「『聳ゆるマスト』に学ぶ夕べ」講演資料

はじめに

反戦運動を学ぶ上での疑問・課題
1、第2次世界大戦(15年戦争・太平洋戦争)でどれくらいの被害があったか。
2、戦争はなぜ起こるか、戦争にどう反対したか。
3、帝国主義時代になって、第二インター中心に組織的な反戦運動が起こった。
4、戦争を何故防止できなかったか。
5、命を賭けた反戦活動がなぜできたか、どのような人が運動を担ったか。
6、現在の平和運動に必要な事は何か、現在の運動でよいだろうか?
7、反戦運動はどのように展開したらよいのか

《疑問》
1、なぜ戦争をとめられなかったか、当時の人はどうしていたのか。
 《戦争被害の実態》
 日本の十五年にわたる侵略戦争は、軍人軍属などの戦死者二百三十万人、
民間人の国外での死者三十万人、空襲等による死者五十万人以上、
総計三百十万人以上が犠牲となる惨害であった。
 1941年に人口が7222万人と対比すると、3.8%の人命が失われた。
 国富の被害推計では、被害額は643億円でこれは戦争開始前の国富に対して、  25%の国富が減少した。
   太平洋戦争期の国富被害pdf
 日中戦争・太平洋戦争の戦争経費は約2185億円に達し、これは同じ期間中の
 国民総生産合計額約4100億円の53%に達した。
 アジア・太平洋地域の各国に二千万人以上の犠牲者の惨害。
各国の政府発表や公的な記録では、
中国一千万人以上、ベトナムニ百万人、インドネシア四百万人、フィリピン百十一万一千九百三十八人、
インド百五十万人、ニュージランドー万一千六百二十五人、オーストラリア二万三千三百六十五人、
泰緬鉄道建設に投入された各国の労働者七万四千二十五人、ミャンマー、シンガポール、朝鮮をのぞく、これら諸国の犠牲者は、一千八百七十二万から二千八百七十二万人。
日本の植民地支配の朝鮮では、三十六万四千百八十六人が軍人・軍属にされ、 死亡・行方不明者十五万人(推定)、強制連行により二十万以上が犠牲となった。
 戦争における軍人と民間人の死者の比率も、第1次世界大戦では95対5だったのが、
第2次世界大戦では52対48となり、朝鮮戦争では逆転して15対85に。
そしてベトナム戦争では実に5対95となる。

《戦前ーなぜ戦争を防止できなかったか》
 《戦争と反戦運動》
◎ クラウゼヴィッツの『戦争論』
「戦争はそれ以外の手段を以ってする政治の延長である」
◎ 中国の喬良と王湘穂の『超限戦』
「現代の戦争の形態ではこれまでの軍事的手段だけでなく非軍事的手段も連携し、
最大限の国益を追求する。」
◎ 「日本国憲法」前文「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうに」

◎ 反戦・平和運動
「戦争は政府(政権)が行う、武力を伴う政治行為(だから)」⇔
「反戦平和運動=戦争を防止・制止するために政府(政権)国民に働きかける諸行動。
多くは反政府行動となる…戦争体制・戦争政策・戦争行為に反対・制限・阻止を図る」
 反戦運動の具体的な内容=兵役や戦争加担行為を拒否、デモ行進、ビラ配布、
戦争当事国の輸出品目の不買運動、軍需産業のストライキ、当局関係者の内部告発など。
 政治闘争の重要な柱=選挙で、戦争反対を訴え、政権を奪取し、平和遂行政権に変える。

◎ 《命を賭けた反戦活動》・・治安維持法による弾圧=特高警察・憲兵
 日本共産党の活動は、反戦運動に最大限の努力をし、今も世界に誇れる。
 治安維持法による弾圧が原因で命を落とした人は、千六百八十二人。
 治安維持法によって送検された人びとは、七万五千人以上、
 逮捕者は数十万人。予防拘束や警察への拘留は、数百万人におよぶ。

《世界の反戦平和運動》→日本の反戦運動に影響
社会主義運動・労働運動で組織的な反戦運動を行おうとした。
(参照)世界社会主義運動の系譜pdf  「世界平和運動史年表」pdf

1864年にロンドンで国際労働者協会(第一インターナショナル)が結成され、
理論的支柱は、マルクス、エンゲルスが唱えた科学的共産主義で、
協会の第一の目的は、全世界の労働者、民族の解放であった。
1871年3月、パリ・コンミューンをめぐり対立し、分裂は、ヨーロッパ諸国の政府による弾圧激化を背景に、インターナショナルの崩壊を招き、1876年に解散した。
1889年パリで、マルクス主義者を中心に、第二インターナショナルが結成された。
やがて内部に修正マルクス主義者をかかえ込み、社会主義運動は分裂期に入る。
内部分裂は、1914年に勃発した第一次世界大戦への対応のしかたで対立が激化した。
第二インターナショナルは、1907年のシュトゥットガルト大会で反戦決議をした。
1910年、コペンハーゲンの第八回大会で『軍国主義と国際紛争』を確認し、戦争によってひきおこされた経済上、政治上の危機を利用して、ブルジョアジーの打倒を求めた。
会議は、帝国主義時代の国際社会主義運動内の革命的マルクス主義者結集を結集した。
社会主義政党とその議会代表に、自国政府に軍備縮小と国際紛争を仲裁裁判によって解決することを要求する義務をおわせ、
すべての国の労働者に戦争の危険に抗議するよう呼びかけた。
1912年、バーゼル大会で、せまりつつある世界帝国主義戦争の危険にたいし、全員一致して戦争についての宣言を採択した。
宣言は、せまりつつある世界戦争の脅威について諸国民に警告し、この戦争の略奪目的をあばきだし、各国の労働者に戦争の脅威に反対して平和のために断固としてたたかい、
「資本主義的帝国主義にプロレタリアートの国際連帯を対置する」よう呼びかけた。
宣言は、帝国主義戦争が起きた場合には、戦争によって生じた政治経済的危機を利用して、社会主義革命のためにたたかうよう勧告した。
実際に大戦が生ずると、各国の社会主義政党が自国政府の戦争政策を支持し、
ここに第二インターナショナルは自滅した。
レーニンは、「祖国防衛」は誤りで、政治の延長が戦争なら、政治が帝国主義的なら帝国主義戦争であり、政治が民族解放的ならば、その戦争も民族解放戦争だから、
1914〜16の戦争は、帝国主義戦争だと断定した。
もしこの政治が帝国主義政治であるなら、つまり金融資本の利益のために、植民地や外国を掠奪し、抑圧する政治であるなら、この政治からうまれた戦争は帝国主義戦争である。
1917年、ボリシェヴィキの指導者レーニンが"平和とパンの要求"(四月テーゼ)を掲げて戦争継続の姿勢をとる臨時政府を批判し、
ソヴィエトはボリシェヴィキ中心に武装蜂起で権力奪取を行い、十月革命を成功させた。
1919年3月、共産主義インターナショナル(第三インターナショナル)は十月革命後のボリシェヴィキの呼びかけに応じてモスクワに21カ国の代表が集まり、第一回大会を開いた。
当初は、世界革命の実現を目指し、ボリシェヴィキが各国の革命運動を支援するための枠組として機能した。
しかし、レーニンの死後、スターリンが一国社会主義論を打ち出したことで役割が変わり、 各国の共産党がソ連の外交政策を擁護するのが中心になっていった。
1930年代前半にはドイツでナチスが台頭したが、社会ファシズム論に基づいて社会民主党に批判を集中し、ナチスの権力獲得を許した。
1935年には、方針転換をはかり、人民戦線の戦術を提唱し、スペインやフランスで人民戦線政府が誕生したが、
独ソ不可侵条約の成立と、第二次世界大戦初期のポーランド分割の結果、人民戦線戦術は放棄された。
第二次世界大戦の勃発に伴って名実ともに存在意義を失い、1943年5月に解散した。


2、【日本共産党の活動は、反戦運動に最大限の努力をし、今も世界に誇れる。】詳細

《日本革命の展望と反戦運動》 日本共産党史より

 《アジアヘの侵略と植民地支配》

 明治のはじめから朝鮮への侵略をくわだてた政府は、一八七六年、朝鮮に軍隊を開国させ、清朝中国と朝鮮の支配を争った
日清戦争(一八九四〜九五年)では、中国から台湾や遼東半島をうばい植民地とした。
その後、帝政ロシアとのあいだで中国東北部と朝鮮の支配権を争った日露戦争(一九〇四〜○五年)に勝利し、「韓国保護条約」で朝鮮を日本の「保護国」とした。
 一九一〇年、「併合条約」をおしつけ、朝鮮を完全に植民地化した(「韓国併合」)。
 第一次世界大戦で日本は、ドイツの植民地だった中国・山東半島の青島を占領した。
一九一五年、「南満州及び東部内蒙古」などへの日本の権益の確立・強化をもとめる「二十一ヵ条要求」をつきつけた。v 一九一八年、シベリア出兵し、勢力範囲に組みこむことをねらった。

 《戦争反対の歴史》

 一九二二年、日本共産党はが結成され、コミンテルン日本支部として承認された。
 一九二三年の「綱領草案」は、中心的な任務として、民主主義革命の旗をかかげ、 社会主義革命に前進する革命の展望をあきらかにした。
 「綱領草案」は、平和・民主の日本をめざす三つの分野と二十二項目の「当面の要求」を提起した。
 政治の分野では、「君主制の廃止、貴族院の廃止、十八歳以上のすべての男女にたいする普通選挙権の実現」のほか、
労働者と労働者政党の団結の自由、出版・集会・ストライキの自由、天皇の軍隊・警察・憲兵・秘密警察の廃止などをあげ、
国民が主人公となる民主政治をつくることをよびかけた。
 経済の面では、八時間労働制の実施、失業者保険をふくむ社会保障制度の充実、最低賃金制の実施、
天皇と地主の大土地所有の没収と小作地の耕作農民へのひきわたし、累進所得税などによる税制の民主化をもとめた。
 さらに、外国にたいするあらゆる「干渉企図の中止、朝鮮、中国、台湾、樺太からの軍隊の完全撤退」をかかげた。
一九二七年七月、コミンテルンと協議して、「日本問題にかんする決議」(二七年テーゼ)をつくった。
 「二七年テーゼ」は、中国侵略と戦争準備に反対する闘争を党の「緊切焦眉の義務」と位置づけ、日本資本主義の矛盾の深まりが革命の諸条件を成長させていると強調した。
日本の革命が、「日本国家の民主主義化、君主制の廃止」、土地革命などを主な内容とするブルジョア民主主義革命から、社会主義革命に急速に転化するとした。
日本共産党が、天皇絶対の専制政治下にあって、反戦・平和と主権在民の民主主義の立場を明確にかかげたことは、
二十世紀の世界史の本流にたつものとして、日本と国民の歴史にとって、かけがえのない値打ちをもった。
 一九二八年二月一日の党中央機関紙「赤旗」(せっき)が創刊されたときから、一貫して反戦・平和、自由と民主主義、国民の権利と生活擁護の旗をかかげ、命がけで真実を報じた。

