引率教師の体験記

 呉市立本通小学校
    集団疎開座談会記録

日時 昭和三十七年十月四日
出席者 為政徳一 湯本修三 夏秋 進  浜本 薫  阜田三郎

 出発準備
 二十年三月初めより準備にとりかかる。
最初はできる限り疎開児童数を僅小にするため縁故疎開させることにし、
それができない児童二百四十名ばかりを疎開させることにした。
 持参荷物の制限(一個三十五s)荷造り、運搬等は保護者の奉仕によった。
学校の備品等も疎開させようと申し出るも本家を荒すなと叱られた。
このことからも当時の人のものの考え方がうかがわれる。

 疎開先での行動
一、学校でも寮でも教練が主であった。
二、寮では楠正成の遺訓やお経をおぼえさせた。
三、学校での勤労奉仕は松根を掘ることだった。また、荒地を開墾して野菜豆を栽培す。
四、地元との子供とは仲よくしていた。
五、寮では毎夕入浴させてくれたし、衣服は作業員が毎日洗濯してくれた。
六、大した病人は出なかったが、一児が肺炎に罹ったときは大変であった。
  栄養補給にほとほと困った。それをみかねて村人が山羊を一頭提供してくれたので、
  新鮮な乳を毎日六合あて飲ませることができた。

 児童心理
一、疎開のため呉駅出発する時は、子供は喜びはしゃいでいた。
二、昼間は別に淋しそうでもなかったが、三年生の一女児が三日目の夕方、
  ヘラ台の机にうつぶせになって泣き出すとたちまち全寮児が泣き出した。
  その光景が今でも忘れられない。

 連絡方法
 面会慰問には行かないよう保護者に注意しておいたが、ひそかに往来する者もいた。
 但し持参する食物は一寮にいる全児童にわたる量でなくてはならないことにしてあり、
 これは厳守された。
 本籍が岡山県の某保護者が親元から送ってきたサナギを一袋持って慰問に来た。
 これなど戦時下の食糧事情の一端を物語るものである。
 そのような来訪者には地元の人々はナス等の野菜を土産としておくっていた。

 時局報送のつかみ方
一、ラジオ、新聞による。
二、来訪した保護者より呉や学校のことを知る。
三、呉が戦災に合った直後、事情を詳知するため帰呉(教師)したいと中し出たが
  校長は許可しなかった。

 帰呉前後のようす
 親や親類の者が随時疎開先へ引きとりに来た。
 引きとり手のない児童をつれて帰呉したが、疎開先の八寮が準備でき次第
 それぞれ単独に帰ることにした。
 例えば小坂寮の糸田組は九月二十五日船で帰呉しており、
 善正寺の溝本組は十月二十日竹原で一泊して後船で帰っている。
 帰呉のことを村人達が知ると寺に集合して送別会を開いてくれた。
 村人達の密殺の牛肉やモチ、スシ等持ちより別れを惜んでくれた。
 こうした親切なところもあったが、終戦になると食糧の購入あっせんを依頼しても
 応じない寮もあり、迎えに行った浜本教諭は激怒して即刻ひきあげたという。
 帰呉しても一面焼野原で出迎えの人も数えるばかりで、児童の送り先に苦労があった。
 例えば、湯本組は夜中の十二時に帰呉したが十七人を二列縦隊で吾妻校に向った。
 先頭に湯本教諭、後尾に中村(女)教諭がいたが夜中のことであり、
 黒人兵が中村教諭につきまとうので時折悲鳴をあげる。
 その度に勝本教諭は位置を変えて帰校した。当時本通校は吾妻校に寄宿していた。
 閉門してあったので呼んでも、戸をたたいても出てくれず、
 やっとのことで宿直員が起きてくれた。
 当時宿直は女教師がしていたので、進駐軍を恐れて出てくれなかったそうだ。
 やっと校内へ入れてもらい、避難所になっていたので、
 難民のフトンを借りて子供達をねかせることができた。
 翌日からぼつぼつ親が引きとりに来てくれたが三人は誰れも迎えに来なかった。
 しかたなく自宅につれて帰り親の消息をたずね、
 音戸や高須の方までさがし歩るいてやっとみつけて子供を帰宅させた。
 最後の一人は数日後岡山県の縁故者が子供を探しに来呉したので
 引き渡すことができて、ホットしたそうである。
 帰呉しても学校がないので、浜本組は宮原校の一教室を借りたり、地下室を教室とした。
 その後吾妻校の六教室を借りて授業をしたが、当時在籍敬は二百人位であり、
 戦前の最大児童敬二四四二人のころを想い泣けてしかたがなかったと話していた。

 事後の交情
一、帰呉後ニ、三年間は文通があった。
二、耽源寺の釣鐘再製のため寄付金を募集して送金したこともある。

 寮母、炊事婦
 耽源寺では現地の人を二人を雇う。
 俸給は終ごろ七十円位であった。別に謝礼として学校側より十円を出していた。
 小阪寮は、本通国民学校の保護者でもある朝倉綾子(子づれ・和子)が雇われていった。


出典:「呉市 学童集団疎開誌ー勤労動員ー」 呉市小学校校長会編



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