2.若者の平和学習活動

  「呉地区高校生平和の集い」の活動の思い出  (四十一歳の初夏)
   鈴木陽一(映画「赤い月の街ー呉空襲ー」主題歌『殉国の乙女の詩』の元詞、元曲作者)

昭和五十六年 中学二年生
 沖縄の海の色は三段階になっている。
 フェリーが走っている沖のほうは群青。深く澄んだ蒼。
 海岸沿いは、限りなく透明で碧白。底の白い砂を映しだしている。
 その間は、エメラルドグリーン。透明プラスチックの定規を真横から見た色。
 中学二年生から三年生になる間の春休み、私は(社)日本海洋少年団 広島県連盟主催の遠洋体験航海沖縄派遣に参加した。
 鹿児島からフェリーで二十七時間、緑のカーペットの上でただ本を読んでいた。
周りは海しか見えない。
船上訓練といっても甲板上は風が強くて危険なため、たいしたことはできない。
ひたすら本を読んでいた。
 本といっても、ブルーガイドという観光ガイドブックしか持っていなかったので、何度もよんでいた。
 恥ずかしい話だが、このとき沖縄の観光ガイドを読むまで「ひめゆりの塔」のこと、沖縄で戦争があったことを知らなかった。
 陸にあがったら観光です。
 どこに行っても三段階に見える海を満喫した。もちろん泳いだりもした。
パイナップル園に行ったり、海洋博記念公園にも行って、前半は何も考えず楽しんだ。

 後半は、戦跡の見学。
まず豊城の海軍司令部の壕に入った。そして、首里城から南部へ。
 「ひめゆりの塔」、「健児の塔」、「黎明の塔」などを見て回った。
最後に「ひろしまの塔」で清掃をして献花というコースだった。
 私はだんだん無口になっていった。
 海軍指令部の壕で見た大田中将の最期の電文がずっとひっかかっていた。
 『沖縄県民カク戦ヱケリ・・・』というあの電文。
 沖縄県民は住んでいるところが戦場になり、学生も勉強をやめて軍隊に編入された。
非戦闘員であるはずの住民多く犠牲になったという。
中には、弾雨の中をさまよい壕ににげこんだところ、日本軍の部隊がいて追い出された。
壕に入れてもらえたら、壕の奥の安全な処を軍が占め、住民を盾にした。
壕の中で赤ちゃんが泣くと、「敵に発見される」という理由で殺された。
「沖縄県民はスパイだ」という疑いをかけられ軍刀で切り殺された。
 なんだか知らないことがいっぱい入ってきた。
日本の軍隊は沖縄を守る為にあったんじゃないの?
沖縄を守るというのは沖縄の住民を守ることじゃないの?
 敵が攻めてきて敵に殺された、戦闘の巻き添えで死んだ、というのなら理解できる。
郷土が戦場になるのは限りなく不幸なことだし、
逃げることしかできない非戦闘員が犠牲になることはいけないことだけど、
そういうことがおきるのはなんとなく理解できる。
だけど、味方である日本軍に殺されたというのは理解不能だった。
 『後世特別ナル御高配ヲ』大田中将は、「沖縄県民はよく協力してくれた。平和な日がきたら特別に御褒美をあげてくれ」といっているように思う。 沖縄には、米軍基地が点在し、米兵による犯罪も今だにある。
特別な御褒美が基地か?なんだかわからなくなった。
 「ひろしまの塔」で代表献花をした。儀杖敬礼の号令をかけた。
敬礼したまま目をつむった。(俺はもっと勉強せんといけん)
敬礼はいつもより長かった。

中学三年生
 沖縄から帰って中学三年生になった。
 三年生の担任は社会科の年配の先生だった。
 クラスに年間を通じての宿題が出た。
 「毎日、新聞を読んでその日一番興味を持った記事をスクラップすること。
わざわざすくらっぷ帳を買う必要はない。どんなノートでもいい。
内容は、社会面でも三面記事でも、政治、経済なんでもいい。」
 毎日適当にやっていたある日、朝日新聞に十センチ×二十センチくらいの囲みの連載記事を見つけた。
 今手元に無いので、タイトルは失念したが、沖縄戦の証言を連載したもので、
全て実名入りの証人の語る実録だった。
 毎日真剣に読んだ。
S・バックナー中将を狙撃した本人の手記、赤松海軍大尉のこと、
赤松大尉に反抗した結果、島民を守った島の中学校長の話等・・・。
 その中で一番印象に残ったのが、自決のはなし。内容もはっきり覚えている。
(何度もいうが、スクラップノートは手元にない)
 『最期の為に、軍から何人に一個という割り当てで手榴弾が渡されていた。
  米軍の上陸の報をきいて、もはやこれまでと、家族ごとに車座になり手榴弾のピンを抜いた。
ところが、軍から支給された手榴弾には粗悪品が多く発火しなかった。
  このことが、さらなる悲劇を生むこととなった。幼い我が子の首をカミソリで掻ききり、
年老いた両親を鍬や鋤で撃ち殺す・・・この世の地獄絵図を繰り広げた。』
(註・原文ではない)
 読んだ時、背中に氷柱がたった。
 宇宙戦艦ヤマトを観て育った少年の私には、
「愛する人の為に戦う」などという考えが多少なりともあったけど、そんなものぶっとんだ。
そんなもんは、間違ったことを正しくみせるための嘘、ごまかし以外なにものでもない。
 愛する者を守る為に愛する者を自らの手で殺す。矛盾している。訳がわからん。
 『生きて俘虜の辱めを受けず・・・』辱めを受けるくらいなら、殺してやるのも愛・・何じゃそりゃ。

 そんな時、同じ朝日新聞であの沖縄の大田中将の長男が、
呉宮原高校に勤務しておられ平和教育に熱心に活動しておられることを知った。


  昭和五十七年 高校一年生
 広高校に入学した。クラブはワンダーフォーゲル部に入った。
 毎日、朝一時間自主錬で一人で走った。土曜日の昼には、学校の中庭で飯を炊いて喰 った。
 海洋少年団では、毎週土日にカッターを漕いでいた。それなりに充実していた。
 6月になり、呉地区高校生平和のつどいというものがあるのを知った。
 生徒会から一年生は各クラス男女二名ずつの計四名以上強制的に参加という指令が出た。
 なんだかんだと理由をつけて参加しなかった。
 このときの集いのメインは、広島10フィート運動で買い戻したフィルムを元に作った映画「予言」の上映。
強制参加で行った彩はショックを受けた。
米軍が記録したカラー実写 フィルムは物凄い衝撃で視覚に訴えたらしい。
参加した女子の何人かが、正視に耐え切れずに退出したらしい。
 彩は二度と平和のつどいに参加したくないと言った。
 男子二名の西本と見山は逆に、平和のつどい実行委員に名乗りを挙げてきた。
 当時、私は、ヒロシマ・ナガサキについてかなり食傷ぎみだった。
というより反発を感じていた。広島に住んでいる以上、小学校から原爆のことは教わる。
中学になるとさらに多くのことを学ぶ。平和教育イコール反核だった。
 原爆のことは新聞でもたびたび大きく取り上げられるが、
沖縄戦のことは沖縄に行くまで全く知らなかった。
もちろん、私が単に無知だったからということもよく分かってます。

