《紙しばい》

「呉の歴史物語 〜戦争と闘った水兵たちと戦艦大和〜」

      是恒高志(これつね たかし)(中学校教諭・歴教協会員)

(1)
(1)タイトル「呉の歴史物語〜戦争と闘った水兵たちと戦艦大和〜」


第1部

(2)
(2)連日にぎわう大和ミュージアム。
   2005年4月のオーブンから3年経ち、入場者は400万人を超えました。
   今日も他県ナンバーの車がたくさん駐車しています。
   修学旅行団もおおぜいやってきています。



(3)
(3)このミュージアムに入るとすぐに目に飛び込んでくるのが
   戦艦大和の1/10の模型です。
   模型とはいっても長さ26.5mもあり、その迫力に圧倒されます。
   「世界一の技術で造られた世界一の戦艦」だそうです。


(4)
(4)ミュージアムの外、呉の街にも大和にちなむものがたくさんあります。
   「大和のふるさと」と大きな文字で書かれた垣根つきドッグ。
   大和が建造されたドッグです。
   しかし、大和は兵器です。人を殺すための兵器が、わたしたちの街の
   誇りになるのでしょうか。平和を大切に思うわたしたちは、
   大和から、どういう歴史の教訓を引き継げばよいのでしょうか。


(5)
(5)今から90年前の1918年11月11日。
   4年5ケ月つづいた第一次世界大戦が終わりました。
   パリの街では、男たちも女たちも街頭にとびだして、それぞれの国旗を
   ふって戦勝をよろこんでいます。しかし、この写真の人々の目からは
   「もう今日から砲弾の音を聞くことはないんだ」
   「もう戦車に押しつぶされたり、毒ガスに肺を焼かれることはないんだ」
   「父が、息子が、あの人が戦場から帰ってくる。もう戦争はこりごりだ」
   という声が聞こえてきそうです。


(6)
(6)平原のはてまでつづく十字架。
   4年5ケ月の戦争で1OOO万人の人が亡くなりました。
   鉄十字勲章を首からさげ、国家のために手や足を失った軍人、
   戦後、物乞いをして生きるしか道がありません。
   「もとの体にして返せ」と、だれに言えばよいのでしょうか。
   それらのあまりにも悲惨な、そして多くの犠牲の上に、世界の人々は
   「もう二度と戦争にしない」と固く心に誓いました。


(7)
(7)一方、アジアではガンジーが「非暴力・不服従によるイギリスからの
   インド独立」を唱えました。
   また、大戦中、大日本帝国の不当な要求によって山東半島を奪われた
   中国の人は、「不平等条約廃棄」「山東半島をかえせ」という
   主権回復の運動を始めました。


(8)
(8)日本国内でも「国利民福は普選から」という幟をかかげて
   民衆が行進しています。労働者や農民を政治に参加させよ、それが
   国の利益と民衆の福祉につながる、という主張を堂々とくりひろげています。
   こうして日本でも世界でも、世界平和と民族自決と普通選挙の実現を求めて、
   民衆が歴史の前面に登楊するデモクラシーの1920年代が始まったのです。


(9)
(9)ちょうどそのころ、大阪府伯太村(現和泉市)出身の阪口喜一郎、18歳が
   呉の海兵団に入隊レました。
   小学校時代は成績も良くて、副級長を務めた喜一郎でしたが、
   高等小学校を卒業し、機屋(はたや)と呼ばれていた紡績工場で働らいた後、
    「どうせ働くなら国のために」と海軍に志願したのでした。


(10)
(10)喜一郎は、当時、新兵器で、まだ危なくて、だれも行きたがらなかった
   潜水艦乗りを養成する潜水学校に、「だれかが乗らなければならないから」
   といって志順するような、真面目な愛国心のある好青年でした。


(11)
(11)しかし、25歳になったとき、好きな女性との結婚を、相手の家の戸主に
   断られるということを体験しました。
   また、女手一つで家を守ってきた働き者の母親が亡くなったことをきっかけに、
   「どうして好きな者どうしが結婚できないのか」
   「どうして働く者が貧しいのか」と、人の生き方や社会について
   深く考えるようになってきました。


