呉工廠の空襲と呉市街の焼夷弾空襲に遭遇して

                                  藤久常夫

 私は昭和13年3月、当地甲奴小学校高等科を卒業し、呉海軍工廠製鋼部見習工に採用され、海軍工作科予備補習生、工員養成所補習科を卒業し、製鋼部鋳造工場木型工場に終戦まで勤務していました。
 昭和20年になってから、呉も度々B29の空襲を受けましたが、私がよく覚えているのは、3月19日の初空襲と6月22日の呉工廠造兵方面の大爆撃、7月1日深夜の呉市街の焼夷弾空襲、7月24,28日の軍港内残存軍艦の米軍艦載機による一斉爆撃です。
その内私が本当に九死に一生と言うか、もうだめかと思いながら助かったのは、工廠の大爆撃と焼夷弾攻撃です。
 6月22日、時間はよく覚えていませんが、B29の爆撃機が延べ百機以上が波上攻撃してきて、1t爆弾を雨霰のように製鋼部・砲熕部を中心に落としました。
木型工場は海岸ばたより離れて山よりにありましたので防空壕は横穴式でした。
空襲警報が鳴り、ただちに避難し、私は最後の方だったので、入り口の鉄の扉を閉めたのですが、閉めるか閉めないうちに爆撃が始まり、
第一発目の至近弾で鉄の扉の蝶番が吹き飛んでしまい、ドカン、バリバリ、ズシンと音や爆風、地響きが直接体に伝わり、それは想像することが出来ないほど物凄いもので、口では表すことが出来ない、本当に生きた気持ちはしませんでした。
 どの位続いたのか分かりませんが、第一波、第二波と次から次と爆撃してくるので、防空壕の入り口に爆弾が落ちればもう駄目だなと思いました。
 私たちの工場には、竹原高等女学校の生徒が5,6人、三次地方から三次技芸女学校卒業生中心の女子挺身隊5,6人の女の子が動員されて来ていましたが、それらは爆弾が落ちる度に、キャーと悲鳴を上げ泣いていました。
 男であり海兵団で軍隊教育を受けた私でも物凄い恐怖感を持ったので、15、6の女の子では無理もないと思いました。
 爆撃がすんで空襲警報解除となり外に出て見ると、それはもう無茶苦茶で、以前は私達の工場から海岸線は見えないくらい工場が建っていたのですが、
海岸線が見える位工場群が壊れており、爆撃の凄まじさをつくづく感じ、身震いしました。
 私は工場長より伝令を申し付けられていました。電話が不通になったので、木型工場は人員、建物とも被害がなかったことを製鋼部の本部へ報告に行けと命じられました。
 全然地形も変わって居ましたので、何処をどう行ったかは覚えて居ませんが、途中で養成所時代の友達に遭い、この下に地下壕があり女子挺身隊2,30人が生き埋めになっているのだと言う所に出会いました。今だにこのことは脳裏から離れません。
 当時私は、呉市本通11丁目の電車通りより山側に入って少しだらだら坂になった所に、義兄(姉の夫の弟で海軍士官)夫婦が乳飲み子をひとり連れて借りていた借家の一室に、間借りをしていました。
 工場の爆撃より約一週間後の7月1日深夜、空襲警報が鳴った。当時は殆ど毎晩の事なので私はなかなか起きませんでした。
 義兄は軍艦に泊まりの日で、義姉は子供を背負ってすでに退避の格好で、私がなかなか起きないので「常夫さん空襲ですよ」と私を起こし、防空壕へ走って行かれました。
 私は慌てて飛び起き、服を着替え、外に出ましたが、もうその時は飛行機の音が真上でしていました。私は必死になって防空壕へ走っていく。
 周りにどんどん焼夷弾が落ちて破裂し、火のついた油のような塊が四方に飛び散り、戸袋や雨戸にペタッとひっつきポロポロと燃え出す。
 もうそこらじゅういっぱいだから消すこともどうする事もできません。そして今にも私の上に焼夷弾が落ちるような気がする。私は必死になって走っていく。
 ようやく防空壕へ着いた。着いて見ると防空壕は満員で中に入れない人がいっぱい居ました。
 そして飛行機が私達の上を低空飛行でグワーンと通って焼夷弾をバババーンと落とす。すると外の人はワーッと中に押し入る。今度は中からワーッと押し出される。
 防空壕は住宅地のちょっとした小高い丘の下に掘ってあったので回りは全部家が建って居り、入り口をほんの2,3戸、建物疎開をしてあるだけだった。
 私は最後の方で防空壕へ入れそうになく、外に居て周りが焼けたら助からないと思い、本通り九丁目の疎開の跡に逃げようと思いました。
 もう周りはどんどん燃えていく。借家が密集している地域なので道が狭い。どの道も両側が燃えており、物凄く火を吹いていて通れそうにない。
 なんとかして電車通りまで出られないかウロウロして見るばかり。女、子供が泣きながら後を付いて来る。
 そうこうするうち一ヵ所、両側から火を吹いているがよく見ると、その向こうが暗く見える所があった。何とか火をかいくぐって電車通りまで出られそうだ。
 私はもう一人の若い人と顔を見合わせ、阿吽の呼吸で必死になって火をくぐった。二人だったから潜られたのかもしれない。
 私たちは電車通りまで出た。しかしもう火は全体に回り、9丁目のほうは二階建ての二階が道路へ焼け落ちている所があり、とても行かれそうにない。
 この辺はまだ燃え上がったばかりだが全体はもう火の海だ。もう逃げる所がない。道路の真ん中に居ても両方が燃えているので物凄く熱い。
 両方が二階まで燃え上がったらとても生きては居れないだろう。もう駄目だ。覚悟を決めた。そして道路の真ん中を歩いていた。