 広高校では二ヶ月に一回の割合で平和か同和が回ってくる。
 映画を観たり、講演を聴いたりして、感想を言い合ったりするわけだが、
まず発言する者はいない。仕方なく先生が指名する。
指名されたら毎回同じことを言う。
 『今回の話をどう思うか?』
 「戦争はいけないと思います」「平和を大切にしたいと思います」
 『ならば、私たちは何ができるか?』
 「今回のように映画を観たり、講演を聴いたりそういう学習が大切だと思います」
 毎回これだ。これを、小学生の学芸会レベルの棒読み口調で言う。
言っていることは間違えてない。しかし、その口調から本気でもない。
 『他に意見はないか?なければ時間も余っているし、試験も近いから自習。』
 毎回こうだ。平和どうこうより受験のほうが重要らしい。
受験が大切なのは本当だけど、限られた時間で自分の意見をまとめて発言する程度のことができないで将来どうするんだろう?
 高校一年生の冬にJRCに入部した。海洋少年団とワンゲルの両方で救急法の習得の必要を感じたからだ。
 実は、海洋少年団の班長研修で、中学生の時二回、日赤救急員の講習を受けている。
正式に資格をとって海洋少年団の制服に救急員のワッペンとバッチを着けたかった。
 学年末には、JRCの部長になってしまった。JRCに最初から所属していた同級生はかわいい女の子が二人。
なんかなりゆきで部長になってしまった。
 なりゆきでもなんでも、部長として青少年赤十字広島県高校生協議会に参加するようになってしまった。

高校二年生
 二年生になってすぐ、熊野高校のJRCに遊びに行った
 熊野高校の正門の前で、親友の中谷(同級)と海洋少年団十二期の原(同級)が迎えてくれた。
熊野高校のJRCは女の子ばかりで楽しそうなので遊びに行った。
そこで、正田さん(女・一級上)に逢った。
 正田さんは、前平和のつどい実行委員長で熊野高校生徒会長。
 JRCの部室と生徒会室は隣だった。
 正田さんといろいろ話てるうち、広高の生徒会役員になることと、平和のつどいの実行委員になる約束をしてしまった。
 次の日、西本に話した。西本は曇った顔をして「やめとけ」と言った。
しかし私はやると言った。西本はそれ以上なにもいわなかった。

 六月に第十八回呉地区高校生平和のつどいに参加した。
 内容は覚えていない。
 実行委員長の向井(男・同級・呉港高校)の基調提案演説の最中に正田さんが話しかけてきた。
「向井、どう思う?」
「正直に言うけど、なんじゃありゃ。実行委員長?あれが?」
「そんなこと言わんで、協力しちゃってえや。」そういう会話があった。
 基調提案演説はそう思ったくらいつまらなかった。
 つどいが終わった後残って、実行委員の名乗りをあげた。
 実行委員のメンバーにはかなり知った顔ぶれがあった。

 実行委員会は月一回、土曜日の午後、呉宮原高校で開かれる。
 少し早め到着したら、呉宮原高校の実行委員の連中が歌の練習をしていた。
 新人の私は黙って見学していた。
 呉宮原高校の実行委員は、一年生の時大田先生が担任をしていた生徒が中心で、知った顔もいた。
 たとえば、前田君(海洋少年団十二期)川内さん(海洋少年団十三期)等旧知の者も居た。
 奥谷(男・同級)が、ギターの名手で、奥谷を中心にさだまさしの「祈り」を練習していた。
 なんだか変な雰囲気があった。初めての実行委員会の帰りに西本が、
 「平和のつどいって広高から始まったの知っいるか?」と聴いてきた。
「僕は平和のつどいの中心を広高にもどしたい」 適当に聞き流した。
あとで聞いた話しでどこまで信用していいのか分からないけど、向井が平和のつどいの実行委員になったとき、
「ここに来たら女の子がたくさん居ると聞いた。わしゃ女ひっかけにきた」と公言したらしい。
実行委員会にきてもあまり関心のある態度でなかったらしい。
平和のつどいの参加者の中で、豊栄高校は実行委員はいなかったけど、
生徒会の協力で、各クラス二名強制参加だった為、女の子が多かった。
実行委員長を決めるとき、立候補する者は居なかった。
他薦とその場の雰囲気で西本と前田の二人に絞られつつあった。
はっきりしない二人が譲りあっている間、向井はチョロQで遊んでいたらしい。
優柔不断な二人にいらついた向井が「わしがやる」と立候補して向井に決まった。
そのせいか、実行委員会内に反向井といった雰囲気がただよっていた。
誰も口にはしないけど、新人実行委員の私には、なんか変だという空気が伝わったんだと思う。
 八月六日。呉市内の高校は「平和の日」として全校登校日になっている。
 広島では、日本全国の平和ゼミナールの高校生が集まり八・六高校生集会が行われる。
 平和ゼミナールの全国大会は広島と長崎で一年交代で行われる。
この年は長崎の八・九集会が全国大会の番だった。
 私は、大田先生の車に乗せてもらって会場の基町高校に向かった。
道中、大田先生に沖縄のことを聴いてみた。
 「そうか、鈴木はおやじの所に行ったんか。」
 そう言ったきり多く語ってくれなかった。
「おやじの所」と云うのが気になってそれ以上聴くのがはばかられた。
 八・六集会は私にはあわなかった。
 女の子が多くて華やいだ雰囲気はいいのだけど、なんだか真面目すぎて、堅苦しくて・・
一生懸命はわかる。なんか普通じゃない。政治的に利用されているような気がした。
 考えてみれば、たのきんやシブがき隊に騒いでいる女子高生、スポーツやバイクに熱中男子高校生。
ナンパ目的の向井のような奴。
そういう高校生のほうがあたりまえの若者の姿で、反核・平和を訴える高校生の集団というのは、ある種変な宗教団体に見えなくもない。
向井達数人は、そまま長崎の全国集会へ向かった。