 《侵略戦争反対をつらぬいて》

 日本共産党は、中国などへの侵略と戦争の拡大、植民地支配に反対して、不屈にたたかいぬいた。
 中国では、一九二四年一月、国民党と中国共産党の第一次国共合作が成立し、二六年七月から、軍閥支配をうちやぶり中国を統一する「北伐戦争」に、
帝国主義列強諸国は自国の居留民保護を口実に中国への武力介入をはかった。
日本共産党はいちはやく「無産者新聞」(二七年一月)で「対支非干渉運動を全国に起せ」とよびかけ、列強の即時撤兵を要求し、「対支非干渉同盟」の結成を訴えた。
 政府は、在留日本人の安全の「自衛」措置と称して、二七年五月、山東省への出兵を強行した(第一次山東出兵)。
 労農党、日本労農党は、干渉反対の共同声明や共同演説会の開催など、無産政党間の最初の共同行動が実現した。
 政府は、「北伐」が再開されると、第二次・第三次山東出兵し、関東軍は張作霖爆死事件をひきおこした。
 日本共産党は、あいつぐ弾圧をうけながらも、中国侵略に反対するたたかいの組織に全力をあげてとりくみ、
「赤旗」や「無産者新聞」で中国への干渉反対、派遣軍の即時撤退をくりかえし要求した。
また、「対支非干渉同盟」を発展させて「戦争反対全国同盟」をつくろうとよびかけた。
反戦同盟準備会は、ニ八年七月に結成され、翌年十一月には、国際反帝同盟の一翼をになう反帝同盟日本支部に発展した。
ニ八年五月、中国共産党との共同宣言で、反動と侵略の政策に反対する日中両国民の国際的な連帯をよびかけた。

 《中国侵略の開始と日本の政党》

 一九三一年九月十八日、政府は、関東軍の鉄道爆破事件(柳条湖事件)を口実に、中国侵略を開始した。
「満州事変」と称された事件で、一九四五年八月まで十五年間の侵賂戦争がはじまった。
 第一次世界大戦後の国際連盟は、「戦争に訴へざるの義務」をもとめ、「不戦条約」(一九二八年)は、国際紛争を解決する手段としての戦争を禁止した。
日本の中国侵略は、二十世紀の戦争違法化の流れへの最初の重大な逆流となった。
それだけに、中国侵略に反対する日本共産党のたたかいは、平和と民主主義、民族独立の流れを二十世紀の国際的な本流とするうえで、大きな意義をもつものでした。
 日本共産党は、戦争開始のニカ月以上もまえから、日本が「満州」で侵略戦争を準備していることを「赤旗」紙上で具体的にしめし、これとの闘争をよびかけた。
また、三一年八月一日の「反戦デー」でも、非合法の集会やデモを組織して、「日本軍隊の『満州』、朝鮮及び台湾からの即時召還」を要求した。
 党は、戦争が開始された翌日の九月十九日、声明を発表し、つぎのようによびかけた。
「奉天ならびに一切の占領地から、即時軍隊を撤退せよ! 中国満州における日本軍隊軍艦の即時撤退!
 一人の兵士も戦線におくるな! 帝国主義日本と中国反動の一切の軍事行動に反対せよ!
 帝国主義戦争のあらたなる危険にたいして闘争せよ」。
 九月二十目、党は、中国共産党との「共同宣言」で、両党が共同して侵略戦争に反対し、連帯することを宣言した。
この宣言は、今日、北京市内の「中国人民抗日戦争記念館」に展示されています。
これも、戦前の日本共産党の不屈のだたかいが、二十一世紀のアジア諸国民との連帯のきずなになっていることのあかしの一つです。
 さらに、党は、九月二十五日、「第二無産者新聞」社説で、
「帝国主義戦争と闘え!」「一人の兵士も送るな?」「武器の輸送製作を中止せよ!」と、侵略戦争反対を呼びかけた。
 党の影響下にあった諸団体もそれぞれの要求とむすびつけて戦争反対の宣伝をおこない、日本労働組合全国協議会は、
「侵略戦争に対し大衆的政治罷業へ」「兵士及び軍需品輸送を拒否しろ」とよびかけた。

  一方、日本共産党をのぞく各政党は、積極的に侵略戦争を支持した。
与党の民政党は、九月十九日、関東軍の軍事行動を「正当防衛の挙」とする「声明書」を発表し、
野党の政友会も、同日、軍事行動は当然とする幹事長談話を発表した。
政友会は、十一月の議員総会で「満州事変は在満同胞の保護と既得権益の擁護とを基調とする自衛権の発動」であり「断じて撤兵を許さず」と決議した。
 社会民衆党も、侵略を支持する態度をとり、十一月には「満蒙問題に関する決議」を採択した。
決議は、「満蒙に於ける我が条約上の権益が侵害さるは不当」として、ブルジョア的満蒙管理を排して、これを社会主義的国家管理に」という欺まん的なスローガンをうちだした。
社会民衆党は、翌年七月、全国労農大衆党と合同して、社会大衆党をつくり、この党も
「反ファシズム、反共産主義、反資本主義」(三反主義)をかかげて、戦争協力へとすすみました。
 財界は、日本商工会議所が軍部支持を声明し、日本工業倶楽部、日本経済連盟が「満州」侵略を支持した。
大新聞は、「軍部を支持し国論の統一を図るは当然の事」(「大阪朝日」)、
「守れ満蒙=帝国の生命線」(「大阪毎日」)、「我生命線を死守せよ」(「読売」)と、
あいついで侵略を支持し、戦況講演会、ニュース映画会などを各地でひらいて、侵略戦争と排外熱をあおりました。
 翌三二年三月、日本のかいらい国家として、「満州国」をつくり、全面的な占領支配のもとにおいた。
この年の十二月には、全国百三十二の新聞社が「満州国独立」支持の共同宣言を発表した。
党は、「満州国」を自由意思による建国とした軍部の主張と宣伝を批判し、中国を「植民地とする為の第一幕」だときびしく抗議した。
三三年三月、日本は日本の軍事行動と「満州国」の正当性を否定した国際連盟のリットン調査団の報告を非難して、
国際連盟を脱退し、つづいて、ワシントン海軍軍縮条約を廃棄するなど、国際条約にしばられない軍備拡張計画をすすめ、中国などへの侵略の体制を強化していった。

 《「三二年テーゼ」ーー侵略反対と人民革命の旗》

 コミンテルンで三二年五月、「日本における情勢と日本共産党の任務にかんするテーゼ」(三二年テーゼ)が決定された。
 「三二年テーゼ」は、日本の中国侵略が、アメリカとの軍事的衝突にすすむ危険をもつと警告し、
侵略は「勤労者にたいする前代未聞の専横と暴力支配との体制を維持し強固にし、農村における賦役支配を強化し、大衆の生活水準をなおこれ以上に低下」させる政策とむすびついており、国内の諸矛盾を先鋭化させると指摘した。
 「三二年テーゼ」は、日本の支配体制を、絶対主義的天皇制、地主的土地所有、独占資本主義の三つの要素の結合と特徴づけ、
天皇制が地主階級と独占資本の利益を代表しながら、同時に、絶対的性質を保持していることをあきらかにした。
そして、天皇絶対の専制体制をうちやぶることに日本の革命運動の第一の任務かおるとして、当面の革命の性格を民主主義革命とした。
「三二年テーゼ」は、民主主義革命の主要任務として、
@天皇制の打倒、A寄生的土地所有の廃止、B七時間労働制の実現をあげ、 当面の中心スローガンに、
「帝国主義戦争と警察的天皇制反対、米と土地と自由のため、労働者、農民の政府のための人民革命」をかかげた。
 日本の情勢の具体的な分析にもとづいて、専制政治の打破と民主的変革の不可避性をあきらかにした
「三二年テーゼ」は、これ以後、戦前の党活動と民主主義運動において、もっとも重要な指針となった。
「三二年テーゼ」は、侵略戦争を支持した社会民主主義勢力の誤りをきびしく批判したが、同時に社会民主主義勢力をファシズム勢力と同列において 「社会ファシズム」と一つにくくり、これとの闘争を特別に強調した。
さらに、日本において「革命的決戦」が切迫しているという、一面的な情勢評価をふくんでいた。
「社会ファシズム」論の誤りとセクト主義は、労働運動の分野にも否定的影響をあたえた。
日本労働組合全国協議会(全協)は、コミンテルンと密接な関係をもっていた労働運動の国際組織プロフィンテルン(赤色労働組合インタナショナル)」に加盟していたが、
その活動には、半非合法下での積極的な活動とともに、プロフィンテルンの方針にもとづいて、
社会民主主義の潮流が影響力をもつ労働組合の存在意義を否定するなどの誤りが生まれた。 「赤旗」は、具体的な事実で日本の中国侵略の足どりをあきらかにするとともに、
侵略に抵抗するアジア諸国民との連帯に紙面の大きな部分をさき、勇敢に反戦平和の闘争の先頭にたった。
 この時期、党は、東京、大阪の陸軍各連隊、呉、横須賀の軍港、戦艦長門、榛名、山城など、兵営や軍艦のなかにも党組織をつくった。
呉では「聳ゆるマスト」、全国的には「兵士の友」などを発行して、兵士や水兵のなかにも反戦闘争をひろげた。

