「私の戦争ー学童疎開体験記ー」

                    久万(旧姓・太治)正栄(くまん・たじ・まさえ)

 初夏の陽を浴びて、つややかな緑の山椒の木の実が芽ぶく頃、私はその小さな芽をちぎって、そっと香りをかぐのです。
 すると、ある情景が浮かぶのです。それは24人の少女が幸せそうな笑顔で、花の咲いた広い庭で遊んでいる姿です。
 60年も前の遠い日のことを聞いてください。
 私は、1935年(昭和10年)、軍港のあった広島県呉市に6人兄弟の4女として生まれました。
 昭和16年、太平洋戦争が始まり、その翌年の昭和17年に二河国民学校に入学しました。
 1、2年生の頃は、学校生活も楽しく、授業も普通に出来ていたのですが、3年生になると戦争は一段と緊迫して、防空頭巾をかぶり、絣のモンペをはいて通学していました。
 3年が終わろうとする頃、ある朝登校してすぐに警戒警報となり、解散して、家に向かって走りました。
 家は山手町で、急な坂があり、途中で空襲警報のサイレンに変わり、同時にもう頭上で、アメリカのグラマンが唸りを上げて飛んで来ました。
 今、爆弾が落ちたら、この坂で一人で死ぬかと思ったら怖くて、「落ちるな。落ちるな」と言い乍ら必死で走りつづけました。
 その時、頭にあったのは、どうせ死ぬなら、家に帰り着いて、お母さんと一緒に死にたいという思いでした。
 昭和20年、戦争は益々激化して、食料も乏しくなり、4月から、3年生から6年生の児童が、県北の山村に集団で疎開することとなったのです。
 6人兄弟の内、すぐ上の姉が6年、私が4年なので、二人で疎開することとなりました。
 4月3日といえば、普通ならお花見の楽しい日なのに、それどころか、朝早くから呉駅は旅立つ児童の群れと、見送るお親でごった返していました。
 母と別れの言葉さえ交わす時間もなく、わずかな着替えと、勉強道具を背負い、汽車に乗りました。
 福山で、福塩線に乗り換え、甲奴郡の上下駅に着いたのは、もう夕方でした。そこから、清岳村という山村に着く頃は、すでに日暮れていて、畑と田圃ばかりの中に民家があり、天理教の教会に着きました。
 汽車のなかでは遠足の様な気分だった私達も、夜になるとさすがに寂しい気分でした。
 この日から、天理教会の本堂に、引率の林先生(女)と、榎本さんという寮母さんと、24人の女生徒が生活することになったのです。
疎開先の(清岳天理教会)寮
 私達は、清岳国民学校に学年ごとに編入し、地元の生徒と混ざっての勉強が始まりました。
 疎開児は6年生が10人、5年生が5人、4年生が6人、3年生は3人でした。4年の担任は、木村清子先生で、若くて美しく、優しさと厳しさを備えた先生で、50人以上に増えたクラスを熱心に教えてくださいました。
 小柄の大江奎子さん、丸顔の沖田幸子さん、麻生みどりさん、福間富美子さんと藤原千鶴子さんと私の6人は、初めの内、かたまっていましたが、その内、馴れて地元の同級生と仲良くなりました。
 生活面は、大人二人では全員の面倒は見られず、当然、掃除、洗濯、炊事も子供達で当番でやっていました。
 清岳は、静かで穏やかな村で、村人は親切でした。村の人達の好意で野菜などを頂いていましたが、何分食料が乏しく、ひもじい毎日でした。
 学校はほとんど昼までで、午後は食用となる。野草を摘み歩き、おかずにしていました。
 親と離れて急に環境も変わったため、「おねしょ」をする子もいたし、3年生は時々泣いていました。来る日も来る日も、大豆や麦やジャガイモの混じったわずかな御飯に、少しの野菜でした。
 おやつなど何もなく、それでも、「欲しがりません勝つまでは」と唱えて、かなげな覚悟で励まし合い乍ら、耐えるしかありませんでした。