 長崎から帰ってから向井の様子が少し変わった。
 平和のつどい実行委員会は、年二回行われる『呉地区高校生平和のつどい』準備実行委員会である。
二月と六月のつどいの準備のため、学校の枠を超えて毎月一回集まっている。
何をしているかというと、平和学習をしている。
この平和学習を通じて、次のつどいのテーマを模索したりいろいろな意見交換をしている。
この平和学習の為、顧問の大田先生、牧岡先生(呉宮原高校・当時)本間先生(熊野高校・当時)伊藤先生(呉港校)はいろいろな資料を用意してくださる。
時には、歌やゲームで楽しませても下さる。
 実行委員長の向井の司会で感想を述べあったりする。その向井に変化があった。
 別に外形上の変化ではない。ツッパリ気味の服装やバクハツした髪型は以前のままだ。
 実行委員会の中に、西本をはじめ向井をこばかにした雰囲気があった。
(勿論、正面きってではないが)それに対して向井も対抗するような感じがあって、実行委員会内でもなんかギスギスした感じがあった。
 長崎から帰ってからの向井から、対抗する意識がなくなった感じがあった。
こばかにしたような視線に対しても、以前なら半ば喧嘩ごしの対抗意識で返していたのが、かわすようになった。
以前のような(やられたらやりかえす)的オーラを出さなくなった。
 向井が変わったら実行委員会内の空気もかわった気がした。
 西本はウジウジした感じが増した。

『受ける平和から創りだす平和へ』
 第一回から代々先輩達から受け継いだ平和のつどいのメインテーマだ。
 一度実行委員会で「平和とはなにか?私たちは今平和なのか?」という討議をしたことがある。
先生からでなく、自然発生的な話し合いだったが、一番おもしろい話し合いだった。
 「世界をみわたせば、東西冷戦。競争するような核の保有と開発、宗教の争い、
石油をめぐる争い。紛争はいくらでもある。これで平和といえるのか。」
 「今、こうした自由に話し合っている。特別な妨害もなく、毎日勉強したり遊んだりしている。
これを平和といわずなんというのか?」
 代表的な二つの意見だが、他にも議論百出。大変面白かった。
 最後に向井が、「わしは、ある時、誰も信じられなくなった時期がある。
正直ちょっと荒れちょった。じゃが、今は信じられる仲間がおる。
これ、平和と云うんじゃないん?」こう結んだ。

 ガタガタ、チグハグしながらも二月の第十九回平和のつどいの準備というか、
だいたいの形が見え始めたころ年が明けた。
 実行委員会では、何代か前の先輩から一月四日フィールドワークにでかけるのが恒例となっている。
先輩が「戦跡よ語れ呉の平和な未来を」というスライドを残している。
これにそって、先生方の車に分乗して、音戸、倉橋島、警固屋などの石碑をめぐる。
他に、潜水艦をみたり、歴史のみえるが丘公園に寄って大和を建造したドックをながめたりして、
海軍墓地がゴールの半日コース。途中、先生方が解説をしてくださる。  実は、このとき私は参加してない。
 正月は年賀状配達のアルバイトをしていた。
 だから、この時点では、わたしは殉国の塔の存在を知らなかった。

第十九回呉地区高校生平和のつどい
 平和のつどいは第一日目、向井の基調提案から始まった。
 この中で向井は、自分が実行委員長になって、皆がついて来なくて悩んだこと、
今は信じられる仲間ができたことなど切々と語った。
その一部でフィールドワークについてふれた。
海軍墓地の立派なのに比べて殉国の塔の現状のひどいこと。
これは官尊民卑。ひとつの差別ではないか。
そして、自分たちにできること、まずそうじに行こうと提案した。
 最初の基調提案から感動的に盛り上がり、つどいは大成功におわった。
 私は、二日目に藤川(男呉工業高 同級)矢野下(女 熊野中退 同級)の二人の協力で沖縄問題の分科会をした。
分科会は高校単位で運営するのだが、私はどうしても沖縄の研究発表がしたかったので、特例として個人で分科会を担当させてもらった。
そこに、実行委員が一人しか居なかった呉工業高校の藤川と、個人参加の矢野下が協力してくれた。
 藤川の司会でクイズ形式で研究発表をした。
藤川と矢野下は急遽協力してくれたのにノリノリでとても感謝している。
ただ、広高校主催の分科会に全く協力しなかったので、西本とは完全に袂を分つ形になってしまった。別にどうでもよかった。
 つどいが終わると二年生は、進学就職準備の為「引退」する。
三月に三年生の追い出し会が引退会にもなっている。
六月のつどいは新二年生が中心になって開催する。勿論我々は補佐はする。
 三月のある日、広駅で向井に会った。
 「鈴木、次の実行委員会来るんか?」
 「うん。いくつもりだ。」
 「実はわし、みんなに土産があるんじゃ。」
 「土産???????」
 向井の土産とは、平和のつどいの為に歌を作ったことだった。
 向井は自分が実行委員長として活動した足跡として歌という形の置き土産を残して引退したかったんだろな。
 向井の置き土産―――というか、公約がもうひとつあった。
 殉国の塔の清掃奉仕。
 これは、実行委員会有志参加ということで、春休みに実行することに決まった。

殉国の塔清掃奉仕
 春休みのある日、有志は呉駅に集合した。
 山木さん(女 呉宮原高 同級)平本(女 熊野高 一級下)林(女 広高一級下) 福島(男 広高 一級下)鈴川(男 呉港高 一級下)そして向井と私の計七人の有志が集まった。
 手元にそのときの写真があるのだが、鈴川だけが学生服を着ている。
先輩である向井から、暇なら来いと言われ何するか詳しく聞いてなかったらしい。
平和のつどいと聞いて真面目な格好しなければいけないと学生服で来た。
有志に広高が多いが、私は参加を強制していない。
なにしろ、広高内で孤立してましたから。
林も福島も向井に賛同して自ら参加してくれた。
先輩として誇らしく思う(先輩は情けないけど)。
 一名を除外して、ほとんどピクニック気分で歩き始めた。
 私はこのとき殉国の塔に行くのは初めてだった。
現状がよくわからないので、登山用のザックに軍手、カッパ、ワンゲルで借りた鎌と鉈、どういうわけか、水と鍋とコンロまで持参していた。
 初めて行った殉国の塔は、何とも形容しがたかった。
参道(?)は、登山部の私にはどうってことないが、女の子や学生服の鈴川にはきつかろう。
 軽く手を合わせたあと草刈から始めた。刈った枯草を女の子達が集めてまとめる。
 その間向井は独り黙々と焼香台を洗ったり拭いたりしている。
 「ずっとこれが気になっちょたんよ。」
 ある程度やったら小腹がすいてきた。
 女の子が弁当を持ってきていて分けてくれたが、女子高生のお弁当はかわいい。
野郎共のお腹は満足しない。
ふと、向井のかばんからインスタントラーメンの袋がみえた。
 私のコンロと鍋が役にたった。
(向井は今だに、ワシの貴重な食料をとりゃがったと言う)
 重装備のおかげで、私は「墓掃除行動隊長」という渾名を賜ることとなった。
 向井は、ギターを出して変な表現があったら直してくれと、置き土産の、
「呉の平和」を歌いだした。(結局どこも直さなっかた)
 殉国の塔に最初に捧げた慰霊歌は向井の作った歌です。

