「呉海軍工廠砲熕部の空襲」
村上久夫
勤務場所は砲熕部砲身工場です。米軍の空爆で工場はめちゃくちゃになりました。
防空壕に入って居ましたので、命だけは助かりました。
当時、島根から女学生が挺身隊として工場に来ていましたが、防空壕に入っていたのですが、入り口をつぶされ、
壕の中で窒息状態で可哀相にほとんどの人が死にました。
山の中腹辺りの学校の校庭まで、タンかで運んで火葬をしたことは、この年まで忘れられません。
本当に可哀相でした。
私は元の砲身工場では仕事が出来ない状態でしたので、岡山の庭瀬とか言う所へ機材
(フライス盤・ミーリング)を送って、そこで仕事をして居ましたが、2ヶ月くらいで終戦となりました。
今は平和な世の中で何よりですね。戦時中、苦労をしたことを思い出しながらの毎日です。
二度と戦争なんかするものではないですね。
2004/09/22.
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