・呉の戦災
2.主な空襲
・呉沖海空戦
帝国海軍、最期の日 (1945年7月24-28日)
−− 軍港・呉は戦場となった呉沖海空戦 −−
3月19日の空襲によって艦隊行動が不可能になった日本海軍の艦艇は、被害を少なくするために、また燃料不足のせいで呉湾周辺に分散疎開されました。松の木で偽装するなど、ほとんど戦力のなかったこの"日本海軍残存艦隊"を目標として、アメリカ海軍第38機動部隊(第58機動部隊が改称)を中心とする連合軍の大艦隊は、このとき艦載機による集中攻撃をかけたのです。
7月下旬の軍艦の配置
終戦時の軍艦の配置
情島沖
情島沖の日向
小用沖
小用沖の榛名への攻撃
三ツ子島(北部に「葛城」、東側に横転した「天城」)
能美沖の利根
坪井沖の伊勢
これはポツダム宣言を受諾させるよう、日本に圧力をかける目的で行なわれた「対日集中作戦」の第一陣でした。
1945年(昭和20)7月24日から28日までの5日間に、のべ1845機にものぼる艦載機が来襲しました。
呉湾で動けなくなっていた日本海軍軍艦は必死の抵抗を見せ、猛烈な戦いがくりひろげられましたが、それは一般市民を巻き込んだものでした。 軍艦をねらった爆弾やロケット弾は市民の頭上にも降り注ぎ、逃げまどう人には機銃掃射が浴びせられました。軍艦の対空砲火は市民の住宅にも炸裂しました。呉湾内外は戦場になったのです。
ほとんどの軍艦は乗組員の多数を失って着底し、一般市民に少なくとも120人以上の犠牲をもたらして、世界的軍港・呉は、日本海軍の「墓場」と化しました。
青葉
青葉
青葉
A.青葉→(訂正)大淀(ドックで解体工事中)
天城
天城
B.伊勢→(訂正)日向
C.伊勢→(訂正)日向
(上記、A.B.C.の訂正は、横浜市の三藤久司氏のご教示により、訂正しました。)
伊勢
伊勢
榛名
榛名
日向
日向
蛟龍
蛟龍(こうりゅう)
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