「神垣増雄 日記」
                   日記表紙 署名
   神垣増雄氏略歴
1910(明治43)年、呉市広町生まれ。家は代々岩樋水門の開閉に従事。
1925(大正14)年、広尋常高等小学校高等科卒業後、
            広海軍工廠航空機部機体製図見習工として入廠。
1945(昭和20)年、飛工研 工手として終戦を迎える。
1992(平成4)年、死去。
   (編集者註・歴史的文書なので、原文のまま表記した。個人的な個所は省略した。)

   T、「太平洋戦争開始時の状況」

  《 昭和十六年十二月〜の昭和十七年一月の日記 コピー》
  12月7日  12月8日  12月9日  12月10日   12月11日
  12月12日   12月27日    昭和十六年1月6日  1月21日

昭和16年
12月7日(日)
午後1時過ぎ「警急呼集だから4時半までに工廠に出頭されたい」と前川技手が呼びに来た。
4時まで垣造りに精励して呼集に応ず。
サイレン を用ひず通報に依って呼集が行なはれたのは怖らくこれが初めてであろう。
6時半まで訓練が行なはれた。太平洋の危機は愈々逼迫したのだ。
昨日正午呉鎮参謀長より防空設備に対する警告があったのも唯の訓練ではな いらしい。

12月8日(月)
工廠に出ると誰云ふとなく米英と戦端を開いたと云ふ噂がひろまった。
11時過ぎ総務部よりマイクを通じて「11時半より東條首相の宣戦布告に対する訓辞を中継致します。」と報じた。
青年達は思はずペンを落として 拍手するものさへあった。愈々来るべきものが来たのだ。
感激の涙が眼をうるほす。
午後2時半より廠長が呉鎮庁官の訓辞を伝達され、引続き今未 明戦端開始以来のニュースを報じられた。
それに依るとハワイの空襲,マレー半島の敵前上陸、香港、シンガポール、フィリッピンの空襲、グァムの襲撃等々僅か半日の間になされた戦果は実に人間業とは思はれない。
夜 は灯火管制が行なはれ,首相の演説が放送された。

12月9日(火)
正午の休みと2時半と4時半の3回に亘って戦況ニュースを報ぜられることになった。
開戦僅か第2日と云ふに実に素晴らしい戦果をおさめ, 吾等の血潮は湧きかへる様だ。
今迄日米戦に就いては色々な書物が書かれ,各々最後の勝利は自国のものとしてゐたが、
流石日本の論客も僅か2 日間でこれ丈の戦果をおさめる日米戦を想像した者はゐなかった様である。
皆ニュースの時間を待ち詫びて其の時間になるとまるで吸ひつけられる様に拡声器の付近に集って行く。
「昨8日戦端開始当初の1日間に吾海軍の拿捕した英米船は200隻総瓲数8万瓲の多きに上りました」
其の度毎に皆の顔が一様にほころぶ。

12月10日(水)
刻々に報じられる戦況ニュースは総て胸のすくものばかりである。
開戦以来僅かに3日と云ふに今日は又々驚くべき快報がもたらされた。
即ち英国極東艦隊主力の全滅の報だ。此の艦隊は日米交渉が愈々最後の大詰になった時、
威嚇的に急派されたもので,其の主力は英国御自慢のものばかりであったらしい。
未だ極東に来て僅かに数日、それが早くも吾海軍の為に撃沈されて終ったのだから、此のニュースこそは全世界を震撼せしめたことであろう。

12月11日(木)
今日又チブスの予防注射と種痘が行なはれた。
昔は10年に1度種痘をすればいいのだと云はれてゐたものだが、今頃数ヶ月で効果がなくなるのか。
相継ぐ戦捷ニュースに皆ホクホクしてゐる。当初からあまりに素晴らしいニュースが続いたので今では巡洋艦や駆逐艦の如き小艦を撃沈したニュースでは物足りなくなった。
早くも今夕は警戒管制が解除された。正午のニュースに依るとフィリッピンの敵空軍は殆んど壊滅したと云ふから、
もう此の地方へ敵機が来襲する怖れはなくなったのかも知れぬ。
今夜9時55分よりヒットラー総統の重大声明が中継された。実にはっきり聞くことが出来た。

12月12日(金)
(前略)終日余り花々しいニュースは入らなかったが、独伊両国が対米宣戦を布告したのは力強い。(後略)

12月27日(土)
一昨夜香港は遂ひに陥落した。香港島の一角に皇軍が敵前上陸して8日目である。
今まで支那の戦争では敵の城壁にたどりつくまでが、長くて,一旦其処まで攻めよせたら後は訳なく攻略出来たので,
敵前上陸に成功してからは今日か明日かと陥落の日を待ったが、それが実に8日間もかかったのである。
其の間吾方の3回に亘る降伏勧告を拒否し続けたのでるから敵も不落の確信をもってゐた要塞であろう。
吾々にとっては待ち遠い8日間であったが,敵の為には余りにあっけない8日間であったに違ひない。

昭和17年
1月6日(火)
今暁6時より午後8時まで防空演習が行なはれた。
殊に午後7時からは空襲管制に入ったので夕食も落付いて出来なかった。(後略)

1月21日(水)
来る2月1日から衣料品がキップ制になる。
1年間に一人100点まで買ひ得ると云ふから面白い。主婦は益々智慧を使はなければならなくなった。
100点と云へば多い様だがオーバ類は50点、三揃ひの背広も云ふ風だから一度に背広とオーバを作れば後はハンカチ一枚も買へなくなる。
而し吾国の家庭には箪笥の底に死蔵されてゐる無用の長物がいくらでもあるのだから,
これ等を整理して活用すれば2年や3年無配給でも何等の不自由を感じない家庭がいくらでもあるであろう。
今まで思ひも掛けなかった足袋や手袋の手製等も少し主婦が工夫をこらせば、
不自由な思ひをして配給を待たなくても案外手近かな材料で出来るのではあるまいか。
此の地方ではオーバは贅沢品である。私はすでに2年間もオーバを用ひないで平気である。

U、「初めての空襲警報」    《参照》  呉地区最初の警戒警報・空襲警報の発令

   《 昭和十九年六月〜の昭和十九年八月の日記抄》

《1944(昭和19)年》6月15日 晴   当日の日記

夕方突如警戒警報が発令された。私達一直と他の四直が当直することになった。
小野田技手の話に依ると空襲の恐れがあると云う情報が入っているのだと云う。
私は〇二〇〇より一時間不寝番につくことになったので宵を早く寝てふとサイレンの響に目が覚めた。
〇一〇〇、確かに空襲警報である。「皆起きろ!」皆一斉にはね起きた。
「愈々来たぞ」待ちあぐんでゐたものが遂ひに来た様な嬉しい気がする。
〇三〇〇「敵機は北九州と関門付近を爆撃し、其の大部は遁走せるも尚ほ引続き来襲しつつあり」
〇三四五、「徳山西北に敵機の爆音らしきもの聞ゆ」、電源を切られた為まっくらだ。
「総員静かに退避」私は指令電話の係りを命ぜられ、一人が部屋に残った。夜が明けた。
敵は遂ひに来なかった。〇五〇〇空襲警報解除、なんだか気抜けがした様だ。
今夜は二、三直宿直、家に帰ると怖かった一夜を交々語る。

《1944(昭和19)年》7月8日 晴   当日の日記

昨夜十二時五十五分突如警戒警報が発令された。
私がサイレンの響で目覚めた…中略……此の頃の子供は可愛そうである。
子供達に着物を着せたり、待避の準備をしてゐる間に間もなく空襲警報が発令された。
子供丈は待避の準備をした方がいいと、隣保班の子供を皆岩樋に集めた。
四時過ぎ、空襲警報解除、五時過ぎには警戒警報迄解除になった。

《1944(昭和19)年》8月11日(金)晴   当日の日記

サイレンで目が覚めた。朝が近いと思ったが時間を見ると12時だ。
灯火管制をやってゐる間に空襲警報が発令された。
直ちに工廠に馳せつけ非常持ち出し品を選んでトンネル格納庫へ待避した。
敵は相変わらず北九州を襲った様子だが、此の度は一部山陰方面を伺ひ福山の近く迄通ったらしい。
昨日衡陽が陥落したばかりなのだ。たたいてもたたいても執拗な奴ではある。
三時半解除、帰宅して寝る。

《1944(昭和19)年》8月20日(日)晴 〜 8月21日(月)   当日の日記

前半略・・・五時過ぎだったか、俄に警戒警報が発令された。
防火部署員は一直二直が当直で私も登庁せねばならないが、どうせ今夜は泊まって帰る様なことになるだろうから、夕食をとってからでなくては登庁出来ないと思って、湯あみしている間に空襲警報が発令された。
月のない頃だから土曜にも白昼襲って来たものであろう。急ぎ飯をかき込んで登庁す。
六時過ぎ敵は亀が首上空を呉に向かふとの情報あり。而し敵らしいものは遂ひに姿を見せなかった。
七時過ぎ空襲、警戒警報相継いで解除。今頃は暇さへあれば寝ておくことが大切だ。
サイレンの響に目が覚めたのは十二時十分前、又来たのか、間もなく空襲警報発令、午前三時、解除、昼間は防空演習あり。


《1944(昭和19)年》8月22日(火)   当日の日記

正午過ぎ警戒警報発令、一昨日は二十数機も撃墜されたのに性こりもなく真昼間よくも来るものだ。
間もなく五分も経たない間に空襲警報発令、馬鹿にあわただしい。
吾々は直に非常持ち出しを選んでトンネルへ待避した。何時迄経っても外の者は待避して来ない。
敵機四機五島列島北方を行進中との情報が入ったのみで間もなく解除になる。
トンネルから帰って汗を拭っていると、唯今の四機は味方機なりとの情報が入る。


