。
 燃え上がる弟を見っめていた少年はやがて、黙って立ち去っていった。ためらいながらシャッターを押したアメリカ人カメラマンは少年が歯をくいしぱっていた唇の端に血がにじんでいたのをみた。
 もしも、少年が私だったらと想像してみてはどうだろう?
 広島・長崎ではなく他の都市が原爆投下地に選ぱれていたら、この少年ではなく、ほかの、例えぱ私が火葬場のへりに立つことになったかもしれない。
 20世紀の目撃者である多くの写真は、それを見る人びとが、想像力という、人間の最もすぱらしい能力を十分に働かせたときに、はじめて歴史としてよみがえるのだから…。



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