(12)
(12)今、ブームになっている小林多喜二の「蟹工船」が、雑誌「戦旗」に
   発表されたのが1929年のことです。
   当時、労働運動や農民運動の盛り上がりの中でプロレタリア文化運動が
   盛んになっていました。
   しかし、海軍当局は、これらの雑誌を「危険な赤の思想」として
   読むことを禁止していました。 喜一郎は、もうすでに戦旗の読者で
   下宿の娘だった野村梅子の名前を借りて、これらの本を購入し、
   仲間をさそって読みあい、社会のしくみや貧困の原因を考え始めました。


(13)
(13)喜一郎たちが下宿で、社会について研究を始めたころ、中国の上海では
   日本人が経営する紡績工場で、待遇の改善を要求した中国人労働者が
   射殺される事件がおき、この事件に対する抗議行働がおこりました。
   中国の労働者たちは「帝国主義打倒!!」「中国人は団結して外国勢力
   と対抗しよう!!」と連日デモ行進をくりひろげました。


(14)
(14)この中国の反帝国主義運動に対して、呉の海兵団も出動が命ぜられました。
   その中の一人、木村荘重(むらしげ)水兵は漢口の日本人が経常する紡績工場で、

   中国人がストライキをしないように監視する任務につかされていました。
   そこで木村は「上官は資本家からの接待で、毎日毎日、女を交えた宴会だ。
   これじゃあ軍隊は中国人労働者を苦しめている資本家の雇い兵で、やくざの
   用心棒と同じじやないか」。
   こうして軍隊のあり方に疑問をもった木村は呉に帰港すると、
   迷うことなく稲垣看護兵を中心にした社会科学研究会に入っていきました。


(15)
(15)また、軍隊では上官の命令は天皇の命令で絶対服従でした。
   さらに、新兵にたいする古年兵の暴力は日常茶飯事で、しかも上官は見て
   見ぬふりでしたから、「暴力はいやだ」とは感じていても、「やめさせよう」
   とは思えなかったのです。
   しかし、学習する中で、「なぜ、兵士は人間あつかいされないのか」
   「赤子=天皇の子どもというくせに」「どうして天皇の軍隊で暴力みたいな
   野蛮なことがまかり通るのか」という疑問がふつふつと湧いてきました。


(16)
(16)軍隊や社会にたいする疑問から、やがて人間としての自覚や尊厳に目覚めて
   いくのは間もなくのことでした。
   「俺たちは人間だ」「人間として読書の自由を求める」
   「そうだ、外出の自由もだ」
   「なによりも、親や兄弟たちからの手紙を検閲するのが許せない」という
   要求が胸の底から湧き出てきました。そして、こういう人間としての自覚が、
   人間の命を虫けらのようにあつかう戦争に反対していく力になっていくのです。


(17)
(17)1929年アメリカのニューヨークの株価大暴落をきっかけに未曾有の
   不景気が世界をおおいました。
   また、1930年には、ロンドン軍縮のあおりを受けて、呉でも海軍工廠の
   労働者4100人の解雇計画が発表されました。
   ところが海工会というエ廠の労働組合は、組合幹部の職を保障するかわりに
   この解雇に協力するありさまでした。
   こういうなか、全協呉支部の「首切り反対」のビラが出勤途中の労備者の
   手に渡されていきました。
   やがて、手から手に渡ったビラを読んだ労働者の話し合いがあちらこちで
   始まり、自然発生的にサボタージュがはじまりました。
   しかし、そういう抵抗もむなしく、3700名の首切りが強行されました。


(18)
(18)1931年、日本軍は、満州の鉄道が中国軍によって爆破された、という
   事件をでっち上げ、新たな中国侵略のための満州事変を起こしました。
   労農大衆党は中国への出兵に反対し、共産主義青年同盟の若者の手によって
   広島市の宇品港で、出動していく陸軍兵士に「戦争は人を殺す恐ろしい
   殺人だ」という反戦ビラがまかれました。


(19)
(19)1932年1月、こんどは上海事変がおこされました。
   呉からは戦艦伊勢、日向をけじめ多くの艦艇と海兵団が出動していきました。
   市内では小学生に日の丸の小旗をふらせ、数千人の市民を動員して
   「万歳、万歳」の声で送り出す光景が連日のようにくりひろげられました。