平和 子供の夢 それが平和だ
母親の夢 それが平和だ
木陰の愛の こ と ば
それが平和だ
世界の顔の上の傷口が閉じるとき
死者達が寝返りとうって
自分たちの 流した血が無駄でなかったと
知ってぐっすりと 眠りにつくとき
それが 平和だ

呉の平和
素直な心 それが平和だ
いつも素直に それが平和だ
ときには なげやりに な る け ど
それが平和だ
今 僕らがこの世の中にいないとしたら
平和なんて語れない ヘリクツも言えない
だけど僕ら 今生きているんだね
だから考えるんだ 笑顔で微笑まれることを
それが 平和だ

 人を信じる それが平和だ
人を愛する それが平和だ
時には腹もたつ け れ ど
それが平和だ
もしも人を信じられないなら
身近な人を愛することができないなら
あなたは何故いきているんだね
何が楽しいの
精一杯人を信じるんだ
そうすれば 平和だ

  仲間ばかり それが平和だ
いやなやついないさ それが平和だ
仲間だから 信じら れ る
それが 平和だ
地球上の人たち 地球上の動物たち
どいつもこいつも 仲間なんだよ
話しができる 歌もうたえる
これが仲間だろう ねえどうだい
ちがわないだろう
それが 平和さ
それが 平和さ

高校三年生
私は高校三年生になった。
新しい実行委員長は平本に決まった
 六月の第二十回平和のつどいは平本を中心として新二年生で開催される。
 私ら三年生は別に出なくてもいいが、実行委員会に結構でていた。
 もっとも、広高の三年生は私だけになっていた。
 第二十回のテーマソングは向井の「呉の平和」に決まった。
 気楽で楽しいつどいだった。
 そうこうするうち夏がすぐきた。
 その年の八月の高校生平和ゼミ全国集会は広島の番だ。八月五日六日の二日間ある。
 活動報告として、「呉の平和」を、私は藤川と二人でギターを弾き平本が歌った。
六日の日、大田先生の車で広島基町高校に向かった。
 大田先生に別の質問をしてみた
 「中曽根首相の靖国公式参拝をどうおもいますか?」
 「わしの親父は靖国神社にはおらんよ。わしも親父もキリスト教徒じゃけん」
 帝国軍人は戦死すると全て靖国神社に祭られるものと思っていた。
 先生は次の質問をさえぎるように言った
 「しかし、鈴木はかわっとるのう。」
 「よく言われるけど、どうかわってます?」
 「お前は右も左もこなす。」
 「僕、右翼じゃないですよ。」
 「いや、わしに言わせりゃ、海洋少年団もガールスカウトも右翼じゃ。
 お前は現役の海洋少年団員じゃろ。」
 この一言にはまいった。この一言で私は一年近く悩むことになる。
 やはり先生はバリバリのアカなんだ。
 八・六集会が終わって、「第二次墓掃除行動隊(?)」が動き始めた。というとオーバーだが、
再び有志を募って、ピクニック気分で殉国の塔に掃除に行った。
 この夏の掃除は正直まいった。下草の凄いこと。途中の道から塔まで草ぼうぼう。
そしてやぶ蚊。よほど血に飢えているらしい。Gパンの上からでも遠慮なしに刺しまくる。
それに加えて夏の暑さ。降参でした。
 休憩していたら、塔の反対側の丘の畑から声がかかった。おじさんが、手を振りながらおいでおいでと呼んでいる。
向井と二人(なぜかカメラを持って走った)怒られると思った。
自分たちは清掃奉仕のつもりでも、知らない人から見ると遊んでるとしか見えない
 「さっきから見とったが、あんたら、あの場所がどうゆう場所かしっとるのか?」
 自分たちは高校生のサークルで、掃除のボランティアに来ていることを説明した。
 「そうか、がんばれ。」
 おじさんは、大きなスイカをくれた。早速割って食べたが、採れ立てのスイカは甘かったけどぬるかった。
 食べきれなかった分を「お供え」して掃除を終えた。

空襲を記録する会全国大会
 私たちが掃除に行ったその日、勤労会館では、「空襲を記録する会全国連絡協議会呉大会」が開催されていた。
 大田先生から、時間があれば覗いて見るように言われていたらしい。
私と平本が代表して行った。急遽壇上に上がって呉の高校生の活動を発表するように言われた。
私は平本と打ち合わせをした。
 「スイカの話しをしよう。僕はふざけた兄ちゃんの役をやる。
今日のことをおもしろおかしく喋るから、お前はまじめな女子高生役で、直立不動で解説しろ。
そういう対比で笑いを取ろう。」
 若いというのは、怖いもの知らずもいいところだ。
空襲を記録する会の全国大会で壇上で参加者から笑いをとろうとしたのは、
後にも先にも私だけだろう。この性格はいまだに直ってない。
それなりのウケたと思っている。そういうふざけた役を演じたことによって、
大田先生や朝倉先生の立場が悪くなったという話しは聴いてないから、あれでよかったんじゃないだろうか?

