「合祀取り消し訴訟」

 「合祀取り消し訴訟」

    意見陳述

                          原告 菅原龍憲

 私は浄土真宗の僧侶であり、先のアジア・太平洋戦争の戦役者遺族です。
20年来、私は靖国神社に赴き、敷皮にわたって戦役者である父・菅原龍音の名前を靖国神社の宮里簿より削除されるよう要請してきました。
それは私自身の宗教的信念に基づくものでありますが、神社側はこの間、私の要請を一切拒絶し続けてきました。
 ここに至って、私は靖国神社と、合祀に深く関与した国に対して、「合祀取り消し」の訴訟を提訴する決意をいたしました。
すでに靖国神社と国家の癒着は明白であり、そのように国家を後ろ盾に、なお生き続けている靖国神社が、
遺族の意思を無視して祀り続けている戦役者合祀は、もはや耐え難く、法的においても遺族としての人権を深く侵害するものであると確信し、提訴に踏み切りました。
 このような訴訟は遺族としてさまざまな重圧を被りますが、遺族として私たちが最後の世代となります。
国家の恣意によって悲惨な犠牲を強いられ、今なお低め続けられている戦役者の「いのち」の尊厳を回復していくことは、私たち遺族が担うべき責任であると考えました。
 しかし一方で、同じ遺族でありながらも、戦役者を国家が称えるという行為を積極的に受け入れている遺族がいることも現実であります。
 国家によって不条理な死を強いられたのが戦役者の実態でありますが、国家は靖国神社への合祀によって戦役者を「英霊」として褒め称え、
感謝することで、行き場を失った遺族の怒りや悲しみを吸収し、遺族の被害意識を「お国のために役立った犠牲者」とすり替えていきました。
 1985年8月15目、当時の中曽根首相が多くの閣僚たちを引き連れて、靖国神社公式参拝を行った時、神社の境内で拍手と歓声をもって彼らを迎え入れた遺族たちの姿が忘れられません。
その光景は同じ遺族である私にとって、とても切ない悲しい光景として今なお胸に焼きついております。
 このような倒錯した構造をつくり続け、その残忍さを感じさせないところに、靖国思想の本質のようなものを感じます。
 私が父の合祀の取り下げを靖国神社に要請するたびに「靖国神社にも祀る自由がある」(神野藤権宮司)と、神社側はそれを拒絶する理由にしてきましたが、
「祀る自由」とは、あくまで公権力の宗教介入を許さないという宗教の自由権をいったものではないでしょうか。
そのことは宗教が個人の内面の尊厳を根底から支えるものとして位置づけられているからでありましょう。
信教の自由は何よりも個人の選択が重要視されねばなりません。「祀られたくない」という遺族の意思を一切無視して、神社側が「祀る自由」を主張することは、論理においてもすでに破綻しているといわねばなりません。
 1988年6月1目、「自衛官合祀拒否訴訟」において、最高裁大法廷判決は、信教の自由が何人にも保障されている規定を一般化し、
原告の訴える信教の自由権の侵害を認めることは「かえって相手方(山口護国神社など)の信教の自由を妨げる結果となるに至る」として、
むしろ原告に対して神社側などにもっと寛容であることを求め、原告における信教の自由権の存在を否認いたしました。
個人の尊厳を蹂躙した国家神道体制をあくまで否定し、すべての個人はかけがえのない存在であり、
そのようなものとして尊重されるというのが憲法の基本的理念ではなかったのでしょうか。
そのことは憲法制定の歴史的背景からも明らかであります。にもかかわらず、このような転倒した判断が示されることは、
裁判官自らが、憲法の精神を担うに足る主体の確立をあまりにも怠ってきたといわざるをえません。
 個々人の死はひとしく追悼されるものであります。しかし死者を選別し、選別された死者をひとくくりにする思想は深く人権を侵害するものといわねばなりません。
 靖国神社の場合は、「公務死」ということが合祀基準といわれます。合祀対象者はあくまで軍人軍属、及び国家総動員法に基づく徴用などの公務死であって、
同じ戦死者であっても原爆、空襲などによる一般民間人75万人以上の犠牲者は、合祀の対象ではありません。
 「国のための死]という、きわめて恣意的な基準を立てて、それを満たせば強制的に祀り、満たさなければ排除する。
これこそ「選別・排除・強制」の論理そのものではないでしょうか。
 神社側は「靖国神社は遺族の方々に、靖国に参拝しなさいと強制は何もしていない。祭祀によって、あなたの信仰を侵すことはない」(神野斎座宮司)と主張してきました。
 強制とはそのような内面の問題を遊離させた単なる現象をもっていわれるものでしょうか。
遺族の意思にかかわりなく、勝手に祭神として合祀し、遺族の霊璽簿からの削除の要請を一切認めようとしない、これが強制でなくてなんなのでしょうか。
公務における戦死者は自動的に祀られ、例外は許されない。この例外を許さない構造こそ「強制」そのものといわねばなりません。
 靖国神社祭神名簿の記録によりますと、私の父について次のように記載されています。
「菅原龍音命、階級・陸軍上等兵、死没年月日・昭和19年1月10日戦病死、死没場所・ニューブリテン島、合祀年月日・昭和26年10月9日」。
 私の父は、ニューギニア領・ニューブリテン島において戦死いたしました。
そのニューギニア戦線において住民虐殺に聞わったとして、BC級戦犯として死刑を宣告されたという飯田進(82才)さんは、
ニューギニア戦線における日本軍は「上陸と同時に補給路を断たれ、ほとんどの兵士がジャングルの中で飢え死にをした」という悲惨な実態を証言されました。(「私の視点」朝日新聞2006年8月3日付)
