。呉の戦災遺跡めぐり

見学コース5 特殊潜航艇「P基地」「Q基地」
   倉橋島地区の特殊潜航艇の「P基地」「Q基地」と「亀が首大砲試射場」跡をたずねる

  ビデオ  (特殊潜航艇)蛟龍・P基地の景観  株式会社 ドキュメンタリー工房 UP承認ずみ
ビデオ  旧呉海軍工廠 亀ヶ首試射場の現状(15分)  空井英憲 撮影著作
 
@コース案内(呉駅から車利用で約4−5時間)
見学コース略地図

1.「呉駅から音戸・倉橋方面へ」
所在地概念地図

  呉駅前から、音戸の瀬戸公園→
  大浦崎(県総合技術研究所)水産海洋技術センター(=「P基地」跡)→
  波多見P基地・八幡山神社「嗚呼特殊潜航艇の碑」→
  倉橋町大迫・大尻「特殊潜航艇・Q基地碑」→
  倉橋町・亀が首「大砲試射場跡」


2.特殊潜航艇の「P基地」と「Q基地」


「P基地」と記念碑・基地見取り図・記録映画

 呉市音戸町の大浦崎海岸に、県総合技術研究所・水産海洋技術センターがある。
 戦前は、旧呉海軍工廠造船部の大浦崎分工場と特殊潜航艇(略称・特潜)訓練基地
 (部内では「P基地」と呼ばれていた)になっていた。
 入り口に近い敷地の一部が、大浦崎海浜公園となっており、
 『特攻基地大浦崎(P基地)の碑』が立っている。
P基地石碑   P基地碑文
「昭和17年10月極秘裏に工場の建設が始められ、翌18年3月創業開始、
これが特殊潜航艇(甲標的)製作専門の呉海軍工廠分工場であった。
また搭乗員の養成が始められ、受講者は艇長、艇付、合わせて2600名、 内戦死者は439柱に及んだ。
当基地の任務は甲標的の生産、搭乗員の養成、特攻兵器の研究開発で、
昭和20年になると甲標的丁型(蛟龍)の完成をみ、
一方回天(人間魚雷)も実用段階に達して、来るべき本土決戦に備えたが、
同年8月15日終戦を迎えて基地は廃止された。」

 基地は1942(昭和17)年に設置され、甲標的殊潜航艇が製造されていた。
岸壁には艇をつり上げる60dクレーン、製造工場、電池組み立て場、魚雷装てん所、 宿舎、倉庫などがあった。
高台には25_り機銃が据え付けられ、山を利用した防空壕も複数あった。

  米軍撮影の波多見・P基地航空写真(1945年)
  P基地航空写真(1947年)

 当時の関係者「特潜会」が作成した配置図も参照。
  P基地配置図

  (ビデオ)  米国戦略爆撃調査団による1946年3月頃の空撮映画

  (特殊潜航艇)蛟龍・P基地の景観
  「戦後日本の原風景」Vol.9 「瀬戸内の戦場」より抜粋
   http://www.dkobo.co.jp/sengo/setouchi.html
  株式会社 ドキュメンタリー工房 制作著作・承認

  徳永隊員体験報道

 大浦崎近くの波多見地区の八幡山神社に「嗚呼特殊潜航艇の碑」があり、
太平洋各地でどのように特殊潜航艇が活動したか展示している。

  『嗚呼特殊潜航艇』石碑   碑文

 昭和十六年十二月太平洋に戦端開くや長躯してハワイ軍港に潜入
 米艦隊主力を強襲して緒戦を飾れるは我が特殊潜航艇甲標的なり
 即ち特別攻撃隊の初とす
 次で西にマダガスカル 南はシドニーに遠征
 英濠艦隊を震撼せしめ全軍の士気大いに振う
 更にキスカに ソロモンに転戦して戦局を支え
 特運筒また前線の補給に挺身す

 時に部隊は基地をここ大浦崎に設け訓練また死生の間に進むも
 戦勢ようやく利あらず敵軍しきりに我が近海を侵す
 我隊これを各地に迎え撃ち ミンダナオに 沖縄に蛟龍の戦果見るべきあり
 回天またこの地に発して奮迅し 海龍ともども本土決戦に備う
 二十年八月遂に兵を収め戦没並びに殉職の英霊三百余柱を数う
 戦友ここに相計り その勇魂を仰慕し 特殊潜潜航の偉功をたたえて後世に伝う

 「特殊潜航艇」記念盤

 戦史
特別攻撃隊
特殊潜航艇を使用した作戦に用いられた「特別攻撃隊」の名称は、
後の体当りを目的とした特攻とは違い、全ての作戦は決死ではあっても必死ではなく、
攻撃終了後には搭乗員の回収が計画されていた。
第一次攻撃隊に参加した潜水艦5隻は収容予定海域で待機していたが、
特殊潜航艇は一隻も帰って来なかった。
第二次攻撃隊(マダガスカル)の攻撃では、
2名の搭乗員が攻撃終了後に上陸して収容地点に向かったが、
途中で敵と遭遇し戦闘の後に戦死。

 「略史」記念盤
昭和 9年  月  日 最初の試作艇が完成
昭和13年  月  日 母艦「千代田」完成
昭和15年 4月  日 第二次試作艇が完成(甲型)
昭和15年11月  日 搭乗員の訓練開始/広島県倉橋島P基地
昭和16年 1月  日 特殊潜航艇の投下訓練開始/倉橋島、三机湾
昭和16年12月 8日 第一次特別攻撃隊、ハワイ真珠湾攻撃に参加(5隻)
昭和18年 7月  日 乙型試作
昭和18年 9月  日 丙型完成
昭和20年 3月  日 特攻戦隊令発布/大浦崎、小豆島に突撃隊を配置
昭和20年 5月28日 丁型が正式に兵器として採用(蛟龍)
昭和20年 8月15日 大東亜戦争終戦

 「丁型(蛟龍)」記念盤
特攻兵器の指定を受け、約500隻が完成していた。
本土決戦に備えて内海の突撃隊に配備が計画されたが、
物資の欠乏や頻発する空襲なとせにより基地の設営が進まず、
出撃の機会を得ないまま終戦。

 殊潜航艇の訓練基地(Q基地)跡
  特殊潜航艇「Q基地」跡    特殊潜航艇「Q基地」石碑

 P基地の対岸(呉市倉橋町大迫の大尻郷)には、1944(昭19)年4月、
殊潜航艇の訓練基地(Q基地)が置かれていた。
 現在は、「殊潜航艇基地 大浦突撃隊 大迫支隊跡碑」と記された石碑が立っている。
Q基地碑文


 呉市倉橋町亀ヶ首に旧呉海軍工廠の大砲試射場があった。
 戦艦「大和」などの大砲を試射していた。
 現在、地元のボランテイア・グループが遺跡を整備している。

  通行止案内板


  米軍撮影「亀ヶ首」(写真右端の半島)
  「亀ヶ首試射場概念地形図」

  「大砲試射場」配置図


    「亀ヶ首試射場」詳細
    「亀ヶ首試射場」の歴史年表、戦災記録、現状(2010年2月)の現場写真、 戦後の米軍記録など。


  (ビデオ)   旧呉海軍工廠 亀ヶ首試射場の現状(15分)
  撮影著作:空井英憲さん(呉市東畑2−4−29)
  30分の作品を15分に短縮編集責任:朝倉邦夫



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