昭和五十九年の終戦記念日
 数日たった八月十五日。終戦記念日。
 この日、大田先生の主催で、呉地区高校生平和のつどい十周年のそして初めてのOB会が開かれた。
大田先生の自宅近所の小坪自治会館に先輩たちが集まった。
今にして思うと、学校、学年を超えたこういう集まりはありえないと思う。
 「OB,OGがせっかく集まるのだから、現役高校生も先輩の話しを聞いてみなさい。
 何か参考になるかもしれない。」
 そういわれて、現役高校生の一部が特別に参加させてもらった。
始まるのを待っていたら、坂口(男 呉港高 一級下)が「鈴木君、これしっとる?」と言って新聞の切り抜きを差し出した。
 朝日新聞の読者投稿欄、題名は「守れ殉国の塔」投稿者は、大阪の金野紀世子氏。
 私がふざけて発言をした空襲を記録する会全国大会の参加者で、翌日、フィールドワ ークとして戦跡めぐりをしたらしい。
 内容は、あまりに酷い道をなんとかして欲しい。
あの場所も、いつでも訪れことができるようにして欲しい。
亡くなった乙女の叫びが聞こえるようでとても悲しい。
呉市の行政当局に望むーといった内容のものだった。
  その二日後の朝日新聞の地方欄。殉国の塔の写真と共に、現状の取材、呉市は移転も含め検討と大きな扱いで書かれている。
 「たった一通の投書でここまで新聞が動いた。
これ、大阪のおばちゃんの投書だけど、これ、ワシらがすべき投書だったんじゃないか?
掃除を否定する訳じゃないけど」
 この二通の新聞記事は、OB会が始まるとすぐ回覧をして巡った。
この日、十周年と初のOB会ということで、NHKのTV取材があった。
乾杯の後ひとりひとりの自己紹介の場面を収録してTVクルーはひきあげた。
 「おい、NHKは帰ったか。それじゃ、本番はじめるぞ。」
 大田先生は高校生ひとりひとりにビールをついでまわった。
 「では、再度、乾杯!」 酒盛りが始まった。
 かなり飲んで、私はどうやって家に帰ったか覚えていない。
 夕方には家で寝ていた。寝ていたら坂口から電話があった。
 「今日の様子はNHKの六時すぎのローカルニュースで流れるから見るように」
 まだ少し酔った状態でテレビを観た。
 約五分の映像を見終わった後、適当にチャンネルを回していた。
何かおもしろいものやってないかな?という程度でまわしていたら、突然、画面に殉国の塔が画面に映った。
投書と新聞記事をうけてテレビ局が動いた。一通の投書がテレビ局まで動かした。
なんだか、ショックだった。自分たちはなにをやってたんだろう。
勿論、掃除は精一杯心を込めてやったつもりだ。
でも、それは、世の中に対してどのくらい影響を与えたのだろう?
自分達の自己満足の範囲での活動でなかったか?
たった一本の大阪のおばはんの新聞の投書の方がはるかに大きな影響力があった。
(もっと、大きな活動をしよう)でも、何ができるだろう?
酔った頭で真剣に考えた。投書は二番煎じだし、自分たちにしかできないこと。
(そうだ。歌をつくろう)
 世の中と、同じ世代の高校生に訴える歌を作ろう。
シラフだったら多分想いつかなかった。決心だけしてその日は寝た。
 翌日、二日酔いもなく。はっきりした頭で作詞、作曲をはじめた。

二十五年間の勘違い
 二十二歳くらいだったと思う。海洋少年団の訓練終了前の掃除を終え、ゴミを焼いていた。
(私は高三で海洋少年団を卒団後、OB,準指導員、指導員と歴任し活動していた)
 千葉新二副団長兼教務部長から、「鈴木先生、これ」と封筒を渡された。
封筒には海自新聞の切り抜きが入っていた。
 千葉先生のライフワークは「海の碑調査研究」。
千葉先生は戦後すぐ、日本の海の掃海作業に従事された。
戦時中、米軍は日本の海にたくさんの機雷を投下していた。
重量機雷といって、船のさで発火する機雷。磁気機雷といって鉄でできた船の鉄に磁石で反応して発火する機雷。
さらにそれにタイマーをセットして、セットした回数目に発火するもの。
これらを掃海する方法として、鉄でできた重い船で同じ場所を往復する。
タイマーは最大一〇だから一〇往復して爆発しなければ安全宣言を出す。
要するにモルモットだ。モルモット船の名前は東亜丸。他に三隻あったそうだ。
これが海上保安庁の最初の仕事だった。
モルモット方式から電磁誘導方式になって、朝鮮戦争では、海上保安庁から一名の戦死者をだしている。
朝鮮戦争後、海上自衛隊に引き継がれている。海上自衛隊の掃海部隊は日本唯一の実戦経験部隊といわれている。
日本初のPKOとして派遣された呉一○一掃海隊の派遣司令官は大田先生の弟さんだ。
 千葉先生は東亜丸を降りた後、海上保安官として警備救難の仕事をされていたが、
あまりに多い海難事故を減らしたいと、海難事故慰霊碑の調査研究を思いつかれた。
海上保安大学図書館に籍を置いて、日本全国の「海の碑」を調査されている。
その調査範囲は、対馬丸などの有名な海難はいうに及ばず、
海軍墓地の戦艦から民間の小さな漁船の事故、戦没から捕鯨記念碑、鯨の慰霊碑など海と日本人の接点にまで及ぶ。
当然、「殉国の塔」もご存知だろうとは思っていた。ただ、なんとなく聞きそびれていた。
どこで聞いたか、千葉先生は、私が「殉国の塔」に関係しているのをしって、わざわざ切り抜きをくださった。すぐコピーして大田先生に渡した。
「私が海軍に入って一番最初に研究したのが毒ガスでした」
「鈴木先生。戦争は絶対やっちゃいかんのですよ。絶対に・・・」

 千葉先生の資料に卜部清太郎氏の名があった。私は一○四で調べて直接電話してた。
本人から直接きいた。私は少し勘違いをしていたようだ。
「殉国の塔」は沖縄の「ひめゆりの塔」と同じで、女学生に対する慰霊碑と思い込んでいた。
占部さんに、「妹さんは、どこの学校の派遣の方ですか」と訊いた。
「私の妹は学徒動員ではありません。だからどこの学校といわれても」
「不勉強で申し訳ありません。女子艇身隊というのは、学校ごとの隊ではないんですか」
「いえ、わたしの妹は学校を卒業した後、今で言う家事手伝いでした。
花嫁修業をしていたんですよ。そういう人を徴用として引っ張ったんですよ」
 学徒動員というと、私の頭には、テレビでよく写しだされる神宮での大學ごとの分列行進が浮かぶ。
学徒動員と学徒出陣が一緒になっている。
女学生の動員イコール女子挺身隊と勝手に思い込んでいた。
だから、「殉国の塔」は沖縄の「ひめゆりの塔」「白百合の塔」に批准される。と勝手に思い込んでいた。
思い込みもあるし、そのように教わった。
実際は、あの場所で荼毘に付された人々(主に工廠労働者)の為の慰霊碑であることが最近解った。
 そうなると、「殉国の乙女の詩」も、女子艇身隊だけの鎮魂歌として作った経緯から作りなおした方がいのか?
 深く考えないことにした。そこで多くの少女が亡くなった事実は変わらない。
「殉国の乙女の詩」で『私』と表現した一人称代名詞は、祭られている全ての人であり、碑そのものである。
たまたまその代表が一〇代の女性だった。象徴的な人だったというだけで、事実を語り継ぎ唄うことに変わりは無い。
 二十五年、四半世紀の勘違い。そうまとめることにした。