(20)
(20)しかし、上海を守る中国第19路軍は33、500名、これに市民や労働者が
   加わって上海を守り抜こうとしています。これに対して海軍が派遣した
   陸戦隊は2、832名、兵力は中国軍の1/10 以下、その上、市民と敵対する
   侵略軍であり、苦戦が続きました。出動から6日後、最初の戦死者の無言の
   帰還がはじまりました。呉では3万人の呉市民が迎えたそうです。
   ついには陸軍が派遣され、停戦協定がむすばれる5月まで5ケ月間、戦闘が
   つづき、3000人を超える死傷者をだしました。
   ちなみに、この5月15日に国内では、海軍の若手将校による
   犬養首相暗殺事件が起きました。


(21)
(21)軍部は国内に反戦気分が広がることをおそれ、上海郊外の廟行鎮という
   ところで、破壊筒という爆弾をもったまま爆死した3人の兵士のことを
   「爆弾三勇士」という軍国美談に仕立てあげ、マスコミをつかって大宣伝
   しました。「爆弾三勇士」は歌になり、劇になり、小学校では校長先生に
   よって熱をこめて語られ、ついには国定教科書「初等科国語」の教材にまで
   なりました。


(22)
(22)こういう軍国美談や報道によって多くの日本人は相手の立場に立って冷静に
   判断することや、命の尊さについて考えないようになっていきました。
   「悪いシナ(当時、中国のことをこう呼びました)を正義の皇軍が
   こらしめている」と子どもも思うようになったのです。
   ちょっと冷静に考えれば、東京のような大都市に、突然よその国の軍隊が
   侵入してきて、艦砲射撃や空爆を行い、市民をまきこむような市街戦を
   はじめたのに・・・、やがて日本人の多くは、上からの報道に興奮させられ
   理性をうしなっていったのです。


(23)
(23)「よし、これで戦争を本質を伝えることができる」、刷り上った新聞を
   見ながら阪口喜一郎がつぶやいています。
   「戦争で死んだり傷ついたりするくらい馬鹿なことはない」と考えていた。
   そして阪口たち反戦水兵は、1932年2月に戦争の真実を知らせ反戦を
   呼びかけるための水兵向けの新聞「聳ゆるマスト」を創刊しました。
    この新聞は謄写版という印刷機を自分たちで組み立て、協カしてくれる
   水兵の下宿を転々としながら発行していきました。
   また、阪口は10年にわたる海軍生活の中から、不特定多数の者にビラを
   くばるのは、一見、英雄的に見えても、読んでくれないばかりか、官憲に
   捕まりやすいと考え、信頼できる水兵を通じて1部1部、手渡しするという
   配達方法をとりました。
   それでもやがて阪口は警察のマークがきびしくなり、呉での活動が
   できなくなりました。しかし、発行責任者をつぎから次へと交代しながら
   新聞の発行は続けられていきました。


(24)
(24)3代目の木村荘重の頃は、広島市の幟町で印刷され、木村によって呉に
   持ち込まれ、カフェ摩天楼の女給・佐藤静江の協力で小倉水兵に手渡され、
   小倉から軍港内の各部隊、各艦艇に配達されていきました。
   なかには「幸便箱」という分隊ごとの郵便箱に、たとえば「巡洋艦那智 
   松本辰治様」と書いた封筒を投げ込んでおくという大胆な方法もおこなわれ
   ました。
   その配達部数は100部、これは呉軍港内の1万人の水兵の1%に当たります。
   つまり、100人に1人が反戦新聞を読んでいたことになります。


(25)
(25)「オイ、どうしたんだ!アレはまだ来んのか。何をボヤボヤしているんだ。
   ほかの奴も早く次を読ませろって云って、何べんも云ってきたぞ。大砲の陰
   から、機械室や、ボイラー室の中から、口やかましく云ってくるぞ!」
   「訓練でつかれた体が一杯の水をほしがるように、俺たちは真実を知りたい。
   戦争で死んだり、傷ついたりするのは、労備者や農民の子だ。
   一体、だれのために戦争をするのだ。戦争をして何の得になるというのだ。
   俺たち労働者、農民の本当の敵はだれなのか」。
   こうして、軍隊内に反戦の気運が徐々に広がりをみせてぱじめたのです。