 《暴圧下の不届のたたかい》

 日本共産党と民主運動への弾圧は、中国への本格的な侵略が開始された一九三一年から、いっそうはげしくなった。
治安維持法による検挙者は、三〇年の六千八百七十七人から、三一年には一万一千二百五十人に急増し、
三二年に一万六千七十五人、百二年には一万八千三百九十七人に逮した。
 三二年十月、静岡県熱海に全国代表者会議を招集したが、全国的な弾圧を計画していた政府は、
全国いっせいの検挙をおこない、約千五百人の党員、共産青年同盟員、全協の活動家などを逮捕した。
翌三三年二月には、大阪地方を中心にふたたび約千五百人を逮捕し、全協の中央委員も全員検挙された。
検挙された党員や党支持者にたいする取調べは残酷をきわめ、拷問によって殺害される党員があいついだ。
 三二年四月、東京で逮捕された党中央委員上田茂樹(三十一歳)は、闇から闇へと葬られ、いつどこで死去したかも不明です。
党中央委員岩田義道(三十四歳)は、三二年十月に東京・西神田署に逮捕され、四日後、拷問で虐殺されました。
三三年二月に逮捕された党九州地方委員長西田信春(三十歳)の虐殺は、三十数年後にようやく確認されました。
 作家の小林多喜二(二十九歳)は、今村恒夫とともに三三年二月二十日正午すぎ、スパイの手引きによって東京・赤坂福吉町で特高に逮捕されました。
小林は築地署ですさまじい拷問をうけ、七時間後に絶命しました。 小林は身をもって党と信念をまもり、最後まで屈しませんでした。
天皇制政府は、小林の遺体の解剖を妨害し、二十二日の通夜、二十三日の告別式参会者をとらえ、
三月十五日には労農葬会場の築地小劇場を占拠するなど、小林の死後にまで、はげしい弾圧をくわえました。
小林の虐殺にたいして、フランスのロマン・ロラン、中国の魯迅をはじめ、内外から多数の抗議と弔文がよせられました。
 戦前、少なからぬ女性党員が、天皇制政府の弾圧に抗して不屈にかたかい、社会進歩の事業に青春をささげました。
 女性の活動や組織化に力をつくすなかで三三年五月に検挙され、三五年に獄死した飯島喜美の遺品のコンパクトには「闘争・死」の文字が刻まれていました。
共青中央機関紙「無産青年」編集局ではたらき、各地に配布網を組織した高島満兎は、三三年三月、活動中特高におそわれ、二階から飛び降りて脊髄複雑骨折の重傷を負い、翌年七月、下半身不随のまま死去しました。
 「赤旗」中央配布局で「赤旗」の配布をうけもった田中サガヨも弾圧に倒れた一人です。三三年十二月に検挙された田中は、獄中でチリ紙に姉への手紙を書き、
「信念をまっとうする上においては、いかなるいばらの道であろうと、よしや死の遺であろう(と)覚悟の前です。
お姉さん、私は決して悪いことをしたのではありません。お願いですから気をおとさないでください」としるし、三五年五月に生涯をとじました。
 「三・一五事件」で検挙された伊藤千代子は、天皇制権力に屈服して党と国民全員切った夫への同調を拒否し、拷問、虐待にたえてがんばりぬき、翌年、急性肺炎で亡くなりました。
彼女の女学校の先生だったアララギ派歌人の土屋文明は、言論統制のきびしい戦時下の一九三五年に、理想に殉じた伊藤千代子によせて
「こころがしつつたふれし少女よ新しき光の中に置きて思はむ」とうたいました。
 彼女たちが、党の若く困難な時期に、それぞれが二十四歳という若さで、侵略戦争に反対し、国民が主人公の日本をもとめて働いたことは、日本共産党の誇りです。

 《中国侵略の拡大に反対して》

 一九三二年十月の党弾圧ののち、検挙をまぬかれた活動家たちは、ただちに党の強化にとりくみ、「赤旗」の発行をつづけました。
党中央委員会は、野呂栄太郎、宮本順治らを先頭に、「三二年テーゼ」にもとづく党活動の拡大のために不屈の努力をつづけた。  「満州」を占領した日本軍は、三三年二月には熱河省に侵略を拡大し、さらに華北(北京、天津をふくむ中国の北部)への侵略の準備をはじめた。
党は、「赤旗」で、華北侵略の危険を毎号のように訴え、侵略の拡大が国民を悲惨な破局にみちびくことを警告し、
国防献金の強制的徴収反対、出征兵士の家族の生活保障、出征による地主の土地取り上げ反対など、戦争の犠牲に反対する国民の日常要求を重視しながら、運動の組織につとめた。
 天皇制政府は、日本共産党の破壊に攻撃を集中するとともに、良心的な自由主義者にも迫害の手をのばした。
政府は、三三年五月、京都帝国大学法学部滝川幸辰教授にたいし、その刑法学説を「赤化思想」として退職を強要しました。
京大法学部教授会は、一致して抵抗し、各大学の学生は大学の自治と学問の自由をまもる運動をおこしましたが、
政府は学生運動に全国的な弾圧をくわえ、滝川教授の追放を強行しました。
党は、これを「ドイツに於けるヒツトラー・テロルに優るとも劣らぬ」文化反動と位置づけ、
労働者、農民が、学生、インテリゲンチャ、自由思想家、科学者、芸術家と手をつなぎ、文化反動の撃退のためにたちあがるよう、よびかけました。
 このとき、知識人のあいだに学問・思想の自由をまもる機運がつよまり、三三年七月、「学芸自由同盟」が組織されました。
「学芸自由同盟」は、ナチスがマルクスやトーマス・マンなどの著作を焼き払った事件に抗議して結成されたもので、徳田秋声、三木清、谷川徹三、嶋中雄作、秋田雨雀、木村毅、久米正雄、菊池寛ら文化人、知識人が幅ひろく集い、宮本百合子ら党員知識人も参加しました。
 一九三二年のアムステルダム世界反戦大会でもうけられた国際反戦委員会(ロマン・ロラン、アインシュタイン、宋慶齢、片山潜ら)は、
三二年十二月に、日本の中国侵略に反対する極東反戦会議を、三三年に上海でひらくことを提唱しました。
党は、三三年三月、共青、全協、反帝同盟とともに、上海での反戦大会支持のアピールを発表し、
職場や地域に反戦委員会をつくって侵略戦争に反対するすべての人びとを結集するよう、訴えました。
三三年九月、上海反戦大会に呼応して東京で日本反戦大会が計画されましたが、当日会場を警察に制圧されて開催は不可能となりました。
これにさきだって、六月には、江口喚、佐々木孝丸、長谷川如是閑、蔵原惟郭、加藤勘十、葉山嘉樹らを発起人とする「極東平和友の会」準備会が結成され、
そのよびかけで七月、労働組合や労農救援会、反帝同盟など十五団体による「上海反戦会議支持無産団体協議会」がつくられました。
党は、これを統一戦線結集への積極的な契機としてとらえて支持し、推進しましたが、途中から批判的態度に転じました。
ここには、統一戦線の方針をかかげながらも、一方で、コミンテルンによる「社会ファシズム」論の影響をつよく受けて
セクト主義的態度をとるという、方針上の矛盾と制約があらわれていました。

 《市川正一、宮本顕治らの獄中・法廷闘争》

 一九三一年六月から東京地方裁判所でおこなわれていた「三・一五事件」と「四・一六事件」の裁判は、
一九三二年十月、市川正二佐野学、鍋山貞親、三田村四郎の四人に無期懲役を、その他百八十一人の党員に計七百七十七年の懲役をいいわたしました。
 党は、法廷での弁論を最大限に活用して、天皇制政府の野蛮な弾圧を追及するとともに、政府と支配階級があらゆるデマ宣伝でゆがめてきた
日本共産党の真の姿を、ひろく国民のまえにあきらかにする努力をおこないました。
市川正一は、公開停止をちらつかせる裁判所のはげしい妨害に抗して、一九二二年の党創立から
二九年の四・一六事件までの日本共産党の歴史について代表陳述をおこないました。
党は、これを基礎に『日本共産党闘争小史』を編集し、三二年七月、党創立十周年を記念して非合法に出版しました。
 判決後、党は、ただちに控訴公判の準備を開始しましたが、無期懲役の判決におびえた佐野、鍋山は、
検事の誘導のもとに、三三年六月、出獄したいとの一念から「転向声明書」などを発表しました。
佐野らは、天皇家は「民族的統一の中心」だとして党の天皇制打倒の方針を「反国体的」と非難しました。
そして、朝鮮や台湾の植民地化や中国への侵略を歴史の進歩として支持し、天皇制と侵略戦争を全面的に美化する立場から、
日本共産党の解体を主張しました。三田村四郎、田中清玄らも同様の変節を表明しました。
 野呂栄太郎、宮本顕治ら党中央委員会は、変節した人びとを党から除名し、その変節ぶりを徹底的に批判しました。
党の旗をまもった党中央委員の市川正一、国領五一郎らの控訴公判は、三四年五月、東京控訴院でひらかれ、十月、市川らには一審判決どおり無期懲役が宣告されました。
市川らはただちに上告しましたが、三四年十二月、大審院は上告を棄却し、同月下旬、市川、国領らは北海道の網走刑務所におくられました。
 一九三五年七月、コミンテルンの第七回大会がモスクワでひらかれました。
 ドイツでは、三三年、ナチス・ヒトラーが権力をにぎり、ファシズム体制をうちたてていました。
大会は、ファシズムの攻勢をうちやぶり、民主主義と平和、勤労者の生活をまもることが、各国の労働者階級と共産党の当面の中心任務になってきたことをあきらかにしました。
そして、共産党と社会民主主義政党との共同を軸に、広範な人民を民主主義的な共同綱領のもとに結集して反ファシズム人民戦線を樹立することをめざす統一戦線政策をうちだしました。
また、ドイツ、イタリアのファシズムと日本軍国主義による戦争拡大の危険にたいして、広範な勢力を結集した平和擁護、帝国主義戦争反対の国際統一戦線の結成をよびかけました。
こうして、「社会ファシズム」論の誤りは基本的には克服され、三六年には、スペイン、フランスであいついで、人民戦線派が選挙に勝利し、人民戦線内閣が成立しました。
 一九三六年二月、モスクワにいた山本態蔵と野坂参三は、反ファシズム統一戦線の方針を日本で具体化するようもとめた「日本の共産主義者への手紙」を発表しました。
 「手紙」は、侵略のためのファッショ的な体制がつよまっているもとで、日本共産党の政策と戦術のもっとも緊急な目標は、
軍部・反動・戦争に反対して全勤労者、全民主主義勢力を統一する人民戦線の樹立にあるとしました。
そして、共産主義者が労働組合や農民組合などで活動し、社会大衆党の反動的指導者に反対して闘争するとともに、
同党内の左翼勢力とも連携して反ファッショ統一戦線をつくるために努力するようもとめました。
 コミンテルン第七回大会に出席した小林陽之肋は、帰国後、岡部隆司らの党員や活動家とともに、東京、大阪、京都に組織をつくり、
共産主義者の結集と人民戦線運動の推進にあたりましたが、三七年十二月に検挙され、その組織も四〇年夏に弾圧されました。
和田四三四ら関西地方の党員は、三六年三月、人民戦線の運動をすすめる各種のパンフレットなどを発行し、組織の発展、拡大につとめましたが、
三七年十二月に検挙され、その弾圧は、九府県約二百四十人におよびました。
 人民戦線の運動は、左翼社会民主主義者にも影響をあたえ、「労農無産協議会」(三六年五月結成、加藤勘十委員長)が
「反ファッショ人民戦線」を提唱して社会大衆党に共同闘争を申し入れる動きがおきました。
社会大衆党は、三六年十二月の党大会で人民戦線運動の排撃を決定して、これに反対しました。
 日本における人民戦線の運動は、戦争と反動の強化にたいする人びとの批判と不満のうっ積にもかかわらず、
日本共産党が弾圧されているもとで、大きな運動を組織できませんでした。