平成二十年六月二十二日
 殉国の塔保存会による移転後初の慰霊祭。
 警固屋中学校の二年生の生徒さんが「殉国の乙女に捧げる詩」を唄ってくれるというので、伴奏をするつもりで生徒さんの後ろに立っていた。
 前夜からの雨もすっかり止んで、海上の靄も晴れ日差しさえ注いでいる。
 「警固屋中学の慰霊祭」と銘打った式次第が、生徒さんの手で淡々と進行していく。
 (しまった。「青い空は」か「折鶴」をBGMに弾いたほうがよかった)
 (いや、ここは「殉国の乙女の詩」かな)いずれにしても手抜かりだった。
 ふと、景色に目をやった。
 蒼い海にジェットホイールが白波をけたてて出港していった。
 (いい景色だな)
 この蒼い海は瀬戸内海を経て、あの沖縄につながっている。
いや、地球上の全世界につながっている。
 (この生徒さん達もいつかはこの蒼い海に漕ぎ出して行く。平和はやはり大事だな)
 いつまでも蒼いままで、殉国などという言葉を二度と使わない世の中に。
海はいつまでもあおいままで・・・・・鈴木陽一 四十一歳の初夏


【呉戦災を記録する会からのお願い】
  「呉地区高校生平和の集い」の活動に参加していた人の「想い出」をお待ちしています。
   また、当時の資料をお持ちの方はご提供ください。


U、「元歌秘話」    鈴木陽一
  「殉国の乙女の詩」作詞・作曲への想い

背の高い草の間から 海を見ています私
昨日の悪い夢を想いだしながら
少女だった私 今も少女のままで
流れる涙もぬぐえずに
海を見つめています

海の見えるこの丘で 星になったんです私
あしたへの夢を信じながら
何も知らない私 想いしらされて
僅かの間に 友と一緒に
空に還って逝きました

景色のいい丘なのに 誰も来ないこの丘
誰も知らないこの丘
私がここにいるのを 誰もしらない
流れる涙をぬぐって欲しい
ここから見える海と この街を
あなたに見て欲しい

背の高い草の丘から 街を見つめてる私
忘れ去られた昨日の悪い夢
忘れ去られた私
私を知らない人たちが
明日見る夢は 星になる夢

これが、映画『赤い月の街』のテーマソングになった「殉国の乙女に捧げる詩」の元唄になったものです。
はっきりいって稚拙な詩にどうしょうもないメロディですが、
この曲は、『赤い月の街』の冒頭の呉空襲展の部分で挿入曲として採用されています。
作ってから二十五年、四半世紀たったことだし、あるきっかけもあることだし、
私がこの曲を作詞・作曲するに至った経緯とその想い、
『呉地区高校生平和のつどい』と共にあった高校時代の青春(とゆう程オーバーなものでもないが)について語っておきたいとおもいます。 

作詞、作曲
 歌を作る前に、方針のようなものを決めた。
 「死んだ、殺す、殺された、撃った、撃たれた」など、直接悲劇を連想する言葉を使用しないこと。
なんだか被害者を強調するみたいで嫌だ。(実際、被害者なんだけど)
 この時代、本人の意識はともかく、戦争を賛美し、戦争を遂行する一歯車としての役割を全てのひとが担った。
被害者であると同時に加害者としての側面も持っていたと思う。
学校の平和教育で原爆のことを学習しても、被害者の部分ばかり強調され、そういう部分は教えない。
勿論、軍国教育という国の方針や思想取締りで自由な考えは持てなかったかもしれないが、 小さな子供まで、
大きくなったら兵隊さんになって敵をいっぱいころすんだ、と言った以上、
立場が変われば戦争の加害者になりえた事実を曲げてはならないと思う。
 もうひとつ、呉を感じさせないこと。
呉は海軍工廠の町という特殊性はあるにしろ、軍需工場は日本のいたるところにあった筈で、他にも埋もれた民間の犠牲者はたくさんいたと思う。
私が住んでいる石内に、日露戦争の忠魂碑がある。
この石碑は旧石内小学校の校庭に忠孝の碑と並んで建っていた。
戦後、軍国教育の否定で校庭から撤去され、荒地に遺棄された。
こういう遺棄された民間の慰霊碑はたくさんあるんじゃないかな?
元々私が平和のつどいに参加したのは、沖縄問題からで、殉国の塔を勉強する中で、
ひめゆりの塔や白百合の塔を意識していたのは間違いない。

* 背の高い草の間から 海を見ています私
 (背の高い草というのは、勿論殉国の塔の現状のことではあるが、これは世の中という意味もある。
 世の中から忘れ去られひっそり佇む碑、海は過去の日本。特に呉は海から戦争がやってきたといってもいいと思う。)
* 昨日の悪い夢を想いだしながら
 (昨日の悪い夢は戦争のこと。空襲のことでもある。
あえて夢と表現したのは、いい夢ではない。悪夢も夢です。)
* 少女だった私 今も少女のままで
 (この表現は実は盗作です。広高の大先輩に漫画家の太刀掛秀子さんという方がいます。
 先生の著書「花ぶらんこゆれて・・・」第三巻に似た表現があります。無断で使用しました。)
* 流れる涙もぬぐえずに
 (石碑が泣くのかと訊かれたら困りますが、殉国の塔は泣いているとおもいます)
* 海を見つめています

* 海の見えるこの丘で 星になったんです私
 (ここの海は前にでた海と違い、現実にみえる今の海を想像してください。
 星になったという表現は自分でも稚拙だと思います、)
* あしたへの夢を信じながら
 (明日への夢って何でしょう?平和な日々を夢みてという答えでは少々違います。
当時工廠で働いていた人々はそんなこと考えていたでしょうか?
当時の人の夢は戦争に勝つことではないでしょうか。)
* 何も知らない私 想いしらされて 
 (戦争に勝つ夢をいだいていながら、どこまで本気で信じていたのでしょうか?
私にはわかりません。しかし、高級軍人はともかく、民間の人々には報道管制が敷かれ正確な情報はほとんど知らされなかったらしい。
もしかしたら、その死の瞬間に全てを悟ったかも知れないと思ったのは私だけかな。)
* 僅かの間に 友と一緒に
* 空に還って逝きました
 (空に還るというのは、少し宗教的思想がはいってますが、あの丘で火葬され、
  煙が立ち昇るイメージが湧いたので、こうゆう表現を使いました。)
* 景色のいい丘なのに 誰も来ないこの丘
* 誰も知らないこの丘
* 私がここにいるのを 誰もしらない
* 流れる涙をぬぐって欲しい
* ここから見える海と この街を
 (海に対して、街という表現を使いました。
  海は過去の戦争、空襲を表しているのに大して街は現在の町。
  平和と産業の発展を得た現在を表したつもりです。)
* あなたに見て欲しい
 (わたしに対してあなた。このあなたは、この歌を聞いてくれる全ての人。
私が訴えたい対象の人のこと。)