V、「敗色濃い中での戦災体験と戦後の生活」

   《 昭和二十年一月〜の昭和二十年十二月の日記抄 コピー》

  3月16-17日 3月18-19日 5月5-6日 7月1-2日 7月2-3日

 (編集者註・歴史的文書なので、原文のまま表記した。個人的な個所は省略した。)

一月八日(月)晴
大詔奉戴日に際し神風特別攻撃隊から贈られた。鉢巻が手交された九十%以上の勤務成績を有する者のみに渡され、毎月、大詔奉戴日から、一週間締めることに定められた。
中央に日の丸が染め抜かれ、その両端に黒字で、神風と大書してある。前線の特攻隊勇士から、吾に続けと、短刀を贈られたのと同じ意味であるが、そうした精神を肝に銘じて締めてゐる人が、幾人いるであらうか。まるで運動会の様なにぎわいだ。

一月二十四日(水)晴
朝からきつい寒さである。中略。新しくやる戦闘機「紫電」の互換性部分を決めているうち、二十六日の会議で私一人で参加するよう話が持ち上がり、一日早く現地に出席して現物を見学しておく必要があると云ふので、俄かに今夜夜行で、川西社へ出向くことになった。

九時時十六分発の列車で、一行六名が出発するので、私もその仲間に入れてもらった。朝来の寒気は夜に入って益々加わり、車中、ズボン下三枚を重ねて尚ほゲートルを着用してゐるにも拘らず、まるで膝から下部は水中に浸している様である。
糸崎駅で四時間待たねばならならないのだが、念入りに糸崎駅にはまだ待合室が建築中でガラスがはめてないのだから立っても座ってもゐられない。二十五日から汽車の時刻時間が改訂になるので東京行の列車も止められた。

一月二十五日(木)晴
満員の二列車の客が三時十五分の満員列車を待つのだから地獄のような騒ぎである。一行とは別に漸やく二等車に押乗ったが室内にはとても入れそうにない。入口に立ったまま身動きもなら。手に持ったカバンと弁当をその場に投げても人の踏むに任せるより他ない。
夜が明けた。しかし汽車はまだ如何程も走ってゐない三宮駅に着いたのは十一時過ぎだった。走った時間より停車している時間の方が長いのだから叶はぬ。川西社に着いた時は十二時過ぎ。中略。
夜は工和寮という工員寄宿舎で厄介になったが、風呂場で若い者達がしらみ退治してゐるのを見て急に気持ちが悪くなった。八時過ぎ警戒警報に入る。

一月二十六日(金)晴
職員食堂とは名のみ、余り箸もつけられないほどの粗食である。平素自分の生活にとかく不平ばかり並べるが、こうして人の生活を味わってみて初めて有難味が分る。会議は軍需省主催で七廠社の代表が会合した。午後三時終はる。
夕方迄休んで大阪に出た。男も女も防空頭巾をかむり、鉄かぶとを背負い、救急袋を下げて立派ないでたちである。軍公用のお陰で帰りはキップもわけなく買えたし席も占めめられた。

一月三十日、火曜日、晴
隣保班で、アルミ貨回収を行ってゐる。五銭十銭は紙幣になるのだからいいとして、一銭はどうするつもりだろう。実際問題として一銭二銭の品がある訳でなし。四月からは葉書さえも五銭にはね上がるのだから、一銭なんてお金は当分造る必要はないかも知れぬが、やはりインフレを抑圧する上にあった方がいいと思ふ。
一銭も紙幣に、なるのだと云ふ噂さもあるがそれはどうかと思ふ。それよりもこの際昔に返って貝で作ったらどうだろう。五銭も十銭もそれでいいと思ふ。

一月三十一日水晴
リンガエン湾に上陸した敵はまるで無人の境を征くが如くマニラ目指して南下してゐる。一体敵を食い止める山下ルートとは如何なるあたりに布かれてゐるものか。如何に飛行機のない戦争とは云へ僅か数個師の米軍にまるで無抵抗で押される訳がない。
フィリピンが天下分け目の決戦場となることは一年も二年も前から知られてゐたのだから、吾方も相当の構えはあるに違いない。新聞ではこれを柔軟作戦とか言ってゐるが、我々も本当に作戦のための柔軟戦と信じたい。
これは敵側も感づいてゐるものと思えてマニラに迫った僅か二三個師を向けてゐるのみで、大部分は上陸地点のリンガエン湾を動かない。相次いで有力部隊を上陸せしめ、それらが先を競ってマニラへ侵入しなければ吾方の思うつぼではないであらう。

二月四日(日)晴
中略。此の度陸海軍の召集延期扱いが撤廃されされるので、幹部工員を予備役海軍下士官に編入せしめることになったのだが、これは単に職場から技術工を動かすまいと図った迄のことで、当局に他意はないものと思うが色々深入って気を廻す人もあって、海軍の軍籍に入れば凡て階級で押されるからとか何とかとか上級幹部はもましてゐる。

二月九日(金)晴
地上の雪は今日も終日解けない。早く日が経てばいい。暖かくなれば誰も仕事が手に就かない。そして国民の一人残らず寝ても醒めても思い続けてゐるルソンの決戦が何とか目鼻がつきそうに思へるからである。よるとたかるとルソンの話だ。
たまに今に皇軍が大殲滅戦を展開する様な話をする楽観論者を皆で嘲笑する程もうさじを投げてゐる。

二月十日(土)晴
工場疎開が本格的に急がれ出した。いずれ吾々も岩国方面へ出向かねばならない情勢になった。余程戦争が好転してルソンの敵も撃擾されマリアナの敵基地も吾手にする様なことがない限り今年の秋ごろは疎開はまぬがれられまい。後略

二月十四日(水)晴
如何なる情報が入っているものか明らかではないが、明日あたりが危険な様子で、今日夕方廠長が特に防火施設を巡視されたり、重要物件は尽くトンネルに格納せしめたり大変な騒ぎである。部署員にも明朝四時登庁することに定められた。
昨年末頃からコックリさんの予言だといって二月十五日午前六時に呉市を爆撃すると云いふるされたものだが、何だか気持ちが悪くなった。
明日から防空小隊長を命ぜられた。最近防毒隊の訓練が盛んに行われている所を見ると愈々其の恐れがあるのか、負け戦になれば必ず毒ガスに見舞はれるであらう。

二月十五日(木)晴
神戸の弘子君から手紙が来た。中略。もう遺言状も認めてあると言ひ、再開はおぼつかないからと生前の礼まで述べてまるで最後の手紙のようだ。
日本は強いと思う。女も男も年よりも子供も最後の決意をしないものはない。三人の子供が頭を並べて食事をしてゐ姿を眺めながら、敵が東から来れば仁方峠で西から来れば呉越で此の子等と共に最後まで戦ふのだと思ふ。

二月十六日(金)晴
岩国地下工場へ疎開する話が各方面で噂されてゐるが、いずれも噂話で当てにならなかったが、今日初めて係員以上を集めて其の計画が発表された。
大体噂通りのものであるが吾々の様な事務系統の者が疎開する迄には尚ほ相当の時日を要する見込みで、早くとも年内には動く様なことはあるまい。来年の三四月頃となるだらう。
これから当分の間、午前五時から十時までの間、第二警戒配備となされることに成ったので、今朝は早朝より起き出して直にあたる。
敵の大機動部隊が本土近海に来襲し今朝より一千機の艦載機を以って関東、静岡地方を空襲してゐる由、岩国疎開迄此処で頑張れるかどうか。

二月十七日(土)晴
今日も引続き朝から艦載機の約六〇〇余機が関東方面を空襲中との情報あり、敵の航空母艦十数隻が近海に来てゐると知りながら、それを一度も沈めることが出来ないとは泣くにも泣けない。中略。
今夜は石山合戦の話をして日本は絶対不敗の国であることを子供等と共に聞かして上げる。

二月十八日(日)晴
鎮守府よりの軍極秘書類で軍人軍属の武装に関する件が通達が来てゐる。 伝家の宝刀を充分使いこなせる様に訓練せよと云ふのである。
敵の本土上陸は必至と見られてゐるらしい。もしも紀州方面に上陸して中部地方を占領され本州を東西に両断されたら日本本土はお終ひだ。一億玉砕かさもなければ、遠く満州に移動して大陸に安全の地を求めるか。
今年こそは真に皇国の興廃の重大危機である。伝家の宝刀を磨くもいい。死に甘んじて一切無欲なるもいい。だがそれは必勝の方法ではないのである。
「もう仕事どころではない」「働く気がしない」そうした浮足立った人間が日毎に増加してゆけば戦わずして本土は敵手にゆだねなければならなくなる。

二月二十二日(木)晴
昨夜は、思い掛けない雪で今朝は美しい銀世界だ。日和がいいから間もなくとけるだろう。硫黄島に神風特攻隊が現れた。
「何とか打つ手はないものか」と国民の誰もが仕事も手に付かぬ程硫黄島を思ってゐるのだ。此処で敵を追い落とさねば本土に上がられても処置なしと見ねばなるまい。
今夜は久方振りに活動見物に出掛けたかったが、七時のニュースを聞かねば寝つかれないので活動見物は我慢したのだったが、其の甲斐があって胸のすくようなニュースが聞かれた。
航空母艦二隻撃沈、艦種不詳一隻撃沈。艦種不詳二隻撃破炎上、火柱十九を認めたり。