(26)
(26)「治安維持法違反で逮捕する!」「なに!逮捕状を見せろ!」
   [そんなものはない! 行政検束だ。 非国民のアカは逮捕状なしで
   しょっぴくことができるんだ」。
   侵略戦争をすすめる国家にとって、国民が真実に目覚めることくらい
   邪魔なことはありレません。
   政府は治安維持法を利用して反戦活動を徹底的に弾圧していきました。



(27)
(27)「非国民は殺してもいいんだ! 仲開の名前を白状しろ!」。
   検束された反戦水兵たちと、その協力者たちば残酷な拷問をうけました。
   拷問によって仲間の名前を白状させ、芋づる式に検束して組織を壊滅に
   追い込もうとしたのでした。
   そんななか、拷問に屈しなかった阪口喜一郎はついに広島刑務所で看守に
   殴り殺されました。1933年12月のことでした。


第2部


(28)
(28)それから4年後の1937年の七夕の夜、中国の北京郊外の盧溝橋で
   日中戦争が始まりました。


(29)
(29)日中戦争が始まって間もない11月、呉ではひそかに巨大戦艦の建造が
   開始されました。のちに「大和」と命名された戦艦でした。
   この戦艦は46センチ砲を積むために排水量7万トンにおよぶという
   巨大戦艦だったのです。
   一体どうしてこんな戦艦が必要だったのでしょうか。
   中国との戦争のため? いいえ、違います。
   それはアメリカとの戦争のためだったのです。


(30)
(30)アメリカを戦争相手にした時、兵器の数でも、それを生産する力でも
   アメリカに敵わないことをよく知っていた海軍は、兵器の質で対抗しようと
   したのです。大和の46センチ砲は40kmの射程をもち、アメリカの
   アイオワ級の戦艦の砲弾が届かないところから攻撃できます。
   これをアウトレンジ戦法と呼んでいました。ただし、アメリカが大和と
   同じような戦艦を造ったら、その戦略は成り立ちません。
   そのために大和の建造は秘密にしました。


(31)
(31)海軍は日本中からシュロ縄を買い集めてドッグの周りをシュロ縄のカーテン
   で囲み、なかで何をつくっているのかを隠しました。大和の建造費は
   1億4千万円(当時の国家予算の3%、今のお金にして2兆4千億円に
   あたる)も戦艦2隻分として予算案を計上し、帝国議会まであざむきました。
   建造工事にあたる工廠の職工にも「一切口外しない」ことを誓約させました。
   つまり、国民主権でない時代、国民には一切知らせず、意見も言わせない、
   そして見ることも禁じたうえで着々と国民の運命を大きく左右する戦争を
   準備していったのです。


(32)
(32)大和は1941年12月18日、日米開戦から10日後に完成しました。
   多くの国民は皇国史観(天皇のために尽くす)と軍国主義(武力で解決)の
   思想に縛られ、もう戦争に反対することもできず、ただただ「非国民」とか
   「国賊」とか「アカ」とよばれることを恐れて、戦争に協力させられました。


(33)
(33)そして、子どもたちも戦争に協力させられました。動労動員といって
   中学校や女学校以上の学校の授業は停止させられ、軍需工場で兵器生産の
   ために1日12時間も働かされました。
   未来を担う子どもだちから学ぶ権利を奪ってつくった銃弾や砲弾、風船爆弾や
   飛行機で何を守ろうとしたのでしょうか。
   子どもを盾にして、誰を守ろうとしたのでしょうか。


(34)
(34)子犬をだいた特攻兵です。まだ16〜18歳でしょうか。
   高校生くらいの彼らは「天皇陛下のため」「お国のため」と思い込まされ、
   「卑怯者」にならないように、競うように予科練に志願させられました。
   そして、60時間という短い飛行訓練ののち、まっすぐに飛行することしか
   教えられないままで、爆弾をいだいたまま、まっすぐ敵艦に突入する特攻に
   志願させられたのです。


(35)
(35)1945年3月、沖縄戦がはじまると鹿児島の知覧飛行場をはじめとする
   九州各地の飛行場から連日のように特攻機が出撃していきました。
   その多くが敵艦に突入する前に撃ち落されたそうです。
   桜の枝をふって見送るのは知覧高等女学校の女学生たちです。


(36)
(36)その沖縄では、45歳までの男は、みな防衛隊に入れられて戦わされました。
   中学生は鉄血勤皇隊として武器・弾薬の運搬から最後は爆弾を背負って
   戦車のキャタピラめがけて突入する特攻にさせられました。
   「爆弾3勇士」の教育の成果がこれなのです。


