元海軍技師・高橋市太郎さんの証言

毒ガス弾実験の証言

毒ガス弾 倉橋で試射(1997年8月14日中国新聞報道)
   旧海軍が開戦前実験
    広島の元軍化学研究部技師 証言
     米艦との砲戦想定
  船に動物 効果測る
太平洋戦争開戦に先立ち、旧海軍が海上での毒ガス戦に備えるため広島県安芸郡倉橋町の呉海軍工廠(しょう)大砲試射場で、
ひそかに猛毒のイペリット砲弾の発射実験をしていたことが、当時の元海軍技術者の証言で分かった。
大久野島(竹原市)を拠点にした旧陸軍の毒ガス製造は知られているが、
実戦に向けた海軍の実験が瀬戸内海で行われていたことが明らかになったのは初めて。
証言をしたのは広島市の元海軍技師、高橋市太郎さん(八九)。
神奈川県平塚市にあった海軍技術研究所の化学研究部で一九三七(昭和十二)年から
イベリットガスの研究・開発を担当した。
 高橋さんの記憶によると、実験は太平洋戦争開戦までの年一、二回。
 高橋さんを含む平塚の研究所のスタッフが倉橋島の東端の亀ケ首にあった
呉海軍工廠砲熕実験部の試射場を訪れ、呉からの技術者などを交えて行った。
試験製造したイペリット砲弾を使った実験は、米軍との艦船同士の毒ガス戦を想定。
 亀ケ首沖に置かれた廃船内部や甲板上にジュウシマツ、マウス、ウサギを入れたかかごを置き、
砲弾を船に向け繰り返し発射。死亡率などで効力を調べた。
 詳しい内容は呉側の関係者に秘密だったという。
 亀ケ首の試射揚は戦艦「大和」の主砲の発射実験をしたことで知られる。
現在も跡地には突堤や建物跡などが残るが、倉橋町教委や呉海軍工廠の歴史を調査している呉市史編さん室は「毒ガス弾を実験したことは知らなかった」と話す。
 四三年から神奈川県高座郡寒川町の相模海軍工廠で本格製造された海軍の毒ガスは米軍側資料で約七万発。
 国内各地の海軍基地に配備されたが、結局、実戦には使用されなかった。
 研究所時代、イペリットの完成を急ぐため自分の腕に塗って実験したという高橋さんは
  「当時からこれでいいのかと自問自答していた。
自分が作った毒ガスが戦争で使われなかったのが救いだ」と話している。
 海軍資料すべて焼却   防術庁防衛研究所戦史部の話
  初めて聞く話。海軍の化学兵器については資料がすべて焼却され、防衛庁には残っておらず、実験内容などについてはまったく分かっていない。
                  (1997年8月14日中国新聞報道)


海軍技師、高橋市太郎さんの生々しい証言

「技術下士官の経験から」
  高橋さんは、1907年生まれ 広島市で薬局を開いているそうです。
 彼の証言から、平塚の技術研究化学研究部に昭和12年から昭和17年12月、 寒川に移るまで勤務し、
新しい研究成果が出るたびに、毒ガスの効力をためすために発射実験をしたことがわかります。
  倉橋では、年1,2回 あとは鹿島。
冬場の効力をためすために、樺太のシスカというところで実験したと記述されています。

−海軍での配属先は。
 高橋 平塚の技術研究所化学研究部です。のちに寒川に修造工場ができて、そちらへ転勤になったのです。
−平塚ではどのような研究をされたのですか。
 高橋 化学兵器医学、つまり、兵器の効力実験です。だから上司は軍医官です。
小辰軍医大佐でした。たとえばイペリツトとか、そういうものができあがりますね。それがどのくらい効力があるのかを、動物を使って実験するんです。
屋外での大きな実験は、茨城の鹿島や、広島県呉の沖合にある亀ケ首(安芸郡倉橋町)で行いました。
 亀ケ首には、廃艦がたくさんありますから、それを一キロほど沖合に置き、
そこに動物を置いて、主砲で毒ガスの弾をぶっ放すわけです。
  それで動物がどの程度に死ぬかを確かめたり、解剖したりしたのです。

− 実験に使った動物はどのようなものですか。
 高橋 マウスとか、ジュウシマツ。ジュウシマツはガスに鋭敏ですからね。
あとはウサギ。そうしたものを場所、場所に配置しておいて、主砲でぶっ放すわけですね。
 そして被毒状況をみるのです。斃死率を調べたり、化学分析をしたり。
それで解消。お土産は「千福」という酒と決まっていました。
 出かける時は、呉へ行くんか、帰りは頼むぞ、などと言われてね。
辛い実験が終わって、帰りに「千福」を買って、持ち帰ると、みんな喜んだ。
だから「千福」は今もありますけど、この名前を開くと亀ケ首を思い出すんですよ。
 実は、私も一昨年に亀ケ首へ行きまして、跡地を見てきたんです。
船着場や建物の跡も残っていましたし、ずっと海岸伝いに行って、トンネルを抜けると、ちょっと広い所が−解剖もその場でやったんですね。
 高橋 ええ、そのためのスタッフが同行していましたからね。

−スタッフは全部で何人ぐらい出かけたんですか。
 高橋 百人ぐらいですかな。研究部門だけでなく、製造関係の人間も行きますからね。
−百人も。全員が平塚の技研からですか。それとも呉の工廠あたりから参加する人もあったんですか。
 高橋 ほとんど技研からでした。でも技研のみんなが行かれるわけではない。
普段の成績の良い者が実験に連れて行かれるという感じでした。
だから亀ケ首に行く者は、行かれなかって、そこが主砲の発射場所ではないかと。

 高橋 そうそう、そんな感じでしたよ。
−新しい研究成果が出ると、そのたびに実験したんですか。
 高橋 ええ、亀ケ首は年に一、二回。あとは鹿島でやりました。

   (出典:寒川町史研究 第6号 1993年より)「毒ガス島歴史研究所」の調査より

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