二月二十五日(金)晴。前略。
病気になっても医者にかけることが出来ない。医者はゐても、注射や薬がない。滋養をつけようにも食物がない。
第一線の兵士ですらそうした死を味わってゐるのだから、吾々が国内にいて為政者を難じ立てることはつつしまねばならない。
吾々はこれまで余りに他力依存の生活に慣れ過ぎて来たのだ。太古の生活に復古すれば何の不平やある。

二月二十四日(土)晴後曇
呉軍港へガソリンを満載した船団が昭南島から帰ってきたと云ふ。これまで飛行機の飛べなかったのはガソリンが無いからであって、飛行機が無かったのではないと云う者もある。
この度の入荷は実に六十万頓の多量に上り一カ月二千機の飛行機を飛ばして一年間は大丈夫だと云ふ。
この護衛艦日向は実に数度の危機を脱して輸送を完遂し、最後には神風とも云うべき俄かの暴風により執拗に追いすがる敵機の虎口から脱することが出来たとか、実に手に汗を感ずる程の危ない戦争を戦ってゐることではある。

二月二十六日(月)晴
「今日ほどくだらぬ政治家が揃ってゐる時代はない」と蘇峰翁は新聞で歎じておられるが、誠にじだんだ踏んで泣きたい程情けない。
小磯首相は何しているんだ。米内海相は何しているんだ。大本営はもう少し何とか云へないのか。為政者と国民はぴったり一体となって同じ方向に進んでゆかなければ真の政治は行われるものではない。
しかるに何事ぞ。吾国の為政者は、ここまで臭いものに蓋をする如く何もかもひた隠しに隠したて国民に対して何ら具体的な指導をやらない。敵を瀬戸内海にでも誘導しようと云ふのか。
政府がそうした無能だから新聞は勝手なことを書き立てゝ、国民に竹槍を作れとか、本土寸断を企てているとか、ミミズのようにどんなに小さく切られても生き抜かねばならぬとか、負ける準備ばかり指導してゐるから、戦場化とはマニラの如くなる恐れがあるのかだの、硫黄島の如くなるのかだの全く意気消沈、為す所を知らない状態である。

三月一日(木)晴
朝の内はやはり手袋や首巻をおき度くないが、午後はもうすっかり春らしくなって日向ぼっこをしてゐると汗ばむ程だ。
「これでもう爆撃されても大丈夫だ」と皆云う。春は百万の味方を得たよりも力強い思いを与えてくれる。明日は愈々現在の工場を引払って、五〇工場へ疎開することになった。今日は終日其の準備に忙しい。

三月三日(土)晴
Y大尉が転勤になるかも知れぬと云う噂がある。それが若し本当だとすれば全く十一工廠の上層部にはスパイが巣食ってゐるのではないかと疑いたくなる。
この前彗星の立ち上がりの時、H中尉が中心になって治具整備に尽瘁されたものだが、その時も愈々工事に着手すると云ふ時になってシンガポールへやられて終った。其の為立ち上がりに如何ばかり支障を来たしたことか。
今又、中心人物のY大尉を他に移せば紫電の立ち上がりは予定の半ばにも及び難いに決まってゐる。必要欠くべからざる人を他に移して邪魔になる者を据えるのだからどう考えてもスパイである。

三月五日(月)曇後雨
突撃増産だ職場玉砕だと、耳新しくもない掛声に何等の感動も覚えない。もう誰も言葉には誤魔化されない。今月も決戦増産とか突撃何とか云ってゐるが、その具体案として相も変わらず敬礼だ姿勢列だと、くだらぬ行事を並べたてる。
これ以外に能率増産の道はないと信じ切っている筋があるのだ。工場内を歩いて見て誰も彼も敬礼をしてくれると、「アヽこれでよくなった」と肩をいからすくせ者がゐるのだ。そして其のくせ者たちが皆を牛耳るのだから飛行機なんぞ思ひもよらない。

三月八日(木)晴
大詔奉戴日で職場総決起集会が催された。また、十三時より職員食堂に於て廠の代表者がそれぞれ所信を披瀝して気焔をあげた。
が何にもならないことである。二時間の間生産の手を休めただけで何らうるところはない。廠長はじめ全職員の前で可憐な学徒や挺身隊の乙女達がよくも臆せず喋ったものだと感心すればするほど、このことで云ったことは男も女も同じ原稿を受ける売りしたと云っても過言ではあるまい。
廠長はじめ上司の面々、若しも彼らの熱弁に「吾が意を得たり」と満悦の笑みをもらされるならば誠にお目出度いめでたい極みで生産はそんなことで向上するものではない。
喋る者も嘘つきだが、喋らせるものもうそ聞きだ。工員のありのままの不満を云わせ彼らが心から喜んで働く様に計れば金もいらず苦労も要らぬ方法がある。
それを今では苦労して嫌がらせ金を費やして苦しめてゐるのである。

三月十二日(月)晴
午後、呉工廠造機部に委託工事進捗に赴むく。材料がないから艦が作れないとか修理でさえ思う様に出来ないとか心細い噂を耳にするが、呉廠に来て見れば材料は至る所に転がっている。
下水の覆も十糎位の鉄板が敷きつめてあり、工場内の掩帯も十一工廠の様な竹細工でなく立派な鋼管の溶接で作られてある。高遠に求めて卑近に失するとはこのことか。
国民が大切な家財道具まで献納して飛行機や艦船の増産を熱望していても、現場でこの状態では折角の赤誠もオジャンである。
昨日の議会では初めて首相をはじめ、陸海両相は自信満々たる必勝の信念を語り意気消沈の国民に光明を与えた。既に或る都市では厭戦思想が横溢してゐるとまで云はれてゐる。
危局に際し一人隠忍自重を旨として沈黙を守るは国民をあやまらしむる因をなすものである。

三月十三日(火)曇後雨
或る都市の徴用工員は貝殻を煎じてその中へ一握りの米を入れ山野に野生している草を入れて雑炊をたいてゐると聞く。
貝殻はカルシウムを得る為とか、その人達は一ヶ月も二ヶ月も風呂に入らないで、あかにまみれてゐると云ふ。銭湯は満員で入られず、入れば必ず衣類を盗まれるから自分の家から裸体素足で行くより外方法がないと云ってゐる。

三月十五日(木)晴、午前雨
皇大神宮も熱田神宮も宮城も敵弾を受けた。「神様は幾ら腹を立てないにも程がある」人々はそんな不満をもらしてゐる。
神様と云ふものがそんな御力添えをして下さるものなら、飛行機や艦を骨折って作らなくても一億国民朝に夕に、御酒を供え御祈りをしていいさえすれば勝てる筈だ。
吾が国は神の国だと自他共に自負してゐる所の意味は吾等の御祭りする神霊がそのまま吾等の精神に通ひ給ひ、吾々自身が神になることである。護国の神は一億国民の外にないのである。

三月十六日(金)晴
 滅私奉公と云ふ言葉はもう耳がたこになる程聞かされており、聞いた所でピリとも感じない程聞馴れてゐる。而し要は幾ら聞馴れてもこれ以外に敵に勝つ道はないのである。
呉廠にも広廠にも仕事がなくて困ってゐる所が幾らもある。仕事のないものはあっさり仕事がないと云へば手傳って貰ふ事は幾らもある。それが云ひ度くないのだから困ったものだ。
一回に五粍宛削られる旋盤仕事を一粍宛削る。そうせねば仕事がなくなるのだ。それでは動力が五倍要る訳ですから、一度に五粍宛削って他の四回分は遊んだ方がかしこいと忠告でもすると、とんだお目玉だ。

三月十七日(土)晴
日本の家族制度は非常に悪い反面を持ってゐる。家には夫と祖先傳来の家財道具がある。昔からの風習で慶弔のことがあれば親類縁者知己等三十人も五十人も大きい家なら百人位の客を招く道具を持ってゐる。
其の道具たるや一生に二度か三度使用する丈のもので不経済此の上もない。今頃の様に毎日空襲があると道具は一つでも少ない方がいい。
日本人は此の戦争で生活様式を一変する必要があるのではあるまいか。生活に必要な道具、そう云ふ点で官吏の生活は吾々の模範とすべきであろう。慶弔は料理屋へ頼めばよし。植木が見たければ公園にゆけばいいのである。

三月十八日(日)晴
出勤間もなく空襲警報発令、総員待避の令あり。有力なる敵機動部隊よりの艦載機が来襲中だと云ふ。午前中は遂ひにトンネルに詰込まれたまま径った。
午後も又待避だ。夕方再度総員待避の令あり。一同騒ぎ立っていると検査のY大尉が「総員待避ではない」「お前達は誰の令で動いているのか。工場には工場の指導員がゐる筈だ」とF大尉やY少尉にやかましくどなり立てる。工場指導員もこんな命令をあみ出す訳でないから、もんくを云ふ丈やぼだ。

三月十九日(月)晴
出勤間もなく空襲警報発令、第一待避令せらる。昨日待避を早まってY大尉がどなり込んで来たので、今日は腰を据えておろうと思ってゐると俄かに頭上で機銃掃射を仕掛けられ、あわてて地上に臥す。
近くに小さな待避壕が見付かったので、其の中に這込むと数人あわただしく後に続く。暫くして敵機が退ひた様子なので、全員早駆けにてトンネルに待避す。
時を移さず再び敵機来襲、トンネル入口並附近一帯に投弾、敵機の脱去を待って無理に駆出して見ると設計、検査、工作研究、何れも爆弾で吹飛んでゐる。
破壊された机や散乱した図面書類の整理中にも幾度となく敵機来襲のデマに驚かされ、トンネルに待避したことだった。
午後岩樋が焼けたと云ふ噂を聞いて心配してゐると、設計の新名内氏が突然悔みを述べる。急いで帰って見ると警防団の人達が多数出動して取片付けてくれてゐた。
何で焼けたか不明であるが、発見が早かったのと、多数の人が消火につとめてくれたお陰で屋根を半ば焼いたのみで済んだのである。

