「防空壕の思い出」

                             岡崎和子

 「軍が来て、立派な防空壕だ。これなら大丈夫」と、汗水流して、勤労奉仕に出て掘った壕。褒めてもらったと、母が嬉しそうに話していた。
その壕の中で、父、弟、沢山の人が亡くなるとは。
 七月一日、あの空襲の日、母だけが知っている壕へと、父、弟、妹、私の五人。照明弾が落ち、パッと明るい中を一生懸命走りました。
 電車通りを横切って、法華寺の下とか? 母の後に続いて中に入り、一安心と沢山の人が胸をなで下ろし、名前を呼びあっていました。
 暫くすると話声もなくなり、水を欲しがる人に、母はバケツの水にタオルを濡らして、次から次へと。口にあてていました。
 母が家を出る時、バケツを持って出たなんて知りませんでした。後から聞いたのですが、あのバケツは、ペシャンコになったそうです。
 入り口の方から煙が入ってきたらしく、「低くなれ、低くなれ」と誰かが叫びました。 少しずつ押されて進む中、倒れる人、「しっかり」と抱き起こしながら、だんだん力が抜けていくようでした。
 家を出る時から、しっかり手をつないでいた弟が、「水、水」と言いました。どうすることも出来ません。壕の中は暗くて、また弟が、「水、お姉ちゃん、つばでもいいけ」と口が痛くなる程・・・・・・
 少し元気出たのか「母さんとこへ行く、母さん」。呼びとめる元気もなく、私は手を離しました。中学1年生の弟は私の前から消えて行きました。
 素足に倒れた人の上を歩いていたように感じました。どのくらい時間が経ったのか、男の声で、「名前、年令、住所、言いなさい」手を引っ張ってもらったようです。
「水をください」「それ以上飲んだらいけん」。滴があたったくらいだったのに・・・ どのくらい時間が経ったのか、立ち上がり歩くと、目の前が明るくなり壕の出口に、外でした。
 暑い朝でした。左の方にたくさん壕で亡くなった人の山がありました。
 妹に出会い、人工呼吸をしてもらっていた母にも会えました。「お母さんか、もう大丈夫だ」と、男の人が言いました。
 仮死状態だったそうです。母の胸からしばらくの間、手の痕が消えませんでした。 本通小学校でカンパンをいただききました。校庭には真っ黒くなった人が幾体もありました。
 父、弟が、どこかで生きていると信じ、収容所に足を運びました。山手の方の知人の家に行っても居りませんでした。(我が家に何かあった時、決められていた家)
 やっと死亡確認されました。一週間以内は乗車賃は無料でした。手荷物一ヶを疎開先に届けて、小三の弟が疎開していた母の里に行きました。
 遺骨を取りに来るよう通知をいただき、母と呉に行き、沢山並べられている遺骨を見ました。
 蔵本通りに住み、建物疎開でちょうど田舎に疎開される本通の家を買い、畳などをやり替え、一年余りたった後の空襲でした。
 当時、兄は東京の大学、妹は女学生、弟は三年生で疎開。私は十八歳でした。
 母は九十二歳まで頑張りましたが、呉には行きませんでした。私と妹は呉に行くことがありましたけど、呉を訪ねることも、行きたいとも思いません。
 父と弟の五十回忌、母の三回忌を父の里・豊栄で、私達四人が法要しました時、兄の家族は、壕の跡を訪ね、線香を手向けて帰っていきましたが……
 あの時、母に人工呼吸をして助けてくださった方、壕から助け出してくださった方、避難先のおじさん、おばさん、皆さん、呉を離れる時、手荷物に行き先を書いてくれた税務署の給仕さん。大変ありがとう。沢山たくさんお礼申します。
 この場をお借りいたして、胸の中がすっきりしたようです。
 六十周年の七月一日には壕の跡を訪ねて、思いっきり、父と弟の名前を呼んでみたいと思っています。


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