 《中国全面侵略と第二次世界大戦》

一九三七年七月七日、北京郊外の盧溝橋近郊に駐屯していた日本車は、中国軍が発砲したと称してこれに攻撃をくわえました(盧溝橋事件)。
これをロ実に日本は、大軍を派遣して中国にたいする全面的な侵略をはじめました。
中国人民は、抗日民族統一戦線に結集して、国をあげて反帝独立の徹底抗戦にたちあがりました。
 日本共産党員や個々の共産主義者のグループは、日中全面戦争の発端となった盧溝橋事件の翌日には
東京、大阪、北海道などで反戦ビラをまいて戦争反対をよびかけ、軍隊のなかでも反戦活動をおこないました。
 天皇制政府は、開戦一ヵ月後の三七年八月、「国民精神総動員」運動をおこして、「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」をスローガンに国民の思想統制の体制をつよめました。
さらに、国民を侵略戦争に動員するために、学校教育のいっそうの統制をはかり、三八年以降、教科書の国定制を小学校から中学校にまでひろげる方針をとり、
四三年には、すべての教科書を国定制としました。
戦時中の教科書は、専制政治の美化と侵略戦争賛美でうめつくされ、青少年を戦争にかりたてる役割をはたしました。
また、戦争の進行とともに「八紘一宇」という侵略と反動の思想を宣伝し、国民におしつけました。
天皇制政府は、戦争にたいする批判や反対を根絶するために、その弾圧を容赦なく拡大しました。 三七年十二月、「人民戦線の結成をくわだてた」という理由で、「日本無産党」と「日本労働組合全国評議会」を解散させ、関係者四百人を検挙しました。
翌三八年二月には、同じ理由で、大内兵衛ら「労農派」といわれた学者グループを検挙しました。関西の雑誌『世界文化』のグループも、前年の三七年十一月に検挙されました。
さらに、三八年、「唯物論研究会」の関係者や新劇団体などさまざまな文化団体が、治安維持法によって、
コミンテルンおよび日本共産党の「目的遂行」の結社とされて弾圧されました。
これらの迫害にさきだち、三五年には、当時の憲法学説の主流をなしていた貴族院議員美濃部達吉の天皇機関説さえ、
国体にそむく「学匪の説」として、著書の発行を禁止され、
三六年七月には、「日本資本主義発達史講座』に参加した学者三十余人が、マルクス主義の理論研究を理由に、治安維持法違反として検挙されていました。
こうして迫害は、自由主義的な学者、文化人、仏教者やキリスト者などの宗敬者にまでおよび、
進歩的作家の執筆禁止もおこなわれるなど、いっさいの進歩的な言論と運動への圧殺がつよめられました。

 《政党の解散と「大政翼賛会」》

 日本共産党は、弾圧によって党中央の機能を破壊されましたが、獄中でも、戦時下の法廷でも、専制と侵略戦争に反対して、不屈のだたかいを展開しました。
 一方、政友会や民政党は、侵略戦争の積極的な推進者でした。社会大余党も、中国への全面戦争の開始を積極的に支持し、
一九三七年十一月の第六回大会では、「支那事変は、日本民族の聖戦」として、中国の前線に「皇軍慰問団」を派遣しました。
これら三党は、三八年、侵略戦争遂行のために経済や国民生活の全体を政府の統制下におく「国家総動員法」を成立させましたが、これは、自らの限られた議会活動すら否定するものでした。
 一九三九年九月、ヒトラー・ドイツのポまフンド侵略によって、戦争が世界的な規模のものとなり、
ドイツが「電撃戦」とよばれた攻撃で戦果をあげたことは、日本の戦争勢力を大いにはげましました。
日本では、四〇年三月、日本共産党以外のすべての政党の参加した「聖戦貫徹議員連盟」が結成され、全政党の解消と「一大強力新党」の結成がとなえられました。
ヨーロッパにおけるドイツ軍の攻勢に力をえた支配勢力は、日本、ドイツ、イタリアによる三国同盟をむすび、
侵略戦争のための国内体制の強化をすすめる政治を「新体制」(新政治体制)などとよびました。
これは、せまりつつある大平洋戦争にそなえて、ファッショ的な国内体制をつくりあげるものでした。
 「新体制」の樹立という目的に賛成して、まず社会大衆党が解散し、つづいて政友会、民政党が解散しました。
こうして、日本共産党以外のすべての政党が解散し、一九四〇年十月、戦争遂行のための協力組織「大政翼賛会」が発足しました。
「大政」とは、天皇がおこなう政治、「翼賛」とは、天皇を補佐して政治をおこなうことをあらわしたものです。
また、帝国議会には、アジア侵略を意味する「大東亜共栄圈の確立」を目的とした「翼賛政治会」が組織されました。
 政府は四〇年、すべての労働組合を解散させ、十一月、戦争協力機関として「大日本産業報国会」をつくり、
全国の工場、事業所には、下部組織として「産業報国会」をもうけて、国民を専制政治への忠誠、侵略戦争への奉仕、戦争のための労働にかりたてました。

 《一九四一年十二月。アジア・太平洋への侵略の拡大》

 日本軍は、一九四〇年九月には北部仏領インドシナに、翌四一年七月には南部仏領インドシナに侵攻しました。
そして、一九四一年十一月、日本は、昭和天皇の出席した「御前会議」で、中国での侵略戦争につづいて、
アメリカ、イギリスとの戦争を開始することを最終的に決定しました。
 四一年十二月ハ日、日本車は、ハワイ真珠湾の米海軍を攻撃し、マレー半島への上陸作戦などアジア・大平洋地域にいっせいに攻撃を開始しました。
同日、日本は、アメリカ、イギリスに宣戦し、侵略の手を東南アジア諸国にものばしました。
こうして、天皇制政府は、日独伊三国のファシズム・軍国主義の侵略同盟の一員として世界に巨大な惨禍をあたえ、国民を破局的な結果にみちびくにいたりました。
 昭和天皇は、中国侵略でも対米美開戦決定でも、絶対の権力者として、また軍隊の最高責任者として、侵略戦争を拡大する方向で積極的に関与しました。
さらに、個々の軍事作戦に指導と命令をあたえ、敗戦が予測される四五年にはいっても戦争継続に固執して、惨害をひろげました。
 新聞は、「東亜解放戦の完遂へ」(「東京日日)、「支那事変の完遂と東亜共栄開催立の大義」のため、
「反日敵性勢力を東亜の全域から駆逐」(「朝日」)と、侵略戦争推進の立場をはじめから鮮明にしました。
日本の新聞、ラジオ放送などの報道機関は、戦争中、天皇制軍部の「大本営発表」を国民におしつけ、最後まで侵略戦争をあおりつづけました。
 国民は、「聖戦」と「愛国」の名のもとに、侵略戦争にかりだされ、侵略戦争の末期には、中学生にいたるまで勤労動員をうけ、軍需工場などで働きました。
衣類や食糧の不足、父や夫や息子が戦死した悲しみ、前途への不安などを語りあうことにさえ、当局は監視の目をひろげ、処罰しました。
天皇制軍部や高級官僚とむすびついた大資本家たちは、資金や資材をわがものとし、巨大な利益をおさめていました。
こうした状況は、国民のあいだに戦争と天皇制政府への不安と批判の気分を生みだしました。
 また、朝鮮で徴用、徴兵を実施し、多数の朝鮮人や中国人が日本の鉱山、工場で強制労働させられ、東南アジアの人びとも「ロームシャ」として、強制労働をしいられました。
軍の指揮・管理のもとでいわゆる「従軍慰安婦」などが植民地や占領他の住民をふくめて組織され、非人間的行為を強要されました。
さらに、天皇の軍隊は、中国をはじめとするあらゆる占領地で、現地住民にたいして略奪、凌辱、虐殺、細菌兵器の使用、人体実験などの残虐行為をくりかえしました。
これらは、国際法上も人選上もゆるされない犯罪行為であり、今日も、戦争犯罪としてきびしく告発されているものです。
 開戦にさきだって、十二月、七百人をこえる人びとが検挙され、開戦翌日の十二月九日には、金子健太、宮本百合子、守屋典郎ら三百九十六人が「共産主義者」としていっせいに検挙、拘束されました。
共産主義者の名は、戦争反対とつながっていたのです。
 この時期にソ連から中国にわたった野坂参三は、中国共産党の根拠地延安で、中国国民政府下の桂林や重慶で鹿地亘によって創立された
「在華日本人反戦同盟」に呼応するかたちで、「在華日本人反戦同盟延安支部」をつくり、四一年五月には、延安に「日本労農学校」をつくりました。
ここには、天皇崇拝と軍国主義思想を教えこまれた日本軍将兵の捕虜があつめられ、平和・民主教育をほどこす活動かおこなわれました。