三月二十日(火)雨
 うるさい雨が降る。焼出された後の雨のうるささは又格別だ。伯母さんの家へ直撃弾が落ちて家財道具を残らず破壊され、隣りの間野、畝本共に爆風でやられた。
神垣守氏の家は裏のたんぼに爆弾が落ちて爆風を食った。こんなに揃いも揃って親戚ばかりが害を蒙ることも稀であろう。

三月二十二日(木)曇後雨
 意地の悪いもので何時迄も雨ばかりだ。濡れた畳をかはかす時がない。雨模様をおして屋根葺にかかる。夕方よく降り出したが、遂ひに葺き終へた。
藁屋根は粗末ではあるが修理も簡単である。近日中に藁葺は市から取りこはすと云ふ噂がある。何れにしてもせめて一日でも住む所を作らねば落付かれない。
夕方本義技手が職員代表で見舞ひに来てくれた。被害者は五日間の休暇が許可されることになったと云ふ。然し余り甘へてもおられまいから明日は一応顔出ししやうと思ふ。

三月三十日(金)晴
硫黄島も全員戦死に終わり今また沖縄に強行上陸を企図してゐる。沖縄が敵の手に入る様なことにでもなれば去る十九日の様な危険は常に覚悟しなければならない。後略。

四月三日火曜日晴
今日は工廠もお休みだ。何はなくとも心ばかりのお節句を味合はせたい親心か。何処の家庭でも子共に丈けは何か御馳走してやりたいと云ふ気持ちが、つい先日爆弾の洗礼を受けたばかりのほこりまみれの中からも、やはり捨たらないで藷や豆で苦労している。
砂糖はもう何処の家庭にも無いのだから、せめて藷や豆の甘味を借りて子どもを喜ばせたいのである。警察から此の度の被害者へ酒一合宛見舞ひを頂いた。節句には酔ふ丈飲んで見たいと楽しみにしてゐたが、何もかもけしとんで終った。

四月六日(金)晴
前略。K子君はこうした毎日の様に敵機来襲の中で結婚する気になれぬと云ふそうだが、お互いが其の日一日を完成してゆく所に勝利の道があるのである。敵弾雨飛の中にも真剣な生活は続けられなければならない。

四月九日(月)雨
明日から男子二名宛二日間、海軍へ勤労奉仕に出ることになった。軍にも余りに無理な要求をすると思ふ。今日何処に男の手間があるのだ。中略。
戦争がもっと深刻になれば軍政を布かれるかも知れぬ。しかし其の為に、軍民離間が激化すれば却って有害である。

四月十日(火)雨
本日海軍施設部より町内会長を通じを思って老婆心までに事前にお知らせしておくと前置きして、近日中に名田三百戸全部立ち退きを命ぜられる筈だから各自準備しておくよう申された由。
軍の要求とあれば、たとえ明日から野宿するとも直ちに立ちのかねばなるまいがさて困ったことではある。明日有志の方が市長に会って、嘆願に上がると云ってゐるが、今日となっては何を願った所で云うだけ無駄であろう。
ましてや名田部落全部が一カ所に纏りたいとか、家を移動させるとか云ふことは許される筈がない。

四月十三日(金)
前略。昼のラジオでルーズベルトが死んだと云うニュースを伝へたとか、皆はしゃぎ廻っている。ルーズベルトの死が直ちに太平洋戦に影響する様な甘い戦争を夢みてはならない。次の大統領はマッカーサーか、誰か。
四月二十日(金)雨
たまに降る雨でも雨の日は心が暗い。誰が置き忘れたか万次郎漂流記という面白い本があるので終日読み暮らす。日本の漂流者が米艦に助けられて親切なもてなしに預かる記事がある。
今日吾々が思ってゐる獣の如き米人とは全く別物の天使の如き米人である。誰だって人間にはこうした神さんのような気持ちがあるのだが、戦争のためお互ひが鬼畜の心になってゐるのだ。
日本人にとって米人が獣に見え、米人にとって日本人が鬼に見へる所に戦争が成り立つのである。後略。

四月二九日(日)晴
施設部から第一期、第二期、第三期にかけて愈々疎開家屋の検分に来たそうだ。私の家は第一期の組で五月十五日頃迄に移転完了の筈だともらした由。出来ることなら此の度の疎開には余り体が動かしたくないが、そう期日が短くなれば仕方がない。

五月一日(火)雨
昨日夕方野呂山の麓が燃えてゐたが山火事か何かはっきりせぬ間に下火になったので、間もなく消えることだろうと思って寝についたが、今朝見ると物凄い山火事になってゐる。
今朝は幸に曇天で雲が低いからいいが、こんなことから敵機を誘導せぬとも限らぬ。後略。

五月五日(土)晴
久方振りに出勤して各方面へお礼に周り、八時過ぎ共済病院へ診て貰ひに行く。帰途家によって服薬し、十時過ぎ工場に帰った。
間もなく警戒警報発令、五分も経たない内に空襲警報発令、もう警報には馴れている皆は別にあわてる事もなかったが、私は病人だから人より早目に腰をあげた。
防空壕まで歩いてゐると途中で高射砲を打ち出した。防空壕の入口は押し合ひ、へし合ひ大混乱である。
其の人ごみにもまれてゐる間に早くも第一発を見舞はれ、引続き二弾。三弾、強烈な爆風に倒れ伏す人波を乗越えて壕に入る。
あちらにもこちらにも重傷者が倒れてゐる。約一時間の後、外に出て見ると空廠は綺麗に焼払はれてゐた。
何たる適確な爆撃振りぞ。一夫が頻りに私を訊ねてゐたものと思えて、私を見出すとほっとした様子だった。
又私の家はつぶされたらしい。三時過ぎ家に帰ると家のつぶれたことなど口にもせづ、唯皆の顔の揃ったのを見て「よかった」「よかった」と涙ながらに喜び合ふ。
五月六日(日)晴
折角端午の節句を期して出勤したが又数日休まねばならなくなった。川口君次君が駅で死んだと云ふ故だが、其の死体の中に狩山昭二君父子が混ってゐると云ふから見に行った。
佛前に繰展げられた肉片は二目と見られぬ惨状である。其の肉塊の中に名刺が残っていたのだ。破れた名刺ではあるが明らかに狩山昭二と書いてある。
午近くトシミ君が来た。私も一緒に長浜迄送って行ったが長浜峠は憲兵が厳しくかためてゐる。梨木には親子四人が駅で行方不明になったと云ってゐる。

五月八日(火)雨
此の度の爆撃では名田は全面的に被害を蒙った。如何に被害の僅少な家でも屋根や立具のいたまない家はあるまい。
それ丈に今日の雨は悲しかった。愈々樋門を海軍に委託したらしく、岡野さんが広廠の戦計係へ出頭するのだから同行して貰い度いと云はれるので雨の中をトタン葺の仮事務所に赴く。
主任を二時間近く待ったが遂に帰らない。大きな雷が突然唯一ツ轟いて気の早い連中は早くも待避を始めてゐた。
帰途戦計主任に会ふ。色々質問して樋門引取りにもったい振ってゐたが、既に海軍側としては引取る腹であることはよく分る。明日正午私が技術的な指導をして引継ぎを完了することにした。

五月九日(水)晴
正午一人の守衛と女の人が樋門開閉の技術習得にやってきた。何れも樋門には未経験の者ばかりで、盲人蛇におぢずと云ふか、何でもないものの様に心得てゐる。
百五十年の歴史を有する祖先伝来の家業であっても、尚ほ恐るべき難業として心の許されない仕事である。
私の家で女がやってゐたと聞いて直ちに女を派遣する所が可愛い。百五十年の経験を一時間や二時間で引き継がせやうとすることが第一無理である。
私に云はせるなら少なくとも一ケ年間見習として経験させなければ自信はもてないと思ふ。

五月十日(木)晴
朝から空襲警報が発せられ、多数のB29が来襲したが、他を爆撃しての帰途であるのか、投弾はしなかった。
而し高射砲が物凄く打ち出され、呉方面と思われるあたりに空を覆う黒煙が認められたので、テッキ リ呉がやられられたと思ったが、夕方聞く所によると、徳山燃料廠がやられたとか。後略。

五月十一日(金)雨
爆撃以来始めて出勤した。破壊された工場の後へ掘立小屋が立てられてあった。これが吾が工作研究係である。
しとしとうるさい雨が降る。皆仕事はなくても無い風をしてはいかぬと云ふので方々へ分散せしめてゐる。

五月十九日(土)晴後雨
戦局は不利になると皆の気持ちをデカダンにしてしまう。もう誰も一年後のことなど思って見るものはゐなくなった。今日一日さえもおぼつかない時である
近々岩国へ疎開しなければならないことが明らかになってゐても、本当に行く気になってゐるものゐはない。一カ月先はどうなるか知れたことか。

五月二十二日(火)雨
工員が好むと好まざるとに拘らず、岩国にトンネル工場は急速度に進められてゐる。現在では五百名の人が掘ってゐるそうである。後略。

五月三十日(水)晴。前略。
昨日帝都にはすでに五百機のB29が来襲したと云う。沖縄最後の総攻撃が始められた二十四日からすでに一週間になるが未だ戦果は発表されない。此の生活が何時迄許されるものか。

