引率教師の体験記

 呉市立二河小学校
                   宮野前 孝(引率教師)
 疎開先 甲奴郡上下町 養源寺
 引受校 同      隠見小学校

 第二次世界大戦もわが国の敗戦が濃厚になり、いよいよ本土決戦がうわさに伝わり、
再三、呉海軍工廠や広海軍十一空廠も空襲を受け呉市内も危険度を増して来た。
 昭和二十年三月末まで東畑国民学校高等科二年生を引率して十一空廠に学徒動員に参加して同廠で働いていた。
空襲にあい岩樋の防空壕に再三避難したこともあった。
四月一日二河国民学校に転勤し、学校長の依頼によって集団疎開児童を引率することになった。
 四月四日、縁故疎開をしていない児童の第一次集団疎開をして
甲奴郡上下町・清獄・矢野・階見の四か町村へ向け出発した。
 福山から福塩線に乗りかえ、汽車は疎開地へと進んだ。
列車の中では肉親と別れるのがつらくて泣きだす子もいた。
上下駅に下車して、それぞれの疎開先へと別れて行った。
 私は四年生二名五年生八名六年生十名計男子二十名を引率して
胸につけた名札を覚えながら山あいの小道を歩んだ。
村人が散人出迎えてくれて荷物を車にのせ、これからいつまで続くかわからない
集団疎開の宿舎になる養源寺へと案内してくださった。
 疎開地での生活は朝六時ごろ起床して洗面・体操・掃除・朝食そして登校、
放課後は帰寮して六時ごろ夕食、週二上二回入浴、自習、就寝等規則正しい日課によって集団生活をした。
男子ばかりの寮生活のため、朝の体操後は手旗信号の練習、夜は夜間演習といって試胆会や田畑を走り回ったりもした。
時節柄、心身共に強い子どもを育てたいと思っていた。
 食べ盛りの男子であるから配給の米麦だけでは不足するので田畑を借りて、ジャガイモやマメ類の野菜作りもした。
村人は大へん親切にしてくださり、配組物以外にイモ、豆類その他の野菜も持参してくださった。
田植の終わった「泥おとし」などの祭には、子どもを交代で農家に招いてくださり、モチやオハギなども贈っていただき、
あまり空腹も感じなく子どもたちの喜んでいた姿が目に浮かぶ。
 当時、飛行機の燃料のガソリソなどが不足しだし、村では飛行機の燃料に使うため供出する松根掘りが盛んに行なわれた。
平素お世話になっているので六年生といっしょに手伝いに行ったこともある。
 学校は寮になっていたお寺のすぐ下にあって、村の子どもといっしょに学年毎に別れて階見国民学校の先生に指導してもらっていた。
村の于どもたちは純心ですぐ仲よしになり、放課後には家へよく遊びにも行っていた。
 洗濯物はなるべく自分でさせるようにし、衣類のつぎはぎは寮母や妻がしていた。
また夜尿症の子もいて時々失敗して寮母を困らせていた。
 このように于どもたちは遠く親元をはなれて空襲の心配のない田舎で生活していたが、
わが家や呉のようすが気にかかるのかホームシックにかかる于もいた。
ある日、四年生と五年生の二大二人が夕食時になっても帰寮せず、 行方不明になって大騒ぎをした。
役場の人や住職と方々さがしまわった結果、隣の神石郡高蓋町まで行き、
ハス停で待っているのを見つけて連れ帰ったこともある。
本人たちは肉親がこいしくなって無断で呉へ帰るつもりでいたらしい。
 五月末ごろから学校長から面会が許可された。
家庭においては乏しい配給物をわが子に食べさせたい親心から、二土二人ずつ交代で面会に来られた。
親子の再会の喜び、無事を喜びあう姿には胸を打たれたものであった。
 目増しに空襲が激しさを加え、市内が危険にさらされるごとに集団疎開児童がふえ、
六月八日第二次、七月三十一目第三次の集団疎開がそれぞれ二河国民学校をあとにした。
 六月十三日、召集令状を受取ったのであとに残した疎開児童が気にかかりながら、
守谷訓導に引継いで急いで帰呉し、十七日西部一〇六四部隊(広島)に入隊した。
 終戦後、県下各地が大風水害にあい、鉄道や道路は寸断されたため、十月一日
善応寺寮、浄円寺寮、十月十四日養源寺寮、安福寺寮から児童は疎開先からようやく帰呉した。
児童の疎開荷物は十二月四日に受取る事ができた。
 二十八年前、転勤早々、約三か月間、児童と共に苦楽をともにした集団疎開生活を思い出すままに書いた。
集団疎開を経験した子どもたちは今、四十才前後の働き盛りである。
社会のため、平和目本建設のためにそれぞれ貢献していてくれることを喜ぶのである。


受入れ側
清岳小学校(教頭 荒木 克)

 学校の沿革史を調べましたところ、
別紙のような記述がありましたので複写してお送りいたします。
 当校に疎開した児童の宿舎は、
清岳村水永(現上下町水永)の天理教清岳教会(現、岡田光夫氏)とのことです。

      別紙

 前古未曽有ノ大戦ニヨリ幼キ罪ナキ学童ヲ戦禍ヨリマヌガレシメンタメ
軍港呉市二河国民学校集団疎開児童左記ノ通り人材シ本校二学ブ。
遥カニ父兄ノ暖キ膝本ヲ離レテ朝二タ二呉市並二父母ノ身上ヲ思ヒ
無事ナルコトヲ念シ、手ナレヌ作業二従事シタルコト之又未曽有ノコトト
思料セラレ此処二掲ゲテ記念トシ
彼等ノ幸福ナル生活へ進ミ成人スルコトヲ涙ト共二祈ル

        記
 昭和二十年四月四日 入村
        四月五日 入学式
        十月十三日 帰呉送別式
        十月二十六日 荷物発送
初一 林 勇泊
初三 村垣恭子 中野秀子 今津 緑 太治正栄
初四 沖田幸子 大江奎子 福間富美子 麻生みどり 桑原千鶴子
初五 十合和子 出来田教子 末永富士子 山村美智子 西川順子
初六 中尾照子 長野利子 下瀬敏子 村垣博子 山本妙子 太治績世子
   松尾寛子 吉村侑子 宝田晃子 江崎勝子
引率訓導 吉田先生
寮  母 榎本氏
疎開総務係 萩本良雄先生(本部、安福寺)


出典:「呉市 学童集団疎開誌ー勤労動員ー」 呉市小学校校長会編



学童疎開目次に戻る

防空体制目次に戻る