 《日本軍国主義の敗北》

 アジア・太平洋地域に侵略を拡大した日本は、開戦後五ヵ月で、マレー半島、ビルマ(現ミャンマー)、フィリピン、ジャワ、ニューギニアなど東南アジアの全域を占領し、アジアの人びとに重大な犠牲と損害をあたえました。
 やがて日本軍は、反攻を開始した米軍によって、一九四二年六月のミッドウェー海戦に敗れ、それ以後、つぎつぎと敗北と退却をつづけました。
米軍は、四四年七月から九月にはサイパン、グアム、テニアンのマリアナ諸島を占領し、ここに日本本土を爆撃する基地をつくりました。
日本車は、四五年二月、フィリピン・ルソン島を米軍にうばわれ、三月には硫黄島の守備隊二万人が全滅し、
中国でも、四五年寄から八路軍の反攻がつよまり、日本軍の後退がはじまりました。
 連合国側は、四三年十一月、アメリカ、イギリス、中国首脳によるカイロ宣言を発表し、戦後処理の原則として領土不拡大を宣言するとともに、
侵略によって日本がうばった地域の返還、朝鮮の独立などをうちだしました。  さらに、アメリカ、イギリス、ソ連の三国首脳は、四五年二月、ソ連のヤルタで首脳会談をひらき、国際連合の創立などをきめると同時に、対日秘密協定をとりかわしました。
ヤルタ協定は、対日戦での犠牲をへらすためにソ連の参戦をもとめたアメリカの要望にしたがい、
ソ連がドイツ降伏後二、三ヵ月後に対日参戦すること、参戦の条件として、千島列島をソ連にひきわたすことなどを密約したものでした。
日本の歴史的な領土である千島列島のひきわたしは、カイロ宣言でうたい、四五年七月に日本の降伏の条件をしめしたポツダム宣言にもひきつがれた
「領土不拡大の原則」にそむくもので、第二次世界大戦の戦後処理に大きな不公正をもちこむものでした。
 四五年四月、米軍の沖縄上陸が開始され、六月、沖縄の日本軍は壊滅し、多数の住民が戦火の犠牲となりました。
マリアナ諸島の基地からの米軍爆撃機B29による本土爆撃も四四年十一月からはじまり、四五年夏には、東京、大阪など大都市はもとより、
中小都市にいたるまで無差別爆撃による空襲で壊滅的な打撃をうけました。
四五年八月六日、広島に、つづいて九日、長崎に、アメリカの原爆が投下され、同日、ソ連が対日参戦しました。
 こうしてヽ四五年八月十五日ヽ天皇制政府はポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏しました。
 十五年にわたる侵略戦争は、日本人の軍人軍属などの戦死者二百三十万人、民間人の国外での死者三十万人、
国内での空襲等による死者五十万人以上とされ、三百十万人以上のおびただしい犠牲という惨害を国民にもたらしました。
 また、日本軍国主義の侵略戦争は、アジア・太平洋地域の各国に二千万人以上の犠牲者をふくむ史上最大の惨害をもたらしました。
各国の政府発表や公的な記録では、中国一千万人以上、ベトナムニ百万人、インドネシア四百万人、フィリピン百十一万一千九百三十八入、
インド百五十万人、ニュージランドー万一千六百二十五人、オーストラリア二万三千三百六十五人、そのほか泰緬鉄道建設に投入された各国の労働者七万四千二十五人が犠牲となっており、
ミャンマーやシンガポール、朝鮮などをのぞく、これら諸国だけでも犠牲者は、一千八百七十二万から二千八百七十二万人をかぞえます。
さらに日本の植民地支配のもとにおかれた朝鮮では、三十六万四千百八十六人が軍人・軍属として戦場にかりたてられ、
死亡・行方不明者十五万人(推定)、強制連行などによる死者・行方不明者をふくめ二十万をこえる人がとが犠牲となりました。
 広島・長崎への人類史上初の原爆投下、本土空襲や沖繩戦によるおびただしい犠牲者、東京、大阪など大都市はもとより中小都市にいたるまで、文字どおり日本全国は焦土と化しました。
とくに広島、長崎で二十数万の命を奪い、街を壊滅させたアメリカの原爆投下は、大規模、無差別な殺りくと破壊、今日にいたるまで持続する深刻な被害をもたらしました。
原爆投下は、残虐兵器による非戦闘員の殺傷を禁じた当時の国際法、人道法にも反した戦争犯罪です。
アメリカの原爆投下は、第二次世界大戦後の世界でソ連をおさえて優位にたつという思惑と威嚇によるもので、被爆者は、アメリカの戦略の犠牲者でした。
 沖縄は、米軍の上陸によって直接の戦場となり、県民は重大な犠牲をうけました。軍当局は、沖縄県民を無残な「決戦」にひきずりこみ、県民の三分の一に近い十数万人が命をうばわれ、九万人の軍人が犠牲となりました。
せまりくる米軍との戦闘のさなかに、日本車軍によって自決をせまられたり、「スパイ容疑」などで虐殺されたりした県民も少なくおりませんでした。

 《歴史に刻まれた日本共産党の戦前史》

 治安維持法による弾圧が原因で命を落とした人は、判明しているだけでも千六百八十二人にのぼりました。
日本軍国主義の敗北をまえに、四三年三月に党中央委員だった国領五一郎(四十歳)が堺刑務所で、四五年三月に市川正一 五十三歳)が宮城刑務所で、獄死においこまれました。
また、哲学者の戸坂潤が敗戦直前の四五年八月九日に、三木清は敗戦直後の九月二十六日にそれぞれ獄死しました。
治安維持法によって送検された人びとは、一九二八年から四五年までのあいだに七万五千人をこえ、逮捕者は数十万人をかぞえました。
さらに、治安維持法による弾圧と一体になっていた予防拘束や警察への拘留は、数百万人におよびました。
これは、専制政治の無慈悲な野蛮さとともに、平和と民主主義をもとめた日本国民の抵抗とたたかいの規模、勇敢さをしめすものです。
しかし、日本政府は、治安維持法による弾圧の犠牲者などへの謝罪と賠償すら、いまだにおこなっていません。
 戦争の悲惨な結果と、主権在民への戦後の政治体制の根本的変化は、あらゆる弾圧にもかかわらず、
天皇絶対の専制政治と侵略戦争に反対した日本共産党とその党員たちこそ、真の愛国者、民主主義者であったことをしめしました。
日本共産党以外のすべての政党が侵略戦争に協力、加担したなかで、人類史の進歩への確信に燃え、理性の光にてらされて、
命がけで侵略戦争に反対し、主権在民の旗をかかげつづけた党が存在したことは、日本の戦前史の誇りです。
 二十世紀の平和と進歩の流れは、戦前の日本においても、日本共産党と多くの民主主義者のたたかいのなかに脈々と流れていました。
戦後かちとられた日本の民主主義は、日本社会の発展のなかにその根をもち、そのなかから生みだされてきたものです。
ここに、日本共産党の戦前のたたかいの国民的な意義があります。
しかも、十五年にわたる戦争が侵略戦争であったという歴然たる事実すら歴代自民党政府がみとめず、
二十一世紀になっても、戦争責任がアジア諸国からきびしく問われつづけているなかで、
日本共産党の戦前史は、国際的にもかけがえのない意義をもっています。
反戦平和をかかげ、たたかいぬいた党だからこそ、アジアの諸国民とほんとうの平和・友好の関係をきずく立場をつらぬけるし、
その歴史は、アジアの人びとからの信頼の基盤ともなっているのです。
 こうして、戦前の日本共産党と党員たちの不屈のだたかいは、世界と日本の歴史にしっかり刻みこまれたのでした。


3、《付随資料・広島県における反戦運動》
 「前衛」 1984.7.特大号 〈創立62年〉わが地方の日本共産党史より

日本共産党の六十年 広島県党史

一 戦前のたたかい

  軍事県として成長した広島

 広島県は戦前、侵略戦争の重要な拠点とされた。
 広島市は、日清戦争のさい、大本営がおかれて以来、派兵・補給・兵站基地としてわが国有数の軍都となり、
第五師団司令部、陸軍運輸部、陸軍の兵器、被服、糧抹の各支廠、さらに太平洋戦争末期には第二総軍司令部、これらに付随する軍事施設が市内の要所を占めてきた。
 市の海の玄関口・宇品港からは多数の兵士が戦場にかり出され、山陽本線と宇品港を結ぶ国鉄宇品線もそのためにつくられた。
 呉市は、海軍鎮守府と東洋一の兵器廠・呉海軍工廠がおかれた軍港都市であり、
江田島の海軍兵学校とともに日本海軍の根拠地となった。
呉海軍工廠は最大時三万人を超える労働者を擁した。
 また、広島県は平均耕作反別が四反(四〇e)に満たない全国有数の零細農民県であり、移民県=人口流出県として知られていた。
これら零細小作農民に寄生する地主階級、軍と結ぶことによって急成長をとげた一連の御用商人、企業群が県下の政財界に抜きがたい地位を築き、
大多数の勤労県民は無権利状態におかれて、過酷な収奪と搾取のもとできびしい窮乏におちこんでいた。
 軍事県としての性格はイデオロギー面でも刻印されていた。日清戦争、日露戦争のゆがめられた歴史は、帝国主義的国民統合の有力な思想的武器であったが、
広島県では天皇来広による大本営設置が、天皇制と侵略戦争を賛美する格好の機会として利用された。
 そうした皇民教育をすすめるうえで広島文理大と広島高師が一定の役割をになったことも見落とすことはできない。
 広島、呉が軍都として巨大化する一方で、宇品港や呉港は商業港としての発展をはばまれ、漁業規制、日常生活の規制など、市民の多くはさまざまな不利益をこうむった。
県民のかくれたエネルギーを引き出し、天皇制打倒、寄生的土地所有の廃止、侵略戦争反対の闘争を組織することは、わが県労働者階級の困難であるが光栄ある任務であった。