六月一日(金)晴
朝からB29が大挙大阪に来襲した。この頃ではラジオも大分変わって被害の状況を刻一刻手に取る様に報道する。爆撃の苦い苦杯をなめてゐる吾々には大阪の混乱状況が眼前に浮かんで来る様である。
今日から朝の出勤が一時間早くなって門限時間が五時四五分、そして晩の退廠時間が一時間早くなった。食糧増産の叫ばれる折柄、少しでも早く帰して農作に当たらせようとの温いお心らしい。

六月二日(土)雨後晴
食糧増産と能率増進。そうした一石二鳥を狙っての勤務時間変更は却って反対の結果に終わらんとしてゐる。それは、事前工作が施されてゐない為、折角の親心も台無しになるのである。
先ず第一の失敗は交通機関に対し何等交渉が行われてゐないことだ。其の為、電車、汽車、自動車の利用者は従来通りの時間でなくてはならない。
そうなると極一部の徒歩通勤者のみが一時間早く来るのである。それで帰りは皆一緒に一時間早いのだから能率増進もくそもない。後略。

六月八日(金)雨語晴
沖縄の戦局が愈々重大段階に立ち至ったと云うのに東京では焼野原で奉納大相撲が催され、あくまで大国民の度量を示さんとしている。中略。国民は気をもみながら尚必勝を信じている。

六月十五日(水)雨
千円の金は瞬く間に無くなって終まう。これ迄爪に灯をともす様にしてまで蓄えた金を此の戦争で全部使い尽くすのだ。
吾々のように土着の者はまだ恵まれてゐるのだが、都市から疎開して来た中産階級の不安は涙ぐましいものがあると思う。中略。吾々の疎開には先ず出来得る限り自活の可能な地を選ばねばならないと思う。

六月十四日、晴曇勝
六十歳以上の年寄りと十歳以下の子供を強制的に疎開させるという総務部よりの書類が愈々出された。
家庭的に後顧の憂いをなからしめ、兵器の製作に専念せしめると云ふのが狙いらしいが、却って反対の結果を招来するのであるまいか。家庭と云ふものはそんな簡単なものではない。

六月十五日(金)雨
工廠の幹部級の間では七月中旬が最も危険だと云う見当を立ててゐるらしい。それで其の頃迄に足手まとひになる家族を強制的に疎開せしめて、最悪の場合はトンネル内に起居をせしめ、トンネル内で働かせると云ふのである。
しかし我々の生活は工廠一本ではない。家庭で夫々農業や商業を営んでゐるのだ。工廠一本では生活出来ない給与で如何に国体を説き戦局を論じても工員は先ず食ふことを考えるであろう。
疎開先より自分自身のためだから誰しも望む所であるが生計への不安をなくしてくれない以上後顧の憂ひをなくすることは望まれない。

六月十六日(土)曇時々晴
前略。空襲で家を壊されただ生きのびた悦びのみに満たされてゐる間は感傷も何も忘れてゐるが暫らく落着いた日が続くと住みなれた昔の家がたまらなく恋しい。
戦争の為に故郷を追はれてゆく支那民衆の涙ぐましい映画を思ひ出す。
六月十八日(月)雨。前略。
空襲に対する恐怖から何時死ぬやらわからんとゐう不安がつのり金も物も役に立たない。何百円要っても先ずうまいものを食ふべきだと云ふ所から肉体的にも精神的にも破滅を招くのである。人間は石田三成の最後の如く死の直前まで節制を破ってはならない。

六月二十日(水)晴
退避壕はようやく完成した。私の作にしては上出来である。この家が明日焼かれようとも今日一日を忠実に生活すれば結構である。諸行無常は戦時のみの出来事ではないのである。一日生きれば一日だけ生活の向上を計らねばならない。中略。如何なる人も明日の命を知り得るものはないからである。仮家に住む仮の生活そのままが人間の生涯なのである。

六月二十二日(金)晴 昨日あたりから誰云ふとなく「明日はBが来るぞ」と噂し合ってゐた。三月十九日、五月五日と云うピッチから割り出しても来そうな頃である。
案の定九時過ぎ警戒に入る。此の時間に警戒に入ると皆顔色を変えて浮腰になる。間もなく空襲に入った。刻々のラジオニュースが皆敵機の呉方面に向ふと云ふ。情報ばかりである。
空襲警報発令後三十分位経って向ひの施設部の兵隊さんが退避を叫ぶ。石鎚山の高射砲が物凄く打出される。
退避壕の入口から空を仰ぐとB29三十数機の編隊がゆうゆうと飛んでゆく。暫く置いて八機、十七機、又八機、数え切れない程西から東に飛んでゆく。呉廠の砲熕、水雷、電気の各部が徹底的に破壊されたとか。

六月二十五日(月)晴
愈々岩国行きが急がれてゐる。何とかその準備だけは進めねばならなるまい。差当り数名の先発隊を遣はして防空壕を掘ったり仕事の段取りをする必要がある。
其のうち情勢が変わればこのままここで働くことになるか、更に又思いもよらぬ所に疎開せねばならなくなるか、誰も明日を予測する者はゐない。
聞くと沖縄戦が終了したとか云ってゐる。大本営発表があったのであろう。農夫の人達が沖縄を語り、爆弾被害の噂をかわしながら山へ家財道具を運んでゆく。敵機は幾回となく呉を伺ふ。

六月二十八日(木)曇
床に入って色々ものを考へてゐると泣き度くなる。何故戦争なんかしなければならないのだ。そんなことを思ふことさへある。今迄二度も空襲にあって、漸やく落着いたかと思ふと又疎開を考へなければならない。
そんなことをためらって、あゝしようか、こうしようかと思っている間に又家を焼出される様なことにでもなったら今度こそ目も当てられない。
そうなっても尚ほ小屋を建て穴を掘って生活しなければならないのか。生きる勇気もなくなって終った。

六月二十九日(金)晴
内憂外患と云ふか、つきつめてものを考えると何れも手の施し様がない。S君が下黒瀬方面の疎開先を探してくれてゐるが仲々家はないらしい。
敵は既に中小都市の爆撃を始めたから呉、広島などは正に風前の灯火に等しい。
家が見付からぬとすると差当たり衣類丈けでも疎開させ度いと思ってS君に語ると本家にいい倉が空いてゐるから幾らでも持って来いと云ふ。
これも余り話が軽過ぎるから当てにはならぬが布団一流れにコーリ二個位なら大丈夫だろうと思ふ。

六月三十日(土)雨。前略。
愈々当地方も甲地区になって明日から国民学校が閉鎖されることになった。そして近日神石郡方面へ疎開すると云ふ。一人でも少なくなる方が安全だから此の際思切ってゆかせやうと思ふ。
明日から工研主任がK技師になるそうだ。砲熕設計でたたき上げた古い中佐の技師だ。仕事に熱心な人だと云ふから、当分かきまぜられることだろうと皆取越苦労をしてゐる。

七月一日(日)雨
先日疎開手当として七百円、待避壕水槽代として別に七百円頂いておるが、此の待避壕、水槽代が余りにも値がいいので何かの間違ひではないかと思ってゐたが、案の条、隣保班の待避壕のお金だそうで、私の家の個人持ちの壕は僅かに三十円となってゐるそうだ。後略。

七月二日(月)晴
昨夜十一時半警戒警報発令、間もなく空襲に入る。待避準備を終えて暫くすると、敵は俄に照明弾を投下して来たので惟秀と鎮は達子さんに連れられて横穴に待避、母と真人と瑞江を背負った妻と私が前の待避壕に入った。
愈々路上に爆音がしはじめたので壕から首を出して見ると工廠方面と思はれるあたりが火災を起こしてゐる。
其の次に首を出した時には二軒隣の桧垣さんの家が炎上してゐる。急いで母と真人に横穴へ行かせたが、途中が火災でゆけないとて帰って来たので川へ逃げさせた。
尚ほもて敵機は次々に来襲する。私は妻と家財道具を手当り次第外に運んだ。裏の鮮人小屋も炎上する。傍観して類焼を待つより勇戦敢闘敵弾にぶっつかってゆかねば駄目だ。
先づ裏の鮮人小屋の消火に当り、次は大家さんの家を消しにゆく。二時過ぎ漸く敵機は去った。雨後のお陰で類焼の少なかったのは有難い。
出勤の途次横路丈けでも余りに被害の大きいのに驚いた。宝徳寺は無事だったが、附近の郷町は目も当てられぬ惨状である。呉市は燃え続けてゐるそうだ。
七月三日(火)晴
焼跡整理の人達は目に一杯涙をためてゐる。泣くにも泣けぬくやしさだ。工作研究には実に二十四名家を焼かれた者がゐる。
殊に旧呉市の人達は焼出された上に肉身を失った人が多い。八幡通の横穴では実に六百余名の死者が有ると云はれ、最近迄私の仕事をしてくれてゐた角井君も夫婦諸共其の組に加はってゐる様子である。
主任も無一物になったそうだ。此の度は立派な邸宅の家をねらい打ちしたのではないかと思はれる程横路でも阿賀でも大きな家がやられてゐる。
今夜は必要な家財道具を橇に積み、雨戸を開けたまま寝につく。