 その内容は「遺族にとって、最愛の肉親が野たれ死にしたとは思いたくない。それは人情である。誰も非難できない。
しかし野たれ死にした兵士を『英霊』と呼び、『御遺徳を顕彰する』との靖国神社の社是には見逃すことのできない、戦争美化の作為と欺隔がある」
「そこからは、あれだけの兵士を無意味な死に追いやった戦争発起と戦争指導上の責任の所在は浮かび上がってこない。
 『英霊』という語感の中に見事に雲散霧消してしまっている」というものです。
 私の父は戦病死と記録されていますが、まさしくそれは餓死であったと確信いたしました。武器も食料も薬も与えず、国家は南の島に兵士たちを捨てたわけです。
これが小泉首相の言うところの「心ならずも戦場に赴いて戦死した人たち」の実態なのです。国家が見捨てた兵士たちをその国家が褒め称えるという欺瞞は底なしではありませんか。
 神社側は「太東亜戦争は日本の自存自衛のための戦争であり、アジア諸国を欧米の植民地から解放するための正義のだたかいです」(三井権宮司)と明言されました。
今なおアジア太平洋諸国への侵略を「大東亜聖戦」と規定し、植民地解放に貢献したという歴史観を持ち続けているのが靖国神社であります。
 私は神社側との対応のなかで、現在なお国家神道の思想が貫かれている靖国神社の実態をまざまざと見せつけられる思いでした。
国家神道によって、国民の内面収奪をはかり、権力を神聖化し、侵略戦争や植民地支配を正当化レていったという歴史的経験への反省から、
このような国家神道の思想を否定するという課題を担って、生み出されたのが日本国憲法の信教の自由と政教分離の原則ではなかったでしょうか。
 靖国神社は現在なお、戦役者は「英霊」であり、「偉業」をなしたものであると、確固とした意味づけをしています。
戦役者は、戦争に駆り出されて命を失った悲しい死者です。その悲しみを靖国神社はなぜ共にしようとしないのでしょうか。
 戦役者の死をどのように受けとめ、どのように意味づけるかは、遺族である私たち一人ひとりの生き方そのものに関わる重大な意味を持っています。
そのような人間一人ひとりの「生き方」「死に方」という人間の存立にかかれる領域に他者は決して介入してはならないという考えによって支えられているのが人権の観念ではなかったでしょうか。
人間の尊厳の意味は、どこまでもそれを受けとめる側において生じるものであります。その権利は何よりも尊重されなければならないものであると思います。
 私は浄土真宗の僧侶ですが、浄土真宗の宗祖である親鸞はF神祇不祥(神を祥まず)」を宣言し、
神に折ったり、霊をおそれるというような神々の呪縛からの解放を求める実践を、念仏者の証として教えました。
宗祖の著わした浄土真宗の「本典」には、「仏に帰依せば、ついにまたもろもろの天神に帰依せざれ」と記されています。
仏教に帰依するものは、他の神々に帰依してはならないと。そのことは念仏の信仰が神々に支配され、神々を背景として支配する社会のもとで卑小な存在でしかありえなかった人々に、
一人ひとりの人格の尊厳、それは同時に他者も同じ尊厳であることを承認しうるような尊厳性の自覚をうながすものであることを意味します。
 しかし、私たちの教団は戦時下において、国家神道と軌を一にして、戦時の教学を打ち立て、積極的に戦争に加担いたしました。
教団は自らの意志において宗祖の教えを見事に捨て去ったという拭いがたい歴史を持っています。
 このような歴史的社会的な教団の罪業は、私自身教団に身を置く者として、生涯背負って生きていきたいと思っております。
 現在、私のところの仏間に、軍服姿の父の遺影を掛けています。遺族の家庭ならどこにでもあるめずらしくない光景ですが、寺院の仏間にはやはり異様に映ります。
僧侶であった父の遺影は本来なら身に法衣を纏うているはずです。この父の軍服姿に直面しますと、国家の引き起こした無謀な戦争の被害者であるにもかかわらず、加害国の兵隊として侵略戦争に加担をしたという事実を実感します。
「被害者」と「加害者」という、ひとりの人間の精神をふたつに引き裂くような残忍さ、国家の引き起こす戦争の無惨さを、私自身、心に刻み込むためにこの遺影を掛け続けています。
 僧侶であった父が神社神道の祭神として祀られている、いや現在なお祀り続けられているこの異常な事態は、
父と私自身の仏教徒である名告りを無視しているばかりでなく、その名告りを奪うことでさえあります。
 2001年8月8日、私は父の霊璽簿からの削除を求めて靖国神社に赴いたとき、当時の三井権宮司は「あなたはそのよう言われますが、
あなたのお父さんは靖国神社に神として祀られていることを喜んでいらっしやるかもしれませんよ。」と言われました。
そのときの、あの押さえがたい苦痛と屈辱は、今なお私の思いの中に絶えることなく持続しています。
 この訴訟は私にとっては、国家の「英霊」として祀られている戦役者を、その束ねられた列から解放するたたかいではありますが、
またそれは私たち白身が、現在の日本の精神状況を支配し続けている「靖国」の呪縛から解放されるかたかいでもあります。
                      (2006.8.11)


 すかはら りゅうけん
 靖国合祀取消訴訟原告団長。
 真宗遺族会代表(戦没者遺族)で浄土真宗本願寺派僧侶。
 著書に『靖国」という檻からの解放」(永田丈昌堂)ほか


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