  労働運動と社会主義運動のはじまり

 日清戦争後の一八九七(明治三十)年、高野房太郎、片山潜らによる労働組合期成会、鉄工組合の結成をうけて、
広島県では一八九九(明治三十二)年三月ごろ、鉄工組合呉支部が、県下初の自主的労働組合組織として結成された。
二年後の一九〇一(明治三十四)年には工業団体同盟会会長の村松民太郎が呉海軍造兵廠(のち呉海軍工廠)に入廠し、
五月ごろまでに八〇〇人の会員を獲得するなど同会の拡張をはかった。
こうした組織化の直接・間接の影響のもとに、わが国の明治期労働運動史に大きな足跡を残した大ストラィキが展開された。
新任廠長の極端に厳格な労働者規制に反発して起こった最初の大ストラィキ(一九〇二〈明治三十五〉年七月)は、片山潜が『労働世界』で高く評価している。
一九〇六(明治三十九)年八月、二度目の大ストラィキは日露戦争時に設けられた請負加給廃止反対の要求を実現したが、二四人が検挙され、うち一一人が治安警察法違反で受刑する大弾圧となった。
一九一二(明治四十五)年四月の参加者一万二〇〇〇人という空前の太ストライキは、検挙者三〇〇人の大弾圧で労働者側の一方的敗北に終わったが、労働者階級のたたかいの先駆をなすものであった。
 労働組合運動とともに社会主義思想の影響も県下に次第におよんできた。
一九〇三(明治三十六)年一月、社会主義協会の片山潜と西川光二郎が来県し、二十日広島、二十一日呉で県下初の社会主義演説会が開かれた。
呉の演説会は村松民太郎の協力もあって、昼の開会にもかかわらず一〇〇人余が集まり、その夜、労働者有志三〇人余と懇談している。
 この年十一月、幸徳秋水、堺利彦らが日露非開戦をとなえて「平民新聞」を創刊し、県下でも一定の普及をみた。
この「平民新聞」の読者を頼りながら、小田頼造と山日義三(孤剣)によって社会主義伝道行商がおこなわれたが、
県下では一九〇五(明治三十八)年一月八日から十五日までの八日間、山陽道筋で読者との交流、社会主義書籍の販売(一〇〇冊余)、社会主義演説会(十三日、海田市)がおこなわれた。
 しかし、こうした社会主義思想の広まりも、組織的な運動にまでいたらず、一九一〇(明治四十三)年の大逆事件によって「冬の時代」を迎えると、
県下に点在した社会主義者たちも時代にとざされ、本格的な労働運動、社会主義運動の高揚は「米騒動」以後の新しい時代をまたねばならなかった。

  県党組織の確立まで

 一九一八(大正七)年夏、全国を席捲した「米騒動」は、県下では八月九日から二週間余にわたり四市・一九町・二〇村で展開された。
十四日、呉市での三万人の蜂起、騒動箇所数二七(全国第四位)、軍隊出動一二ヵ所、のべ六千余人(全国第一位)などの数字が示すように、県下の「米騒動」は全国的にも激しいものであった。
 「米騒動」を機に、各地で労働争議、小作争議が頻発するようになり、労働組合、農民組合も次第に組織されていった。
なかでも、一九二一(大正十)年十一月結成の総同盟因島支部(因島労組)は、翌年県下初のメーデーを挙行し、二五(大正十四)年には一ヵ月にわたる大ストライキを展開した。
このほか、二四(大正十三)年一月には、のちに日本農民組合県運の中核となる神田農民同盟(現賀茂郡大和町)が上岡利夫らにより結成され、
部落解放運動の分野では広島県水平社が二三(大正十二)年七月に結成されるなど、各分野で組織化がすすめられた。
 一九二〇年代なかばにはいると、反共と労資協調をかかげる右派と、階級闘争を志向する左派の対立が顕在化し、総同盟第一次分裂によって一九二五(大正十四)年五月、日本労働組合評議会が結成されたが、
県下では広島合同労働組合、松永労働組合、広島鉄工組合がこれに加盟し、戦闘的労働組合運動の中心をになった。
一方、普通選挙の実施を前に無産政党結成の動きが本格化し、二五年七月、政治研究会広島支部が誕生、二七(昭和二)年二月、労働農民党広島支部が結成された。
 このころまで県下に共産党の組織はつくられていなかったが、科学的社会主義に共鳴する革命的青年が育っていた。
一九二二(大正十一)年七月、広島市出身の東大生米村正一が吉川長太郎、枡井盛之らと社会科学研究会をつくって「共産党宣言」など社会主義文献の学習をおこなった。
その後、広島青年革新会(二三〈大正十二〉年四月結成)、水平社内の革命的青年による全国水平社青年同盟広島支部(二三〈大正十二〉年十二月結成)、
無産者新聞広島支局(二五〈大正十四〉年十月設置)などの活動、また前述の評議会、労働農民党の活動のなかで共産主義を志向する勢力が着実に増大していった。
こうして二八(昭和三)年の総選挙(二月二十日)前、来広した共産党員稲村隆一の要請をうけて、末元義彦が玖島三一ら数人を共産党員の適格者として推薦、党組織の結成が目前に迫った。
 しかし、一九二八(昭和三)年の三・一五事件で活動家二〇人が検挙され、四月十日には労働農民党、評議会が結社禁止処分にあうなど、共産党とその影響下の組織に弾圧が集中し、運動は大きな転機に立たされることになった。
 しかも、労働農民党の再建運動が当局の弾圧とコミンテルンの当時の合法政党無用論に災いされて挫折すると、
佐竹新市ら合法派は政治的自由獲得労農同盟に結集する戦闘的活動家とたもとをわかち、一九二九(昭和四)年二月、独自の合法政党中国無産党を結成した。
弾圧により組織の合法的存在を奪われた革命的活動家たちは、県内での日本労働組合全国協議会(全協)や共産党組織の確立を模索して新たな出発をはからねばならなかった。

  党組織の確立と反戦平和のたたかい

 一九二九(昭和四)年七月、末元玄聴、玖島三一らはピクニックを装って広島市郊外の三滝観音で共産党、全協支持の会合をひらいた。
これはまもなく官憲の探知するところとなり、十月いっせい検挙され、四人が治安維持法違反の実刑判決を受けた。
革命的活動家の結集をはかる最初の企画は失敗したが、翌年十月、市川忍、岨常次郎らによって全協広島地方協議会準備会が結成された。
三一(昭和六)年一月、市川は上京して全協中央本部と連絡をつけ、その承認のもとに三月九日、全協広島地協が正式に発足した。

このころ、大阪で活動中の古末憲一が呉市の社会主義的青年の要請で帰郷し、発足直後の全協の拡大につとめ、
大量解雇の発表で動揺する呉海軍工廠の労働者への働きかけをおこなった。
しかし、組織活動が緒についたばかりの五月四日、総検挙者百敷数十人(市川ら四人に実刑判決)におよぶ広島地方最初の大弾圧(五・四事件)で組織は壊滅的打撃を受けた。
 検挙をまぬがれた岨、古末、寺尾一幹はただちに再建に着手し、中央との連絡をつけるため岨を東京に派遣した。
七月上旬、岨は東京で入党して帰広、三人で日本共産党中国地方委員会準備会を結成した。
九月末、党中国地方委員会が広島市宇品の畑の中で正式に発足(翌年二月広島地方委員会と改称)し、
古末=広島市、岨=呉市、松本武司=国鉄、寺尾=機関紙の任務分担を決定した。
まもなく岨は共青中央委員として上京、古米が中国地方委員会の責任者となった。
 発足直後の党はおりから始まった中国への侵略戦争に反対するたたかいに全力をあげた。
九月下旬、党は共青、全協とともに青年行動隊員を組織し、広島市内で「満洲出兵絶対反対」などのビラを前後一〇回にわたり配布した。
なかでも、年末の第五師団出兵にさいしては、前田文二、井口俊雄らが宇品港にむけて行進する出征兵士の隊列にビラを投げこんだり、
タクシーからまくなど、憲兵の目をかいくぐって細心な注意をはらいながらも大胆な活動を展開した。
 党組織は呉海軍工廠にも結成された。その工場新聞「唸るクレーン」は一九三二(昭和七)年一月に創刊され、
第三号からは三〇〇部、一〇〇〇部発行という高い目標もかかげられた。
また、大量解雇への協力などで御用組合になりさがった海工会の民主化をめざして、全協の工廠分会とともに革新同盟を結成、
海工会の役員選挙に党員重田安一を当選させ、海工会出服部理事上田稔を全協に組織した。
 支配階級の心臓部ともいうべき海軍内の組織化もすすめられた。