七月四日(水)晴
有難いことにはあれ以来快晴の日が続く。早くも焼跡へ小屋を建ててがんばってゐる人もある。
私達も毎夜家財道具気にしながら寝るのもつらいから、今日S君に頼んで必要なもの丈け預ってもらふこととした。
出来れば明日にでも馬車を頼んで運ぶつもりだ。此の度焼出された人達の中には家財道具を疎開させないで文字通り無一物になった人が多い。
これは決して自慢すべき話ではない。私は先ず家を整理して第一線型にしなければならないと思ふ。老幼者の疎開と云ふこともやかましく云はれてゐるが、生きてゐる者だから中々簡単にはゆかない。
本土は田舎も街も同様に戦場である以上、田舎にゆかせても足手まとひになることは間違いない。皆が死ぬ迄戦ふのだ。

七月五日(木)晴
此の度難を逃れた者丈が少し宛物を持ちよって戦災者に贈ることにした。次第に無一物の者がふへていって、皆の生活が原始的になると闇取引が自然になくなるであろう。
何を得るにも物でなくては相手にされない今日、物も金もなくなれば皆素直な人間になることが出来る。
本来素直なるべき人間が物質文明にわざはひされて心に曇が出来てゐたのを、此の際一掃してお互ひが本来の姿に立返った時真実の力が出せるのだ。

七月七日(土)晴一時雨
前略。毎日苦労して日記を書く。此の頃のように慌ただしい日が続くと仲々容易のことではない。而も此の日記は今夜にでも焼かれるか分からない。近々岩国の疎開工場にでも行くと全然書けなくなるかも知れない。そんなことを思ひながら書ける日まで書こうと思ふ。

七月十一日(水)曇雨模様
此の頃のように夜毎に警報が鳴ると疲れて寝るのが怖ろしい。中略。此の頃の病人は皆訳けなく死でゆく。何時も警報に驚かされ食物は粗悪だし、医者も仲々来てくれない。薬も注射もすべて代用品と来てゐるのだから、気の弱い者は健康な者でも病気になる。まして病人はひとたまりもないのが道理である。

七月十四日(土)曇後晴
日本の飛行機が米本土を空襲したという噂が市中ではひろまってゐる。始め二機征って一機還り、次には十機征って八機還ったと云ふ。その飛行機は満州で作られてゐるとも云ふ。デマにしても悪い気のせぬデマである。
先頃新聞にも騒がれた気球爆弾も未だ当局の発表がないのだから真偽は計りかねるが、日本の科学者たちも躍起になって全知全能を発揮してくれてゐることであろうから何か世界をあっと云はせるような新兵器を発表する日があるかも知れない。
来る日も来る日も泣く児をなだめる様な新聞記事は読みたくない。何でもいいから、特筆大書の記事の現われる日を待ってゐるのだ。

七月十六日(月)曇
けだるい思いで今朝も長靴をはき、傘をさげて峠を越す。宵の内から寝に就いたが、八時半から十時まで警報で起こされ、一時間位ひまどろんだと思ふと又二回目の警報で、十一時から一時過ぎ迄起こされた。
「もう一度警報が鳴ったら工廠は休まうと思った」と誰も云ふ。全くこれでは体が続かない。B29がこう迄御命傷をかえるとは夢にも思はなかった。

七月二十三日(月)晴
前略。丁度其の時若い鮮人の夫婦が歯痛の治療に来てゐたが、医師がとても冷淡で見てゐても気の毒でならなかった。今の日本にはこうした不徳がB29以上の危険性を有ってゐるのだ。

七月二十四日(火)晴
久々に早朝より警報が鳴る。まもなく空襲警報発令。情報によると多数の艦載機が行動してゐる様子である。思ふに先般来北海道方面より太平洋岸沿いに南下しつつ各地を荒らし廻ってゐる機動部隊が土佐沖にでも現れたものか。
主として在泊艦船を攻撃する目的と見へ民家に対しては投弾しない。今日は各所の高射砲が今迄になく的確に而も激烈に打ち上げられ、実に勇壮である。
夕方最後の空襲の場合は危うく機銃掃射をあびせられたが全員無事。朝六時から夕方の六時迄、空襲警報実に八回、警戒警報は遂ひに終日解除にならなかったのだから、心身共に疲れる。
家に帰っても恐らく夕食など出来ておるまいと思ったが、案外御馳走が出来てゐた。

七月二十五日(水)晴
今朝も払暁の四時には早くも警報が鳴る。宝徳寺の境内から見てゐると、仁方峠のあたりから低空で小型機数機が矢の様に侵入して来た。
空襲警報も発せられない内の奇襲である。人の噂では名田山の機銃陣地が爆破されたと云ってゐる。
今朝の新聞で見ると昨日来襲した敵機の数は二千機の多数に上ると報じてゐる。昨日も今日も終日仕事は出来なかった。恐らく西日本は尽く手を拱いて傍観したことであらう。

七月二十七日(金)晴
昨夜二十三時、空襲警報発令。中略。退避傍々裏の丘に登って見にた。遠い松山方面に照明弾や焼夷弾を投下しているらしく、まるで花火の様に綺麗である。
月が上った。今夜は十七夜の筈だ。戦争でなかったら未だ此の時間には大人も子供も皆起出して芸南遊園地の花火大会を見物してゐることだろう。
松山は大火災を起こしてゐるものの如く空一面が夕日の様に燃えてゐる。その炎上してゐる上へ繰返し繰返し投弾してゆくのだ。
これが軍人のなす行為か。まるで憎悪にもえた女か子供が半狂乱でやってゐるとしか思はれない。

七月二十八日(土)晴
横路峠を登り詰めると警報が鳴る。朝の警報は機動部隊からの小型機の来襲と思われるので急いで登庁。宝徳寺の山門をくぐると空襲警報発令。
又今日も終日仕事にならない。敵の目標は相変らず在泊船舶らしく一波二波と波状攻撃を続ける。呉に来襲したものだけでも七百機に上ると云ふ。
かくして吾等の郷土が砲声に明け砲声に暮れる第一線と化したのだ。吾等は其処で、年老いた母や幼い子供達を守りながら戦はねばならないのである。後略。

七月三十日(月)曇
平和な時代には年寄がよるべめない身を悲観して死んだとか、貧乏を苦にして何人心中を遂げたとか、病気を苦にして鉄道自殺を計ったとか云ふ風な話が巷間に絶えなかったものだが、此の頃とんとそうした自殺事件がなくなったのは如何なる訳か。
平和な時代以上に年寄は生活を脅かされ、貧しい者は衣食に不自由を感じ、病人は全快の見込みがなくなってゐる筈である。
にも拘らず年寄も病人も空襲となれば吾一勝に退避をあせるし、不自由な配給の粗食にあまんじて兎にも角にも行き抜かんとしてゐる。してみると自殺は我侭から生れるものか。

八月一日(水)晴
一ヶ月前の今夜呉市は敵弾で焼払はれたのだ。あれからの一ヶ月は本当に怯えた生活だった。結果から云えば、あんなに毎夜二度も三度も逃げ出さなくても何のことも起らなかった訳だが今尚ほそう云う気にはなれない。
一番いやなのは九時十時頃の寝入って間もない頃に警報が鳴ることだ。後略。

八月二日(木)晴
三人連れで広島市南観音町の旭兵器工場に行く。市中は疎開で戦場の様だ。五日迄に一万戸を倒すのだと云う。家屋を三分の一にするのだそうだから大変な騒ぎである。
中国第一の大都市でありながら、不思議に今日尚ほ敵機の来襲を見ないが却ってやられた街の者よりおびえている様だ。
話に依ると広島の疎開は単に防空上の疎開のみでなく遷都計画だとか、近く大本営が移されることになるのかも知れない。

八月六日(月)晴
朝八時頃敵機の爆音がしたが別に警報も鳴らなかった。暫らくするとピカッと稲妻の様な光がさした。
それから一分位ひ経った頃パッと大きな音がして耳にヅキンと圧力を感じた。先の爆音と思い合わせてスワ空襲だと云うので防空壕に走りつけると入口で皆が空を仰いでゐる。
見ると西北の空に入道雲の様な瓦斯体が渦巻いてゐる。広島方面に何事が起ったものと思われる。敵の新兵器の出現か火薬の爆発か、慾目に見て吾方の新兵器の実験か。
光と音の時間から見てかなり遠距離に起こった出来事と思われるが、何れにしても随分威力のあるものに違ひない。
八月七日(火)晴
広島の空襲は色々噂されてゐるが、何れも信じられない。独人の発明した新兵器だと云ふ者もあり、殺人光線だと云ふ者もある。何にせよ広島市内の建物は全部倒されてゐることは事実らしい。
夕方海田市方面から帰った者の話によると、被害者は外部に露出している皮膚面を尽く火傷してゐるそうで、やはり殺人光線に近い新兵器だと云ってゐる。
火薬庫も揮発油倉庫も無事だし、別に爆弾の落ちた跡もないと云ふから空中で炸裂するものらしい。而し吾々はあく迄火薬庫の爆発と考へたい。

八月八日(水)晴
広島の爆弾はまさか新兵器ではあるまいと思ったが、やはり恐るべき新型爆弾である旨、大本営から発表された。
それが原子爆弾であるか、水素爆弾であるかは別として、一瞬の間に広島全市を壊滅せしめ光線に当たった者を尽くに強烈な火傷を与えたことは事実である。
あの時空中に現れた瓦斯体からして水素爆弾ではないかと思われるが、それが単に爆風のみでなく、光線に依て人員の殺傷も可能ならしめると云ふのだから、国民の防火知識を一変せねばならなくなるであらう。

八月九日(木)晴。前略。
帰途空襲に入ったので横路迄急ぎ帰って隣保班の横穴壕に退避していると防空群長が、日本とソ連が交戦状態に入ったと云ふ。
全くの寝耳に水である。夕方本廠筋からの情報でそれがやはり事実であることを知る。今日ソ連が日本の滅亡を希っていると考える者は恐らくゐなかったであらう。