* 背の高い草の丘から 街を見つめてる私
* 忘れ去られた昨日の悪い夢
* 忘れ去られた私
* 私を知らない人たちが
* 明日見る夢は 星になる夢

 (最後に思いっきり毒を吐いてしまいました。  だけど、過去の戦争の悲劇を忘れさってしまうと再び悲劇を繰り返してしまいかねない。  戦争と戦争を引き起こしてしまったシステムを憎みます。
 そして、その為に再び犠牲がでることがないように。過去を継承することで、悲劇が再現されないように。
 忘れ去ってしまうことで悲劇は再現されるんですよ。ちょっと言い過ぎたかもしれません。)

 だいたい四時間くらいで仕上げた。
 この時点では題名はついてなかった。題名を考える程の余裕はなかった。
実行委員会で発表してみんなで題名を決めてもらおうと思った。
 余談だが、ちょうどこの曲を作った頃、新聞とテレビで1フィート運動のことを知った。
なんとなく、ただなんとなくだが、呉空襲をテーマにした映画を作るなら、
この曲を使って欲しいなんて夢みたいなことを思った。

 九月の実行委員会でこの「無題」の曲を発表した。
 後輩たちは、下を向いて黙ったままだった。
 「しまった。失敗した」
 いろんな意味で失敗だった。
 昭和五十九年のヒット曲といえば、松田聖子とチェッカーズ。街には、すだれ髪と聖子ちゃんカットがあふれていた。
(おにゃん子は翌年からです)暗い曲というものはまったく影がなかった。
高校生は暗さについてこれないようだった。
いつもニコニコ見守ってくれる大田先生に目をやると、黙ったまま腕組みをして、
事前に提出した歌詞を睨んでいる。
暗い上に毒を吐きすぎた。題名を保留したまま次回に持ち越しになった。
翌月の実行委員会でも題名を議題にしたが、全く発言はなかった。
無理矢理坂口に振ったら一言、「鈴木君のテーマ・・・」
  坂口の後日談だが、「鈴木君の言いたいことはよくわかってる。曲も理解しているが、暗さについていけん。もう少しなんとか・・」
別の女子高生の感想、「ほんとに暗い・・・暗いだけじゃなく重い・・・」。
作曲時の目的は一応達成したようだけど、完敗です。
 『殉国の乙女の詩』という題名はつどいのレジュメに載せる締め切りギリギリでくるしまぎれに付けた題名です。

 失敗した曲をそのままつどいにかける私ではない。――――もう一曲作ろうーーーー余力は無いけどーーーー私の考える平和――と言うより、私が中学、高校で受けてきた平和教育、思いっきり皮肉と反発。全てを一曲にぶつけてみようーーー  題名は『平和の構図――composition of peace』

 若い兵士が 母国の旗を背に
 またひとり テレビの画面の一部になる
 俺には関係ないと テレビを消して 外に出る
 木陰で愛をささやく人
 防衛庁のポスターが
 愛する人を守れという

 どこかの国で 子供が飢えて死に
 また一人 飢えの為に倒れた
 俺には関係ないと コーヒー飲み干し 外に出る
 公園を今鳩が舞う
 街頭募金の呼びかけに
 わき目もくれず過ぎる人

 僕らの国は 今平和だけど
 それでいいのかい
 これでいいのかい

 十一月の実行委員会の前に中途半端にできた。
なんか短かすぎて、盛り上がりにかける。
悩んだけどいい案がでなかった。
そこで一升ビンを一本かついで向井のアパートに行った。
「僕らの・・」以降は向井が作ってくれた。
 十一月の実行委員会はアルバイト(年賀状)の研修があって行けなっかたので、向井に頼んでおいた。
 十二月の実行委員会行ったら全く別の曲になっていた。(大笑い)
二月の平和のつどいのテーマソングに正式採用になったが、作曲者の私だけが歌えないという変わった曲です。
 十二月の実行委員会でもテレビ取材があった。
 1フィートのフィルムをそのまま(編集なしで)高校生に見せて、感想をきいて映画の参考にしようという取材だった。
 約30分のフィルムを見て、前の方に座っていた平本や宮原さん(女 呉宮原高 二級下)にインタビューしている間、
たまたま私の前に座っていた初参加の松本さん(女呉昭和高 二級下)と雑談していた。
私は自分の感想を混ぜながら松本さんに誘導尋問にかけていた。
テレビクルーがインタビューを終えて帰りかけに、私の方を見ながら、
「今日はこれで終わりです。ありがとうございました。何か言い残したことがあれば、いまのうちどうぞ。」
「すいません。今ね、ここにいる女の子と雑談していたんだけど、凄くいいこと言ってるよ。
今日初めて来た子なんだけど、一番新鮮な感想だと思うから聞いてやってよ。」
テレビカメラが固定された。「じゃあ君、マイク貸すから、インタビュアやってよ」
「やですよ。先輩がインタビューしたら強制にみえるよ。自然な感じでとりたいでしょ」
当時、ビデオを持っていなかったので、この映像は手元にないけど、松本の意見はすばらしかったと思う。
 受験(海保大)に失敗した。浪人は許されなかった。
 広の自動車修理工場に就職が決まった。
 冬休みは何もせず、のんびりするつもりだったが、郵便局から是非バイトに来るように誘いがあった。
 恒例の一月四日のフィールドワークはバイトで欠席の予定だった
。 が、この年のフィールドワークにNHKのラジオの取材が入ることになった。
大田先生から、「歌まで作ったお前が来ないことには始まらんじゃろ」と諭され 郵便局には、午前中のみ欠勤で勘弁してもらって参加した。
フィールドワークは初めての参加だった。
ラジオの出演の方はうまいこと言って断った。
OB扱いの三年生より一年生のフレッシュな感想を出した方がいいにきまっている。
そのくせ、NHKのアナウンサーさんの車で郵便局まで送ってもらった。

高校三年生の二月
 二月になると、三年生は週に一回くらいしか登校しなくなる。
 この時期を利用して、自動車学校に通っていた。
 そんなある日、読売新聞から取材の申し込みがあった。
自動車学校の近くの喫茶店で、読売新聞の中野記者に会った。
そういえば、十一月の実行委員会に潜入取材というか、見学に来ていた新聞記者がいた。それが中野記者だった。
あと数週間で引退し社会人になる身、あまり目立った行動をしないようにしていた。
適当にあしらうつもりが、中野記者のうまい質問にのせられて、歌の解説を熱く語ってしまった。
本来、作品というのは、どんな想いがあっても、発表したら作り手のものから受けてのものになる。
受け手がどういう感想を持とうが勝手で、作者の真意が伝わらなかったとしても、 それは作者の力量不足。
解説は作者がするべきではない。
(この稿で二十五年ぶり解説した)相当、ストレスや不満が溜まっていた。
 二月のつどいは、私の『Composition of peace』がテーマソングになった。
『殉国の乙女の詩』は、自作発表という形で特別に時間をもらって歌った。
 つどい自体は、OB扱いなので、気楽に楽しく参加した。