 一九三一(昭和六)年八月、一年余にわたる社会科学研究会の活動が発覚して検挙され、十月兵役免除処分となった阪口喜一郎、平原甚松によってそれは着手された。
除隊役二人は、共産党への入党を前提に呉海軍水兵対策委員会を結成し、年末には党呉地区委員会貴任者寺尾一幹との連絡に成功、ただちに入党した。
翌年二月、機関紙「聳ゆるマスト」が創刊された。日本の解放運動史上はじめて現役兵士に反戦、反軍をよびかけるため発行された細胞新聞であった。
その印刷と配布には、若い女性をふくむ呉地区の労働者や青年の献身的な協力があった。
発行部数は四月の第四号は約一〇〇部におよんだ。戦前の軍隊にあってもこのようなたたかいがすすめられたのである。
また、共産青年同盟呉地区は「煙る港」を発行してたたかった。
『日本共産党の六十年』には「これらの勇敢な反戦闘争は日本共産党のかがやかしい伝統の一部となっている」と記されている。
 党の結成と前後してプロレタリア文化運動も発展した。
一九三一年一月、中川秋一、丸木位里らによる広島プロレタリア劇場の創設をはじめ、文学、美術、科学など各分野で組織化がすすみ、
それらの連合体ナップ(全日本無産者芸術団体協議会)、ついでコップ(全日本プロレタリア文化連盟)も結成された。
三一年十月二十八日、ナップ広島地協主催の「無産者の夕」(広島市寿座)には一〇〇〇人が参加、この地方における戦前の進歩的民主的陣営最大の集会となった。

  弾圧と抵抗

 県党組織にたいする最初の大弾圧がいわゆる三・五事件であった。
 一九三二(昭和七)年三月五日、前日の古末憲一の検挙につづき広島でいっせい検挙が始まり、呉、松永、福山、府中に波及、三月で三〇四人検挙、うち二七人が起訴された。
党の再建は事件の翌日来広した岩村大治、三好惣次によって着手されたが、七月に岩村、八月に三好も検挙され、かわって錦織彦七、滝川恵吉が中国地方オルグとして末広した。
しかし十月三十日、熱海会議での錦織の検挙につづいて十一月二日から県下で五四人が検挙(一〇・三〇事件)され、二二人が起訴された。
横須賀海軍の組織に着手していた阪口、平原、呉海軍の指導にあたっていた木村荘十、現役下士官・兵六人もこのとき検挙された。
うち阪口喜一郎は翌年十二月二十七日、未決のまま広島刑務所で獄死。享年三一歳であった。
五〇年目の命日にあたる一九八二(昭和五十七)年十二月二十七日、阪口喜一郎の顕彰碑が彼の郷里大阪府和泉市黒鳥町に建立された。
 組織の再建は、一〇・三〇事件で検挙後釈放され水戸信人により着手され、一九三三(昭和八)年四月、党オルグ関谷源一を迎え広島県再建委員会を結成した。
その後七月に広島県オルグ会議と改称、翌月機関紙「突撃隊旗手」を創刊、また十月には呉海軍工廠むけ「第二唸るクシーン」も創刊した。
しかし、翌年四月二十六日から七月までに一三ー人が検挙(四・二六事件)され、党、共青、全協の組織は壊滅状態となった。
 この弾圧のさなかの六月、吉本康二ら自治学生会の指導のもとに旧制広島高校生徒会が反動的教授の追放を要求しストライキをおこなった。
「広高赤化事件」と呼ばれたこのたたかいでは、卒業生七人を合む四九人の広高生が検挙され、知的エリートの卵とされていた学生のあいだにも党の権威、影響力が小さくないことを示した。
 壊滅させられた党の再建は、党関西地方委員会と連絡をとった吉本康二らによってすすめられたが、同年九月の弾圧により挫折させられた。
一九三五(昭和十)年、三六年の人民戦線運動へのわずかな可能性も、三六(昭和十一)年十二月五日、平原甚松、山本正一ら一一人の検挙によりついえさった。
その後の県民を待ちうけていたのは、中国にたいする全面侵略戦争と太平洋戦争、そして原爆投下の惨劇であった。
原爆によって「聳ゆるマスト」の発行・配布に協力した花野藤枝、安田裕俊、松本京一、井上満らが犠牲になった。
戦前の党指導者で獄死した市川正一も広島高師の出身であった。
 戦前、日本共産党以外のすべての政党は侵略戦争を支持し、共産党員は「非国民」「国賊」と恐れられる反共的風潮のなかで、
一九三一年七月「『共産党員として活動してから死にたい』という私の念願はついにかなえられ」入党した故古末憲一(一九七五〈昭和五十〉年六月十四日没)はつぎのようにのべている。
  「ふりかえると十九歳で学生運動に参加してから検挙される二十四歳までの五年間、あの凶暴な天皇制の弾圧のなかでよくやったものだ。
まさに青春の于不ルギーを十分に発揮したように思う。つづく刑務所での六年半は灰色の青春であったが、これまた戦後の党大飛躍の準備期として意義のある生活であったように思う。
しかし呉や広島でともにたたかった若い同志たちで敵に捕えられて殺された海軍水兵の阪口喜一郎、宮内謙吉をはじめ、病死した同志、原爆で殺された同志を合わせると四十二名にのぼっている。
 今口数十万の強大な党として民主連合政府の樹立に向かって前進している日本共産党の礎はこれらの多くの若い戦士たちの犠牲によって築かれたことを忘れることはできない」
     (『前衛衛』一九七一年十月号)。

二 敗戦後の十数年間

  敗戦の混乱のなかでの党の再建

 一九四五(昭和二十)年八月十五日、日本帝国主義は、「ポツダム宣言」を受諾し連合国に降伏した。
占領軍は相次いで一連の「民主化」措置を実施する一方、原爆によって廃墟と化した広島への外国報道関係者の立ち入りや原爆にかんする報道をきびしく規制した。
また、江田島の秋月弾薬庫、ついで川上弾薬庫、灰ケ峰通信施設、呉艦艇碇泊地などを次つぎと接収した。
 県民の多くは、戦争で親や夫、家族を失い、生き残った者は深刻な食糧難、住宅難や失業、前途の見通しのたたない不安のなかでどん底の生活に苦しめられていた。
なかでも、広島市はアメリカの原爆投下によって壊滅し、市民の多くは肉親を失い生活を破壊され、原爆症に苦しんでいた。
しかし政府や県はなんら対策を講じず、資本家は官僚とともに軍需物資を隠匿して生産をサボタージュし、インフレによる物価値上げで不当な利益をむさぽって社会を混乱にねとしいれていた。
 自己を犠牲にして戦争に協力させられた県民の多くは、あらためて戦争を見直し、軍閥や財閥、日本の支配層に怒りをもち、生活と権利をまもるために立ち上がった。
情勢は、広島における共産党組織の再建を強く求めていた。
 治安維持法などが撤廃されて一九四五年十月、宮本顕治、徳田球一ら政治犯が釈放され、十二月に第四回党大会がひらかれた。
大会に出席した岡田重夫、川本寿は、十二月十日、庄田忠二、山代巴、徳毛宜策と芦品郡府中町(現府中市)で会合をひらき、党広島地方(県)委員会の結成を確認、責任者に岡田を選んだ。
その夜、同町の朝日座で党の旗上げと戦争糾弾をかねた備北人民解放連盟結成大会を開催し、党からは岡田が、社会党(十二月五日、県支部連合会結成)からは高津正道が演説に立った。
翌一九四六(昭和二十一)年から四七(昭和二十二)年にかけては、日本自由党、日本進歩党の県支部や広島県協同民主党など保守政党も結成された。
 再建された県党組織はまず、戦争による荒廃から人民の生活をまもる活動と労働組合、農民組織の建設に着手し、その活動のなかで党組織をつくり拡大することに全力をあげた。
戦前の過酷な弾圧によって投獄され、出獄後も沈黙していた人びととの連絡がつぎつぎと回復され、党は県内各地に再建されていった。

  急速に高まる県民のたたかい

 三菱重工業の三原車輛製作所、浅野樹脂、敷名造船、北川鉄工所、中国新聞、東洋工業、日本製鋼、電産など重要産業の労働組合が一九四五年十一月から翌年二月までに組織され、 国鉄、全逓なども組合を結成、これらの職場に党細胞(支部)が建設された。
なかでも三原車輛の従業員組合は戦後の闘争で先駆的役割を果たした。三月のストライキでは、首切りを撤回させて団交権確認、賃上げ、所内機構民主化などをかちとり、党組織は西日本最大の工場細胞へと発展した。
五月には東洋工業労組もストライキをおこなうなど、労働者の闘争は急速に高まった。
 農民運動では、一九四五年十二月、御調郡久井村で農民委員会を組織して供米管理闘争を展開し、
翌年二月には三原農民連盟と久井村農民委員会の共同提唱により県下農民団体代表者会議をひらき、
広島地方農民協議会を結成、九月に日本農民組合広島県連合会が発足した。
 文化運動では、四五年八月末、山代巴らを中心に府中文化連盟が活動を開始、翌年には広島青年文化連盟(委員長大村英幸、のち峠三吉)、広島県労働文化協会(会長中井正一)が誕生した。
部落解放全国委員会広島県連合会は、四六年十一月に確立された。
 戦後第一回の総選挙は一九四六(昭和二十一)年四月、全県一区・三名連記制で、初めて婦人が参政権をえておこなわれ、党は岡田重夫、玖島三一の二候補をたててたたかい、三万六三〇〇票(一・九四賀)を獲得した。
 五月十二日にひらいた地方(県)党会議は、総選挙の結果をふまえて党員五倍加をきめ、民主人民戦線の即時結成を訴える声明書を発表した。
 五月十四日、共・社両党、労働・農民組合などが参加して民主人民連盟結成準備会がひらかれ、同月二十六日の食糧メーデーに結成の運びとなったが、
社会党が別組織をつくったり一方的に解散を決議するなどしたため、広島県民主連盟はほとんど活動せず消滅した。
しかし県民の闘争は高まり、四六年末から翌年の初めにかけて広島地区生活権確保労農国民大会(十二月十七日)、
危機突破吉田内閣打倒国民大会(一月二十八日、共・社両党、広島地区労共同闘争委員会主催)をはじめ、
福山、府中、尾道、三原、呉、高田郡吉田で二・一ストヘ向けての労働者、農民、市民の集会が相次いでひらかれた。
県下七市町一九回の大会にはのべ四万人が参加し、最低賃金制の確立、労働基準法実施、生活権擁護、吉田内閣打倒などの要求がつぎつぎ決議された。
それらは、二九項目の共通要求スローガンにまとめられ、八万四〇〇〇人の労働者がスト突入体制を確立したが、マッカーサーの中止指令によってゼネストは不発に終わった。

