呉市 学童集団疎開誌ー勤労動員ー 呉市小学校校長会編より抜粋

岩方国民学校 疎開児童の体験記

岩方小 六年生      小野利枝子

疎開先  高田郡三田村 西覚寺
引受校  同      三田西小学校

 当時六年生だった私は、初めてみんなと別れて、学童疎開に参加した。
しかし幸か不幸か僅か半年足らずで終戦を迎えた。
 戦争、戦争という言葉にふりまわされ、軍歌にあけくれた日日、衣食住すべてに耐えて生きなければならなかった時代、
あれからもう二十八年、十年一昔というけれど、三昔も前のことになる。
あの時の校長先生、今中先生お元気かしら?
 私たちの村は何から何まで比較的恵まれていて、他村よりずいぶんうらやましいとさえ思われていたらしい。
それというのも引率の先生をはじめ、村の方々がうちとけあって、いろいろとつくして下さったことを幼心に忘れることはできない。
 村での生活は何もかも異常な体験ばかりで田植え、麦刈り、開墾作業、すべてがとても 得難い経験で、人間としての大きな成長の第一歩であったような気がする。
 私達高学年は低学年の人達にうまくせわができなかったが、苦しみも喜びも共にし、それでいて集団生活の中で不平不満を言わず、
お互にがまんしあって協力することをこの時少しずつ教えられたような気がする。
 月に一度の父母との面会日を楽しみに、前の晩などうれしくてなかなか眠れなかったこと、夜歯ぎしりや寝小便をする子、一日里子になったこと、
あれやこれやがまるで走馬燈のように次々となつかしく思い出される。
 昭和二十年呉の空襲、広島の原爆、敗戦、大水害などあまりにもみじめで、
まさに最悪の年であったが、おかげで私達は全員無事に帰呉することができた。
 それにしても呉市の平坦地一面焼け野が原で、親をなくした子、子を失った親も大勢いて、
泣くにも泣けずただ呆然とするだけで、この時はじめて戦争のむごだらしさ、哀れさを痛切に感じさせられました。
 今はもう我が子が六年生、山と川、おいしかった空気、青い空その印象の残るあの村、
当時の先生、校舎、友達、懐しい限りです。



岩方小六年生           山本哲也

疎開先  高田郡秋越村 妙国寺
引受校  同      秋越小学校

  「戦争は終った。いや終っていない。」と言葉が交される毎に、時の流れの速さが感じられる昨今です。
広島から芸備線で一時間余り、山路を辿って高田郡秋越村にある妙国寺に着いたのは戦局も逼迫した二十年春であった。
 「太郎は父の故郷へ、花子は母の故郷へ…」戦が破局に向う段では、口ずさむ歌のメロディーも、ラジオから流れる軍歌も哀しい。
 新しい生活の始まりからくる不安をかくすためか、日頃になく饒舌になっていたその日の私がいとおしくも思い出される。
心許ない胸の中が吸いとられる程に晴れた空の青、柔かい日射しに包まれたレソゲ畠の赤と緑が鮮やかな、平和で穏やかな村だった。
村人は優しく、心暖かだった。
食糧不足の折であったが、各家庭での手作りの味噌を、生徒を通じて下さったものだ。
熱い汁に助けられて、いつしか麦飯のにおいも気にならなくなったもんだ。
自給自足の一環として手に肉刺をつくって芋作りに汗を流したのも、食用の草を川の土手で摘んだのも憶い出される。
川ではよく泳いだもんだ。川魚を水しぶきをあげて追った夏の日、
ふと見上げた目にまぶしく映った白銀の入道雲がなぜか故郷との距離を遠く思わせたもんだった。
 村の子は朗らかで、逞しく働き者だった。同級の佐々木君はどうしておられるか。
先生をしておられた姉君は今もお健やかであろうか。
飛行機の燃料に使われていたと聞く松根油の採取されていた松林の山路を越えて通う学校への道のりは、子どもの足にはつらかった。
梅雨時の雨は哀しくて暗い気持にさせたもんだ。
放課後、肩をよせての帰り道、待つ親もないのに、
びしょびしょ草畦のはねを上げて、小走りに歩く友の細い足音が忘れられない。
そんな日には、きまって寝小便の失敗をする子が多く、口げんかをして泣く子もあった。
仄暗い燈明の本堂に浮かぶ阿弥陀仏の前で、朝夕無心に唱えた「十二礼」の経文は
それで淋しさが紛れたわけではなかったが、なぜか今も記憶の端に淡く残っている。
 蝉しぐれの中で巨大な葺雲の突如湧き上り消えた時、神洲不滅の信念は無残にこわれた。
新しい日本の試練の歩みが始まったのだ。
 落ちた偶像として、神も仏も忘れられた世相を通り抜け、人々の平和への祈りは強く甦ってきた。
だが世界はなおその進むべき軌道を求めて喘ぎ模索している。
中東の空に、ベトナムの空に硝煙は消えず、その戦火の中で子どもたちは如何に生きているのか。
忙しい生活の中でふと、異常な戦の時代に、村で送った生活の1コマ1コマを憶い出すのも子どもではあったが、精一杯生きてきた証しであろう。
 変り身の速い世相の動きに素直に立ち入るのには、いささかちゅうちょの気持が動くのも昭和一桁という時代の子であるからなのか。
 柿の実の色づく今日この頃、秋越の空は、祭りの幟もはたはたとなって、平和に晴れ上っていることだろう。

出典:「呉市 学童集団疎開誌ー勤労動員ー」 呉市小学校校長会編



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