八月十日(金)晴
帰途路上で新聞配達の女の人が通り人に取り込まれて無理やりに新聞を売らされゐる。私も一枚買った。
中国新聞は未だ発行出来ないと見えて八日の大毎だ。女も子供も年寄も道ゆく人はみな新聞をむさぼる様に読んでゐる。街の人達が如何に大きな不安を抱いてゐるかが伺はれる。
中でも第一の大都市広島がやられてからはまるで心臓が停止した様に一切の情報が入らなくなったのだから、市民は徒らにデマに惑わされて既に死んだもののように気力を失ってゐる。

八月十一日(土)晴
今日始めて九日の中国新聞が配達された。それに依ると先日の新型爆弾を更に長崎へ使用してゐる。而し今度は広島程被害はなかったらしく、色々正体をつかめれば余りを恐れる程のものでもないらしい。
これ迄目標になることを恐れて白衣の使用を禁じられてゐたが、此の度の光線が現はれてから俄に白でなくてはならないことになった。
ソ連との交戦も吾々が胸を痛める程度大事ではないらしく新聞は極めて冷静である。聞く所に依ると既に浦塩は占領した模様である。ソ連が米英と共同戦線を張るつもりか、東亜の利害を考慮して独自の立場で挑戦したか明らかではないが恐らく後者ではあるまいか。

八月十二日(日)晴
今更死んだ子供の年を数える必要はないが、ソ連は実に卑劣極まる奴だと思ふ。盟邦ドイツの滅亡をまのあたり眺めながら不可侵条約を守り通し、噂によれば苦しい食糧難にあえぎつゝ尚ほ多量の満州大豆を貢いだとも云はれている。
日本人であれば男と見込んで頼まれたからは、仮令自分の身を犠牲にしても、相手を救ふのが人情であるが、彼等にはそうした義理人情のわきまえはないものか。真に一億玉砕の秋は来た。

八月十三日(月)晴
ソ連は早くも北鮮に侵入、満州方面も満州里より中央突破の態勢に見受けられる。然るに皇軍は何等為す所なく之を傍観してゐるかの感あるは何事ぞ。
陸相は断固撃壌の意思を明らかにされたが、未だ対ソ宣戦の布告はない。あく迄ソ連の袖にすがるつもりか。何かの外交手段が打たれているものか。国民は日毎に暗い影に襲はれてゆく。

八月十四日(火)晴
今日から三日間岩国へ滞在することになったので四時五八分の一番列車で発つつもりで暗い間から駅に出向いたが、あいにく其の列車は運転休止。余儀なく六時三八分発でゆく。
此の客車は何処かで機銃掃射を受けたと見えて天井の方々に穴があいてゐる。岩国駅に着くと間もなく警戒警報が鳴る。藤生に降りると空襲警報。兎に角工場まで強行突破するつもりで足を早める。
途中早くも敵機の編隊爆音が頭上に迫ったので、あわてて農家の軒に身をひそめる。敵は岩国駅か帝人あたりと思われる地点に物凄い投弾をなす。

八月十五日(水)晴
昨日の空襲は岩国駅を中心に帝人町を盲爆した模様である。私達と一緒に来た設計の女工員が駅に降りてバスを待っていたらしいが三人死んで終った。
朝の涼しい間にトンネル工場を歩いていると、本日正午重大発表があるという噂を聞く。昼食後、退避壕を掘っていると設計のI中尉が呼ぶ。
「只今畏くも詔勅が渙発されました。帝国は遂に米英支ソ四カ国に対し、ポツダム宣言を承認する旨の通告を発し相互に攻撃を休止するということになったのです。此の上はお互いに軽挙妄動を慎み大御心にそひたてまつらねばなりません。」私は急いでF大尉を訪ふ。

八月十六日(木)晴
どうせ大竹迄歩いて帰らねばならないのなら朝の涼しい間に歩こうと思って七時過ぎ竹薮の工研を出発。
岩国駅付近は去る十四日の爆撃で目も当てられの惨状である。市役所前には泥にまみれた死体が沢山並べられてある。
途中、中里駅まで帰ると云ふ五十がらみの女の人と一緒になる。
「家を焼かれたのは問題ではありません。覚悟の上ですから。それに一夜明ければ休戦だと云ふのでしょう。こんな情けないことがありますか、私は断じて戦ひます。
戦争を止めたいものはやめるがいい。そして続けたいものだけが戦ってゆけばいゝのです。」日本国民はなんという恐ろしい国民であろう。

八月十七日(金)晴
午前中は家で寝ていたが、どうも工場の様子が気に掛るので、一時頃から出かけて行った。三時から高等官以上の会議が開かれ、愈々各工場の処理案が決定したらしい。
「皆泣いたよ」と前置きして、Y中尉は会議の様子を我々宿直の者に語ってくれた。
「吾々が未だ戦えるとか、戦えないのとか云ふべきではないとつくづく思った。今日も月光が吾空軍断じて戦ふ」と云ふビラをまいたそうだが、そんなことをしたのでは大御心を悩ますばかりである。
かくなる迄の断は聖上御一人の御信念によって下されたもので、吾々国民は只御示しになった方向へ進んでゆくべきである」何も語らず五日の月を仰ぎつゝ寝る。

八月十八日(土)晴
本日を以って工研を解散することになった。今迄永い間掛って作った一切の図面や重要書類を尽く焼却した。
学徒や挺身隊は一両日中に帰郷する筈であり、増加徴用の人達も今月末迄には解除になる様子である。
今日各自の身の振り方を色々訊した所殆んど帰郷し農業に従事すると云ふ。巷間には色々デマが盛んで気の弱い人は既に逃支度をしてゐる様だ。

八月十九日(日)晴
手持の器具や消耗品は、全部必要な向きへ貸与することになった。皆無に帰って再出発を始めるのだ。自分の抱負に向かって邁進するのは今である。
而し今各自の自由意思に依って就職させるのは一時的のことで、間もなく徴用制度が設けられるものと思う。でなければ現物賠償に応じることが不可能である。
いよいよ挺身隊や学徒は今日限り引揚げることになった。去る者、止まる者、各々自分のノートに寄せ書きを認め合っている。敗戦の国家は戦後が一番危険である。殊に日本国民の様な性格では自ら破滅を招く恐れがある。
「今は只みことかしこみ大きみのへにこそ生きめかへり見はせじ」私は皆のノートにそう書いた。

八月二十日(月)晴
「又昔の名田に帰れるかもしれない」こう云ふ事態になって先ず第一に考えさせられることは、そうしたあわい願であった。意味から云へば故郷を失った吾々である。
寂しい不自由な数ヶ月を唯「勝つ為」と云ふ一つの願ひに、燃えて戦ひ抜いたのであるが、そうした願ひがたたきこわされた今となっては急にたまらなく昔が恋しくなって来た。
既に海軍当局の人もそうした意向をもらしたそうだから、もうそれは単なるあわい願ひではなくなった。而し私にはそれさへも暗い将来を思はされる。

八月二十一日(火)晴
連合軍の上陸で色々デマが飛び、婦女子の疎開が急がれてゐる。支那で戦った兵隊達が自分の影におびえてゐるのである。
鬼畜米英と怒髪天を衝く思ひをしたのも昨日のこと。何時迄もくだらぬ思いに身のたしなみを忘れること。どちらか恥ずかしい心をしているのかわからなくなる。お互い腫物に触る様な思いで進駐の日を数えてゐる。

八月二十二日(水)晴
今日限り宝徳寺を引払って何分の命ある迄自宅で静養することに定められた。私は製図道具一揃ひと、机を一組頂いた。何だか破産宣告を受けた人の競売品を手に入れた時の様な寂しさだ。
工長と二人で重い車をひいて帰っていると、海軍技手の正装した人が重そうな風呂敷包を負って一升瓶を二本持っていたが、吾々の車へ便乗を請ふ。
呉廠の技手で今日解散に当り、油を二升貰ったのだと云ってゐる。これから裸一貫農具の製造を始めやうと思ふと其の人は語る。
美しい月が出た。同じ様に暇を貰った三人が一つの車にそれぞれの荷を積んで別々の将来を考へてゐる。

八月二十六日(日)曇
昨日午後、B29十三機低空でゆるく東に飛んでいった。今日は神奈川県と鹿児島県へ先進部隊が飛行機で降下することになってゐる。
有史以来、外敵に皇土を侵されるは始めてである。昨夜はそれを悲しむかの如く激しい風雨が起こった。其の風雨の中を工員養成所の庭に延々列を為して貯金の払戻しを受けた。
今日午後一時からと云ふことだったが、早くも二十四日あたりから貰った者もあると聞き、散歩傍々出向いて行ったが、折悪しく風雨に襲はれ二時間余りも立ちつくして、ようやく貰うことが出来た。
独り預金七百円のみ。明日は給料三ヶ月を渡すと云ってゐた。退職金は据置き貯金でくれるらしい。

八月二十七日(月)曇時々雨
当局のはっきりした指示がないので、夫々勝手な解釈をして色々気をもんでゐるが、如何に負けたとは云へ、あれ限りだらしなく解散になろうものとは思はれない。
退職金も「くれないらしい」と語り伝へてゐるが、そんなことはないと思ふ。ともあれ、此の度の軍需工場関係のろうばい振りは余りにあさましいありさまだった
機械、器具、材料、あらゆる消耗品の分配でも上層部からして吾一勝だった。僅か数年の勤務で自動車を貰った者もあり、二十年も三十年も務めて僅か数本の鉛筆と数帳の紙片でお払い箱の人もある。
これ迄整列だ敬礼だとくだらぬいばりをきかしていた上官なるものは何処に隠れて何を考へてゐるのか。国破れて国民尽く盗賊となるつもりか。