 まだ時どき飛行機が来て爆弾を落とす。今度は、自分の上に落ちるか、今度は落ちるかと思いながら歩いていた。不思議とその時、恐怖感を覚えた記憶がない。
と、その時ひょっと見ると、ずーっと向こうまで暗く見える道路があった。此処が何処で、この向こうに何があるか考える暇はない。とっさにその道に走った。必死に走った。
 後を追うように焼夷弾が落ちてくる。今まであまりなかった恐怖感が急に襲う。必死で走った。どの位走ったか分からない。
 橋に出た。川に飛び降りた。溝だったかもしれない。水はなかった。橋の下に入った。ようやく助かるかもしれないと思った。助かったとは思わなかった。
 それは頭の上は楽になったが、橋だから両側が開いている。此処に焼夷弾が落ちれば助からない。体をそばの石垣にピタッと付けていた。
 どの位経ったか飛行機の音がしなくなったので、ようやく助かったと思った。
 橋から出て見ると、さっき走ってきた道路の両側の家も全部火の手が上がり、どんどん燃えていた。
 又橋の下に入り、夜が明けるまでそこにいた。そして戦争の現実をつくづく考えていたように思います。
 夜が明けて全てが燃えつくし、川土手に上がってみるとあの大きかった呉の街の平野部はポツン、ポツンとコンクリート造りの建物が建っているだけで、ずーと向こうの海兵弾の建物まで見えていた。
 まったく初めて見る光景、本当に戦争の現実をつくづく感じました。
 私は借家や義姉の事が気になり、そこへ行ってみようと思った。まだ道路には建物の燃えかすがいっぱいで歩かれる状態ではないが、火のついた木をよけながら飛び飛び走って行った。
 行く道では、逃げ遅れたのであろう丸焼けで黒焦げになった人、殆ど焼けてまだ動いている人、死んだわが子をしっかり抱いて自分も焼けながら泣いている人、大声で名前を呼んでいる人、床下に掘った自家製地下壕から半分身を出してそのまま焼け死んでいる人、等あちこちにいっぱい居ました。
 私は殆ど焼けて目だけギョロギョロしている人と目が合った。一瞬血の気が引いた。ミズでもくれと言おうとしているのか。むごい。身の毛がよだつとはこのことか。正に生き地獄、しかしどうする事も出来ない。
 借家付近は全部焼けて灰の山。私は義姉を探して防空壕へ走った。防空壕へ行って見ると、防空壕へ入れなかった人であろうか、外で焼け死んでおり、中の人は窒息死か圧死で、海軍軍人が一人ずつ担架に乗せて出して並べて居た。何処にも義姉の姿はない。
 しばらくして義兄が軍艦から上陸してこられ一緒に探した。そして防空壕から出てくる死体をいちいち見ていたが、なかなか出てこない。
 他を探して見ようと山よせの方へ行って見た。防空壕の上には寺があったらしく墓地があった。墓の陰には一人、二人どの墓にも人が焼け死んでいた。
 防空壕へ入れない人が、此処まで逃げて墓地まで逃げ込んだか、はじめから墓地へ逃げていたのか知れないが、墓で周りの焼ける熱さを避けながら、その内全体が焼け、ついに行く所が無く焼け死んだのであろう。死体に墓の影がくっきり付いて居た。
 私はもうその頃は感覚が麻痺して特別の感情は無く、義姉は居ないか一人一人死体を見て歩いた。しかし何処にも居なかった
 義兄とあちこち探したが何処にも見つからず、前に書いたような、生き地獄が各所で見られた。また防空壕の所へ戻って見た。殆ど最後の方に子供を背負ったまま出してあった。
 苦しかったであろう、顔は紫色だった。義兄は黙って見ていた。なんと酷いことか。
7月2日、陽もようやく傾きかけた。その夜私はどこで寝たか今では全然思い出せない。おそらく義兄の友達の処へ義兄が頼んでくれたのであろう。
 食事は国防婦人会が炊き出しをしていたのを覚えているので、その世話になったのだろう。義兄は軍艦へ帰った。
 7月3日、午前中工廠へ出勤し、休暇の手続きをして、午後また防空壕のところへ行って見た。義兄は軍艦から灯油や遺骨箱を工面して帰っておられた。
 市役所から調査をするので死体の始末は待てと通達があった。しかし夕方になると死体にウジがわきだしたので、これ以上待たれないと、燃え残りの木を集め、灯油をかけてその上に死体をおき、また木をかけて灯油をかけ、焼け残りのトタンを拾ってきて上にかけ火葬にしました。
 7月4日朝、火葬をした所へ行ってみると、きれいなお骨になっていました。しかしまだ手付かずの死体があちこちにいっぱいあり、ウジがわき、焼け跡の匂いと死体の匂いで、なんともいえない異臭が漂っていました。
 8月6日、原爆を米軍は広島に落とした。
 人類最初の核爆弾による広島の被害、今まで考えた事のないような想像の出来ない甚大な被害、そのあまりの悲惨さに日本はおろか世界中が驚き、
 その陰にかくれて、日本中の主要都市の焼夷弾空襲の悲惨さは影が薄くなり、今まであまり語り継がれていないような気がします。
 日本の木造家屋を焼失するため特別開発されたのであろう焼夷弾によって、大きな都市が一夜にして灰になるのも、悲惨この上ないものです。
 今でも地球上では戦争が行われています。戦争がどんなに悲惨なものであるか、私達経験者は後世に伝える義務があると思い、この稿を投稿させていただきます。




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