 朝と晩、本堂に並んで正座して、全員でお勤めをしていました。見神楽(みかぐら)歌も覚えました。
 5月のある日曜日。村長さんが疎開児童を歓迎の意味で、自宅に招いてくださいました。
 広いお座敷には、色々なご馳走が一杯並び、久し振りの食事の豊かさにびっくり、中でも木の芽のかぐわしい散らし寿司のおいしかったこと、食事後、さんさんと陽の当たる庭に出て遊びました。
 この手記の冒頭に記しましたのは、この日のことです。
 現在なら何らとりたてて言う事も無い日常のひとこまですが、当時の子供にとって、夢の様な一日だったのです。
 天国とか極楽とかは、こんなことだと思えたのです。防空壕もなく、空襲のサイレンも聞こえないひととき、ユートピアに住んでいた私たちは、この日ばかりは幸せでした。
 6月ごろになり、暖かくなった頃、石鹸がないため清潔に出来ないので、下着にも髪の毛にも虱がわき、かゆくて眠れぬ日を過ごしました。
 すき櫛で、髪の毛をとかすと、バラバラと虱が落ちてきます。裸になると、虱の咬んだ痕があり、皮膚はざらざらでした。
 頭には黒い虱、下着には白い虱がつくことを初めて知りました。下着の縫い目に、ビッシリ並んで隠れている虱、いま思い出してもぞっとします。
 外に大きなお釜をすえて、湯を沸かし、下着を入れ、皆で熱湯の虱退場していました。
 「衣、食、住」すべてを堪え乍らの日々の中、何よりの楽しみは、呉の我が家からの手紙でした。
 母と二人の姉からの手紙で、1年生の妹と、3才の弟の様子を知り、会いたさも募りました。
 誰かの家から時たま、お菓子などが届くと、先生が24等分にして、皆で分けあいました。
 ある日、私の母から、「羊羹」が送ってきましたが、少量だったので、皆に分けるのが無理で、先生から、「内緒で二人で食べなさい。」と渡されました。
 その夜二人で布団をかぶって、真っ暗の中で口にほおばりました。家恋しさと、後ろめたさが交錯しました。
 良く気のつく、しっかりした6年の姉が傍にいた私は、他の子より幸せだったのですが、何故かよく熱が出ていました。
 そんな日は、皆が学校に行った後、本堂に一人で寝ていました。かなりの高熱でも、薬も注射もなく、ふらつく足で裏の台所で水を飲むのがやっとでした。
 抵抗力が弱まっていて、度々夏風邪をひいていたのでしょう。そんな時、いつも浮かんでいたのは、呉市の町と、我が家でした。
 亀山神社の祭や鯛の宮の縁日、家族で歩いた中通りの商店街、本通りと、次々と楽しかった日が思い出されて涙が出ました。
 でも夜になって、天理教の奥様が、お加持祈祷して下さって、少しずつ元気が出ました。
 そのころ、村の人から沢山のトウモロコシの差し入れがあり、皆大喜こびで、早速ゆでて食べました。
 ところがその後が大変でした。平素、栄養不良状態の胃腸が受け付けなくて、皆で大下痢を起こし、七転八倒の地獄絵図でした。
 私も姉もこの後何年も、コーンが食べられませんでした。
 7月1日の呉の大空襲は、林先生を通じて知りました。「お母さんが焼けて死んだかも…」と、6年生の一人が泣き出すと、次から次へと、24人全員が声を上げて大泣きしました。
 それまで耐えていたものが一ぺんに吹き出したのです。天理教の神様の前で、長い間泣きました。
 後に聞いた話によると、7月2日未明の呉市街の空襲の時、父は呉海軍病院に勤めていたので、7月1日に、患者さんを連れて、山間部に疎開したそうです。
 引率して行って、留守の間のことで、母は心細かったと言っていたそうです。山手町の山際に、ちょっと大きな防空壕があって、町内の人皆が入っていたそうですが、明け方まで呉市の中心が全部焼けるのを見ていたそうです。