卒業とその後
 終わった。全て終わった。
 後は、卒業式と、平和のつどい実行委員会の追い出し会だけだ。
 卒業式終了後すぐ、就職先に行ってその日から働くことになっている。
 一生懸命働いてまじめな社会人になろう。
 追い出し会は、一、二年生の学年末試験が終わる三月中旬にあった。
 追い出し会の少し前に大田先生から電話をもらった。
 「お前の歌をカセットテープに入れてわしにくれんか。
 わしの平和教育の成果のひとつとして、記念に頼む。」
光栄だと思ったのと、「これで最後」というつもりでラジカセの前でうなった。
追い出されて数日後、また太田先生から電話をもらった。
『殉国の乙女の詩』を今後、大田先生の講演等で入場テーマに使うこと。
1フィート運動で作る映画『赤い月の街』の主題歌として推薦したことを告げられた。
 驚き、テレつつも嬉しかった。
半年前になんとなく、夢みたいに思ったことが実現しつつある。
うかれて中野記者に電話した。
中野記者は『赤い月の街』の内野谷監督に裏付け取材をとって記事にした。
新聞を読んで唖然とした。補作(作り直し)のことなど全く知らなかった。
曲の使用を辞退しようかとも思ったが、それじゃ、大田先生も中野記者も顔をつぶしてしまうことになる。自分に適当に言い訳して納得した。
 数日後、内野谷監督から電話があった。なんか腹がたった。
一応納得した後だったけど、電話でのしゃべり方があまりに無礼だったこと。
作りなおしということは、私の曲の全否定したことになる。
その認識があまりに無さ過ぎる。予算がないことが理由で、ギャラが出せないけど、
協力させてやると言ういいかたにも腹がたった。
 四月に入って撮影にも付き合った。
高校生の役だから学生服を持ってこいと言われたが、その頃私はパーマをかけて、茶色に髪を染めていた。
そんな高校生おらん。
 数人の高校生がエキストラで来ていたが、知らない顔ばかりだった。
実行委員の後輩を使ってくれたらいいのに。
 五月に入って、時間とお金に限界が近ずいたらしい。
一気に撮影する。ということで、高校生のエキストラを大量動員したいので協力するように言われた。
高校生には公認欠席をとるというので信用して実行委員会の後輩たちに声をかけた。
公認欠席は実現しなかった。撮影の休憩中、坂口と松本が私に言った
「本気で怒っとる。鈴木君のうたを勝手に作り変えやがった。あれは、ワシらの財産でもあるんじゃけん。」
「まあまあ、作った私が許可したんだからいいじゃないか。」
となだめたが、とても嬉しかった。後輩たちはちゃんとわかってくれる。

 『殉国の乙女の詩』を挿入曲で使うということで、編曲されたものが、私の手元に届いた。
これにも腹がたった。私の曲をぶち壊してくれた。
編曲する前に、多少の意見を聞いてくれてもよさそうなものだが、はいできましたと、いきなり聞かされた。
こんなもの私の曲じゃないと思った。ここでも、私は全否定されたような気がした。

 映画の完成発表の前に一足先に試写を観る機会があった。
 観てがっかりした。視点も対象もはっきりしない。
あれもこれもと欲張った結果、何も表現できてない、典型的駄作だ。
 わかりやすく言うと、例えば、結婚式のスピーチを依頼されたとする。
メインとなるエピソードを中心に原稿を書いていく。
書いているうち、他の結婚式で別の人のスピーチを思い出す。
なかなかの名文句、よし入れてやれ。スピーチの入門書のような物を読んでみる。
いいこと書いてある。
よし採用・・・・などやっているうち何が言いたいのかよく解らない文章が書きあがる。
素人がよくやる失敗の典型だ。
 つまり内野谷監督は全くの素人だった。素人なら、あの無礼な振る舞いは全て納得できる。
 エンディングのタイトルテロップを見ていて、挿入曲のクレジットがないことに気付く。 完全に著作人格権の侵害だ。さらに、私の名前を間違えている。
 どこまで人を馬鹿にしているのか。
 内野谷氏には二度とメガホンをとって欲しくないし、何かあっても二度と協力するつもりはない。

その後
 完成披露試写会のパーティーで、『殉国の乙女に捧げる詩』の作曲者たかだりゅうじさんと話する機会があった。
「あの曲、グレープの無縁坂に似てますよね?」
「似てるんじゃなくて、そのものですよ。主題歌なので印象に残るものにしたかった。
だったら、新しいの作るより、すでにあるもので誰でも知っているフレーズを使ったほうが受け入れやすいし、頭に残りやすいでしょ?」

その後、八月に全国高校生集会、戦後四十周年記念大会で『殉国の乙女の詩』を歌ってからはこの曲を封印した。
作りなおしをされたことで、深く傷ついた。プライドもくそもない。
人前に出す自信がなくなってしまった。
全国集会にしても、大田先生が「どうしても」と言わなかったら歌わなかった。
『殉国の乙女に捧げる詩』も、一応作詞者ということにはなっているが、なんだか(他人の曲)という気持ちがして、とくに歌うこともなかった。
 音楽活動は、うたごえ喫茶で伴奏したり、司会をやったり、たまに自作を発表したりしていた。
 二年程そんなことをしていたある日、広島県うたごえフェスティバルというイベントで たかだりゅうじと再会した。
「やあ、あの歌、うたってるかい?」
「いえ、ぜんぜん」
「だめだろ。君にはあの歌をうたっていく義務があるんだから。」
 この一言から、私はライブ活動を始めた。
三原のライブハウスをメインに、いろんな所で、『殉国の乙女に捧げる詩』を持ち歌として歌った。
何年も歌っているうちに、どうしたらうまく伝わるか、考えながら歌うようになった。
自分なりに工夫も重ねた。気が付けば、映画の歌い方とはだいぶ違っているけど、それでいいと思う。
 ただし、『殉国の乙女の詩』は封印したままだった。
内野谷から否定されたという、心の傷はずっと残ったままだった。

《参照: 主題歌『殉国の乙女の詩』歌詞  主題歌・楽譜  主題歌・演奏

【呉戦災を記録する会 注:
   『殉国の乙女に捧げる詩』の件については、原作者と監督や手直しした作詞・作曲者との間に
行き違いや思い違いも有ると思いますが、そのまま掲載しました。】


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