(37)
(37)この戦争では、空母を中心とした航空兵力が戦いの主力となり、戦艦大和は
   兵器としての使い道はなくなっていました。
   艦隊司令部は「呉に置いていても空襲で沈められるだけだ。朝鮮南部方面に
   退避する」、または「弾薬や兵員を陸上にあげ、大和を浮き砲台に使う」と
   いう案が検討されていましたが、「水上部隊は(特攻に)出撃しないのか」と
   いう天皇の一言に、海軍首脳が過剰反応し「非常な税金をつかって世界無敵の
   戦艦をつくった。それをなんだ無用の長物だといわれるぞ」という議論の末に、
   海軍の面子を保つために、成功の見込みはほとんどない沖縄突入作戦が
   おこなわれたのです。その面子の為に3000人が還らぬ人となりました。


(38)
(38)大和は4月7日、九州南西沖でアメリカ海軍の多数の航空機によって沈められ
   ました。しかし、大本営は「敵空母2隻をふくむ15隻の艦艇を撃沈、
   19隻を撃破した」と発表しました。実際は戦闘機10機を撃墜、アメリカ側の
   死者は12名だったそうです。大本営は事実とかけ離れた戦果を発表し、
   新聞はそれを伝え、国民をだまして戦争を続けたのでした。


(39)
(39)呉は昭和20年3月から14回に及ぶ空襲をうけ市内は焼け野原になりました。
   とりわけ7月1日の空襲では2000名を超える市民が犠牲となりました。
   さらに、8月6日には広島に原爆が投下されました。
   こうして、31O万人の犠牲者をだし、アジアの人々およそ2000万人を
   死に追い込んだ15年の戦争は、大日本帝国の敗戦で終わりました。


(40)
(40)「もう戦争も、軍隊もコリゴリじゃあ」「ほんまにねえ、これからは国民が
   主人公、戦争反対を言っても捕まらんのね」。
   焼け跡の中、日本国は新しい憲法を制定し、二度と戦争をしないことを
   決めました。そして、国民主権と基本的人権の尊重を原則としました。
   坂口喜一郎たちが求めてきた一人ひとりの人間を大切にし、なによりも
   戦争で死んだり傷ついたり、他の国の人の命を奪ったりすることがない国、
   そのために軍隊を持たない国になったのです。
   家も財産もないけれど、みんなの心に「この国で生きていける」という希望が
   生まれました。


(41)
(41)それ以来、日本国憲法を盾に、国民の平和を守る運動が続けられてきました。
   1951年のメーデーでは「再軍備反対」のスローガンがかかげられました。
   1960年の安保条約の改定の年は、「アメリカの戦争にまきこまれたくない」
   と考えた国民が30万人も集まって国会をとりまきました。
   そして、その日、全国では数百万の国民が反対闘争に参加しました。
   呉でも1984年の巡航ミサイル、トマトークの配備に反対する運動に多くの
   若者が参加しました。
   そして、1992年、再びこの呉港から自衛隊が海外に派遣される時、呉港の
   岸壁に集まった人は「日の丸」をうちふるのではなく、「自衛隊の海外派兵に
   反対」と大きな声をあげたのです。
   このように、戦後たくさんの坂口喜一郎たちが戦争に反対して闘い続けて
   きたのです。


(42)
(42)戦後62年たった2007年4月、呉の街に「鉄のくじら」が住み着くように
   なりました。
   海上自衛隊を退役した潜水艦「あきしお」を、大和ミュージアムに隣接して
   つくった海上自衛隊史料館の「別のなまえ」なのです。
   呉の人は、どう思ったでしょうか。
   呉の街のあるお母さんがつくった詩を読んで終わりにします。


(注)(31)戦艦大和の建造費
   当時の金額で約1億4千万円。これは当時の日本の国家予算の約3%にあたる。
   2008年の国家予算は83兆円、その3パーセント=2兆4千億円以上。
   最新鋭の護衛艦「こんごう」=7,250トン。 戦艦「大和」=64,000トン。
   こんごう級のイージス艦は建造費1200億円。イージス艦が20隻買える。

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 《参照》 平和教育への取り組み例
   「反戦水兵と戦艦大和で語る日本国憲法」の授業  是恒高志


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