 夜が明けて、明るくなって気が付いたと言っていましたが、皆が立っていた辺りに不発弾が落ちていて、急いで連絡し、撤去したそうです。
 父も母も兄弟も、何時どこで、どうなっていたか分からない時代で、考えると恐ろしいことです。
 8月6日の夜、村の人たちが、「西の空が赤いよ!」と言って見ていたので、皆で出て見ると本当でした。何かわからず、不気味な夜でした。
 後日、広島市に強力な特別爆弾(原爆)が落ちて一晩中、火の海だったと聞きました。
 8月15日、校庭に整列し、ジリジリと照りつける陽の中で、玉音放送を聞きました。
 しかし私達子供には、言葉は聞き取りにくく、意味もわかりません。先生から日本が負けたことを知らされました。
 戦争に勝つために、何もかも我慢してきたのにと思い、信じられませんでした。悔しがる気も起こらなかったのは、まだ幼かったからです。
 戦争は終わった。とにかく呉に帰れる。そればかり考え、皆で話していました。ところがすぐには帰れなかったのです。
 先生が、全焼した二河小学校や、一人一人の親の状況を調べ、連絡を取っている間に、不幸は重なり、9月17日の台風で大水害が起こり、道路の破損や橋が落ちたりで、仲々、帰る目途がつかなかったのです。
 終戦の日から2ヶ月近くたった10月13日、学校で疎開児童の送別式があり、先生、同級生、お世話になった村の皆様に別れを告げました。
 翌14日朝、天理教会を後にしました。私達は、「ラバウル小唄」を替え歌にして、
 「さらば、清岳よ、又来るまでは、しばし別れの涙がにじむ」と、歌い乍ら清岳を去りました。
 バスやトラックに乗り継いだり、途中歩いたりしながら広島を通って帰ったのですが、広島市でトラックを待っていた時、
ジープに乗った3人の外人を見たとたん、、恐怖で全身がガタガタと震え止まりませんでした。
 「鬼畜米英」と教え込まれた言葉は、潜在意識の奥まで、しっかりと入り込んでいたのです。教育の怖さをつくづくと感じます。
 幸いにして、姉と私はその夜暗くなって、やっと家に帰りつくことが出来ました。山手町は焼けずに残っていたのです。
 半年ぶりに親、兄弟に会えたうれしい夜でした。
 次の朝、明るくなって、窓から呉の町を見て唖然としました。一面焼け野原でした。見慣れれた呉市、ふる里のあの街並みは、どこにいったのでしょう。
 疎開児の親や家族で、焼け死んだ人は、たくさんいました。その子達は、どんな苦労して、成人したのでしょうか。
 昭和48年に、呉市の小学校校長会で、調査された記録に依ると、私達の様に、お寺や、学校や、青年道場など150カ所に疎開していた児童は、約4千人でした。
 呉市だけでも4千人の児童が同じ様な体験をして生き残ったのです。
 広島市の疎開児童の終戦後はもっと、もっと悲惨だったことは言うに及びません。
 つい先日のこと、両親の年忌の法事の日、兄弟姉妹が集まって、昔の話をしていた時、傍で聞いていた4年生の孫娘が
「おばあちゃん、それって疎開の話でしょう。平和学習の時間に学校で聞いたよ、戦争は怖いよね。」と言っていました。
 私には4人の孫がいます。この子たちの今から始まる人生の道で、どうか戦争に巻き込まれることのない様にと、心から願っています。
 幸いにして今、日本は平和の中にいますが。いつの世も、世界のどこかに戦火がもえています。そして危機ははらんでいます。戦争によって産まれるものは、悲しみ、苦しみ、憎しみだけです。
 戦争体験した私達が、その恐ろしさ非情さを語り継いでいかなくてはならないと、心より思っています。
                                    以上



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