八月二十八日(火)曇後晴
早朝からB29が飛ぶ。ロッキードも飛行艇も終日吾等の上を飛ぶ。もう日の丸の飛行機を見ることはあるまい。
「敵だ、敵だ」と子供達が叫ぶ。「にくったらしい」とおかみさん連中もつぶやいてゐる。吾々は心からそんな気持ちを捨てねばならないのだ。そう思ひながらも子供達の言葉をとがめたくない。

九月五日(水)曇後晴
「今に食べられなくなる」現在国民が一番深刻に考へている問題はこれだ。政府は国民のこの不安を一掃しない限り、インフレ防止も道義の確立も望まれない。
金は幾ら要っても今の間に食料を買い込んでおかねば、間もなく金の値打ちがなくなって、千円や二千円持ってゐたって何の用にも立たなくなる。ドイツの不安其のままを日本に取入れておびへてゐるのではあるまいか。
戦争一本に力を尽くせば世界を相手によく善戦する日本だ。農一本に力を尽くせば如何で飢餓に見舞はれることがあろう。

九月六日(木)晴
現員徴用を新規工員にして引続き勤務を希望する者は、本日八時迄に弁当持参出頭すべしという書出があったので、話がはっきりしたことと思って出勤したが一向にはっきりしてゐない。
朝とは云へ太陽は焼付つける程いたい。其の痛い陽光に焼かれながら、廠長の訓示をいきどうらしく聞く。
敗戦の因は工員が働かなかったらからだと云ひ、無学だったからだと云ふ。工員の出勤を止めたのは、食糧事情にもよるが皆が物を持出すからだとも云ふ。
吾に云はせば工員を働かさなかったのが悪いのだ。人心をしてうまざらしめんことを要すべきは、明治維新丈の要求ではない。
無学だから道義心がないと云ふ。此の度の官品持出しは最高の教育を受けた上官が垂範したのではなかったか。
廠長は汗だくで長弁をふるったが誰一人心を傾けるものはゐなかったであろう。

九月七日(金)晴
昨日の新聞に進駐軍の暴行件数六、不法行為三十八と報ぜられ、それに対する当局の注意事項が発表された。
先般来新聞で頻りに進駐軍の信義性を書き立てるので、国民も当初の不安を一掃し、田舎へ避難した人達も次第に帰宅してゐる状態だが、これで又動揺の色を見せてゐるものがある。
昔比叡山で青年学徒が修道にいそしんでゐてさえも、其の中のある者は麓の娘に悪戯して山を追われるものが多かったと聞く。
ましてや相手は勝ち誇って進駐している部隊である。それ位ひのことは当然である。

九月十日(月)晴
お互いの生活が次第に切り下げられて見へも体裁ももなくなり食ひさえすればいい状態になると、勤めに出て千金を頂くよりも土にまみれて一升の米一貫の芋を手に入れた方が賢こい。
此処数年、少なくともは吾国が独立国家として認められる迄はそうした生活をしなければならないのではあるまいか。
金は只政府と国民の間に丈通用する。配給物を受ける時、納税の時、汽車や汽船を利用する時。そんなこと以外に金を使う時がない。今日既にそうした生活が始まってゐるのである。暫らくの間冬眠だ。

九月十一日(火)晴
味噌も醤油も塩も一切の調味料が失くなった。海水をたいて食塩を作らねばどうにもならない。中略。
日本は今一切をご破算にして零から始めるのである。各人の力、技、知恵の凡てを出惜しみせず、真の人間の優位を測る時である。政治、経済、思想、教育凡てが一大転換だ。うっかりしてゐると取残されて終ふ。

九月十七日(月)強雨。前略。
新聞には毎日の様に大官の自刃が報じられる。東条大将は其の後次第に回復して一命は取止めるらしいが最後迄汚名をさらすことではある。
自刃を企てヽ「俺が全責任を負う」と云ってゐるのも矛盾してゐる。戦争犯罪人として自分一人が罪を負うと云ふ意味ではなかったのか。それなら堂々と法廷に立つべきだ。

九月二十四日(月)晴
九時から工員養成所で、共済組合の脱退一時金を貰ふ。千八百円だが一年間の据置貯金になっている。後略。

九月二十五日(火)晴
進駐軍の上陸予定の本体一万九千名は十月三日に延期された。後略。

九月二十六日(水)鈍晴
報国団と警察署の肝煎りで進駐軍の為にバザーを開催することになり、各戸から一品以上連合軍の為に記念品を贈ることになったが、いざ品を出すとなると皆尻込みする。家に来て貰ひ度くあるまいし、物は出し度くないのである。
何れの国の人間でも人の誠意の解らぬ筈はない。各自が誠意ある出品をすれば先方でも家庭の侵入を遠慮するであろうが、配品回収の様な気持ちで出品すれば自ら禍ひを招かねばならない。

九月三十日(日)晴
愈々進駐軍の宿舎が決定して清掃に忙しい。今日は私の班からも三名の奉仕者が出て工員養成所の整理に当ることになった。後略。

十月二日(火)晴
前略。今日進駐軍の先遣隊一千名が既に航空隊跡へ上陸していると云はれる。町内会の方々に進駐軍が家庭訪問して物品を強要した場合に先方へ指示するように英語のプリントが回覧されたが、各家庭に一枚宛なければ不便だから十数枚書いて配布した。
これからは独学でもいいから英語を勉強し、日々の変化してゆく時代の流れに取残されぬ様努めねばならぬ。

十月三日(水)雨
大広方面の人は進駐軍を怖れて食料や貴重品類を山の倉庫に隠匿している人が多いが、最近その隠匿してある食糧が何者かに尽く盗まれてゐることが判ったらしい。
広にだけでも一万人進駐して来るのである。如何なる手段で彼らを避けようとするか。中略、それよりも門戸を開いて彼等との友誼を計り文化の息吹に触れるべきである。

十月五日(金)晴れたり曇ったり
言論の自由がやかましくなってラジオの漫才に迄頻りにそれが云はれる。新聞も非常に活発になって来た。
あれを聞かされこれを聞かされすればする程、だまをされていたことが国民の間にはっきりして来て、最近迄日本の戦争犯罪人こそ真の忠臣であると尊敬の念を払てゐたが、
今なって見るとそれ等の人は本当に国を滅ぼした犯罪者であり、其の罪死に値するものであることを痛感する。これらの人は今日では日本人の口から真の犯罪人と呼ばれていることも事実である。
今日東久邇宮内閣は遂ひに総辞職した。物の分った様なことを云ひながら、一から十迄マッカーサー司令部から教へられ、日米何れか、日本国民の味方か分からなくなって遂に投げだしたのである。

十月九日火曜日、雨
雨にぬれながらアメリカ兵が家々を訪れて煙草やチョコレートを売って歩く。近所に賭博屋がゐて頻りにそうしたものを買うので近所の子供たちが次々に親にねだってチョコレートやチュウインガムを口にする。後略。

十月十日(水)雨強風
前略。幹事会は進駐軍のための労務要員提供についての相談であった。これこれからの労務は進駐軍用としてのものが第一である。
何はさておいても彼等の要求を満たさねばならないのである。仕事は雑用で何を命ぜられるか分らないが働いたものには米四合の特配に日当も相当出るらしいので中には喜んで働く人もあるのぢゃないかと見られてゐる。

十月十一日(木)晴
進駐軍が要求してる労務要員の中には常傭のものもある。仕事に依っては住込みのものもある様だ。これ等常傭労務者は凡て三食付きとあるからこれ丈でつり込まれる。
給仕は衣服を与えられ相当の教育も授けられるそうだから十六七歳の青年は中学へゆくよりも出世の近道になるかも知れない。後略。

十月二十日(土)曇後雨
大蔵大臣が此のままの状態が続けば来年は一千万人の餓死者を見るであろうと云ふ。そうしたゆゆしき問題を聞かされながら、まだ現実の安生に慣れて自分丈はその一千万人の仲間に加はらないものと人事に考えてゐる。中略。
吾等が生きる道は自力更生あるのみである。自ら耕し自ら作るより外道はない。開墾は容易のことでないの、耕作地が遠いのと、贅沢なことを云っていたのでは結局一千万人の仲間入りだ。

十月二十三日(火)曇
此の度市役所から、吾々戦災者へ有難い見舞金を頂いた。家財道具を失った者へ五百円、家族の死亡した者へ五百円、自分の家を失った者へ一千円。
私も家財道具失った仲間で、で五百円頂いたのである。二度も戦災にあって大変なことではあったが、立ち退き料の七百円と合わせて一千二百円を頂いたのだから有難い話である。後略。

十二月十四日(金)晴
塩たきをしてゐると歳の頃五十路を二つ三つ過ぎたかと思はれるきれいな婦人が、工廠の残務整理は何処かと訊ねられる。
私が色々親切に教えて上げるものだから、その婦人も身の上話をしてくれた。子供さんが工廠へ徴用で来ていたが五月五日の爆撃で死に、寮の舎監から其の由一通の葉書を頂いたのみで、遺骨も帰らねばビタ一文お金を頂いてゐないと言ふのだからひどい。
終戦のドサクサで随分出鱈目な整理がなされてゐるのであらう。自分の大切な子供を亡くした上に黙っておればそれが闇から闇に葬られるのだから冷酷である。
敗戦犯罪者を徹底的に国民の前へ引据へてやり度いものだ。


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