  総選挙での党の躍進と反動期の始まり

 二・一スト禁止後、アメリカ占領軍はポツダム宣言を公然とふみにじって日本をアジア侵略の前進基地とする政策をすすめ、
日本人民の闘争に公然たる弾圧と分裂工作、反共攻撃を強めた。
スト禁止への怒りのなかで、一九四七(昭和二十三)年二月、一四万人の労働者を組織する広島県労働組合会議(議長徳毛宜策)が結成された。
四月には、衆参両院議員選挙、いっせい地方選挙が同時にたたかわれ、戦後初めての公選知事の選挙には、共、社、県労が統一して中井正一をたて三〇万余票を獲得したが惜敗した。
同じく戦後初の県市町村議選には、党から県議八人、市議一〇人、町村議六人が立候補し、天道正人(安芸郡府中町)、大田悦郎(御調郡今津野村)が当選した。
 同年六月七日、尾道でひらいた地方(県)党会議は無記名投票で地方(県)委員を選出、責任者には中村定男を選び、
第四回、第五回党大会できめられた「大会宣言」と行動綱領にもとづいて、ポツダム宣言の完全実施、「民主化」の徹底と県民生活擁護のだたかいを強化する方針を決定した。
翌四八年五月八日の第七回県党会議は県委員長に徳毛宜策を選んだ。党は、戦後いちはやく再建された日本青年共産同盟(のち日本民主青年同盟)の組織を確立、強化するとともに、
一九四八(昭和二十三)年三月八日、広島で初の国際婦人デーの集会をひらくなど婦人運動の発展にも積極的に貢献した。
 一九四八年七月、マッカーサーの一片の書簡と政令二〇一号で全官公労働者から団交権とストライキ権が奪われたが、このときの労働大臣は社会党の加藤勘十であった。
社会党は労働組合のなかに「反共連盟」や「民主化同盟」をつくり労働戦線の反共分裂をすすめていた。
党は、政令二〇一号に反対してストをたたかう松山機関区労働者を支援し、スト破り派遣阻止闘争を展開したが、占領軍の指揮によって不当に弾圧(宇品事件)され逮捕者を出した。
この年から翌年にかけて、県内では労働者、農民のたたかいとともに、税制民主化同盟(のち生活擁護同盟)が各地で組織され、重税反対、物価値上げ反対闘争が高まった。
この高揚を反映して四九(昭和二十四)年一月の総選挙では、党から一区丸山芳一、二区原田香留夫、三区野村秀雄が立候補し、丸山、原田が次点になるなど前回の得票を大きく上回り、全国では三五議席を護獲得した。
この年九月にひらいた第九回県党会議は、県委員長に岡部弘一(一九五〇〈昭和二十五〉年三月、任務放棄で除名、のちに特審局のスパイ)、翌五〇年五月の第十回県党会議は、徳毛宜策を県委員長に選出した。
 一九四九(昭和二十四)年の中国革命の勝利、総選挙での日本共産党の躍進に直面して、アメリカ帝国主義の対日政策はますます凶暴化し、松川事件など一連の謀略事件もでっちあげられた。
県内でも占領政策違反の名によって党活動家を軍事裁判にかけたり、呉市広のCIC(米陸軍対諜報部隊)に連行して脅迫するなど弾圧が強まった。
 日本製鋼広島製作所では六月、従業員の三分の一にあたる六百敷十人の首切りを発表し、組合はただちにストラィキにたち上がった。
米軍広島軍政部長は「米軍管理工場」であることを理由に工場閉鎖を通告し、工場内にたてこもった組合員に退去を命令した。
そして約二五〇〇人の警官を動員して弾圧し、多数の負傷者や検挙者をだした。この闘争は、当時でも全国的に例をみないほど苛烈な大争議であり、
アジアの支配をたくらむアメリカ占領軍の日本独占資本復活の政策、日本人民にたいする攻撃が表面化してくる時期のだたかいとして重要な意義をもつものであった。
 この日鋼争議を契機に、それまで分裂策動をくりかえしていた反共「民同」勢力は、広島県労働組合協議会(県労会議が四八年六月改組)を脱退して広島県労働組合連絡協議会を結威し、労働戦線の分裂は決定的となった。
 この年の四月、吉田内閣は占領軍の指令にもとづいて「団体等規正令」を公布して共産党や民主団体への圧迫を強める一方、
五月には定員法を成立させて、七月に国鉄、八月に全逓など大量の「行政整理」強行、さらに九月に三菱広船、十一月には三菱三原車輛などで「企業整理」が強行され、大量首切りがおこなわれた。

  朝鮮戦争、レッド・パージ、「五〇年問題」

 党は第六回党大会で民族独立の要求をかかげ、一九四八(昭和二十三)年には、民主民族戦線の方針を明らかにしてたたかった。
五〇年六月、アメリカ占領軍は、党の中央委員全員を公職迫放し、朝鮮戦争開始の翌日から「赤旗」(当時は「アカハタ」)の発行を禁止した。
 広島県では、党県委員会機関紙「ひろしま民報」をはじめ細胞機関紙など二三紙が発行停止となった。
七月から十一月の間には、NHK広島・尾道を皮切りに中国新聞、三菱三原車輛、日立造船、広島電鉄、教員など二八六人のレッド・パージが強行され、共産党員と支持者の不当な首切りが、社会党一部幹部や民同派の協力によっておこなわれた。
党は一月のコミンフォルム批判、占領軍の弾圧、そして分裂によって十分な反対闘争を組織できず、重要な経営と労働組合への影響が大きく失われた。
 党中央を解体し、党を分裂させた徳田派は、異なった意見をもつ中央委員を排除し、「臨時中央指導部」を任命した。
そして県営会議で選ばれた正規の党機関である広島県委員会を無視して、「広島県臨時指導部」をつくり、
のちに全国統一委員会に参加した広島県委員会とニつの党組織が激しく対立するという不幸な状態をつくりだした。
この分裂は大衆組織にも波及し、ソ連・中国両共産党の大国主義的干渉も加わって事態は一層深刻となった。
徳田派は「四金協」をひらいて分裂をさらに激化させ、「五全協」で「五一年綱領」による極左冒険主義の方向を強化した。
そのため分裂した双方の個々の党員や党組織の献身的な努力にもかかわらず党と県民との結合はいちじるしく弱められた。
一九四九年一月の総選挙で八万七〇〇〇票あった県下の得票は、五二(昭和二十七)年十月の総選挙では一万五六〇〇票に激減した。
 一九五五(昭和三十)年七月にひらかれた「六全協」は、五〇年以来の分裂を解決し団結を回復するうえで重要な一段階となった。
中国地方委員会は九月、分裂した双方の側が集まって代表者会議を開催、ついで広島県党代表者会議をひらいて統一した県臨時指導部を選び、責任者に徳毛宜策を選出した。
翌五六(昭和三十一)年二月の第十三同県営会議で採択された「広島県における党活動の総括と当面の任務」は、
「六全協」の制約から「五一年綱領」の承認を前提とするなど重大ないくつかの誤りと不十分さはあったが、
党内の清算主義や敗北主義、自由・分散主義とたたかい、戦後の県営のあゆみや「五〇年問題」、党の分裂の経過や原因を分析し、
大衆運動の方向を示すなど、その後の県党の団結と前進にとって重要な役割を果たした。
県党会議は県委員長に徳毛宜策を選び、同年十二月の第十四回県営会議では、県委員会書記(責任者)に松江澄(のち反党分派活動で除名)を選出した。
  原水爆禁止、全面講和の闘争

  歴史の証人「ヒロシマ」

 一九四五(昭和二十)年八月六日の広島への原爆投下は、日本の敗戦が確定的となり降伏準備がされているとき、
戦後の世界支配でソ連をおさえて優位にたとうとするアメリカ帝国主義によっておこなわれた。
広島はアメリカ帝国主義の世界支配の野望により、世界最初の被爆地とされた。「ヒロシ マ」こそ核戦争を告発する歴史の証人である。
 アメリカ占領軍のプレスコードにもかかわらず、原爆投下直後から被爆者を中心にその怒りが記され語られていった。
正田篠枝の歌集『さんげ』や大田洋子の小説『屍の街』などもそのひとつである。
 一九四九年以降、戦争の危機が高まるにつれて被爆者・市民は戦争反対の組織された活動へとたちあがった。
党は進歩的文化人や、労働組合、婦人、青年団体に働きかけて原爆反対運動を推進した。
四九年四月に結成したばかりの日本民主婦人協議会広島支部は、広島県婦人連合会などとともに広島市児童文化会館で八月六日に平和婦人大会をひらいた。
日本の原水禁運動の草分けともいうべき「平和擁護広島大会」(十月二日、広島女学院講堂)は、米軍全面占領下で公然と
「人類史上最初に原子爆弾の惨禍を経験した広島市民として『原子爆弾の廃棄』を要求します」と全世界に訴えた。
翌五〇年六月九日、党中国地方委員会は日本で初めて原爆被爆者の写真を特集し、
「再び原子爆弾を繰り返すな、全愛国者は平和戦線へ!」の主張を掲げた機関紙「平和戦線」(第七号)四万部を発行した。
 これより先の四月には、大山郁夫の来広を機に平和擁護委員会世話人会が結成され、五月以降、広島の青年・労働者を中心にストックホルム・アピール署名が始まった。
全党員は県民の先頭に立って署名をあつめ、被爆写真や辻詩(峠三吉詩・四国五郎絵)を掲示、被爆の実態を広く知らせるため奮闘した。
 日本民主青年団広島地区委員会は「原爆の日の惨状」の写真を掲示して署名にとりくんだ。
広島文理大学生自治会は一日ストで平和大会をひらき、広島大学には広島反戦学生同盟が結成された。
文化分野では峠三吉、増岡敏和、深川宗俊らを中心に反戦詩歌人集団が結成され『反戦詩歌集』を発行してたたかった。  自らも被爆した共産党員詩人峠三吉は、被爆の惨状とともに原爆投下の政治的本質を鋭く告発し、米軍全面占頷下のたたかいを励ました。
彼は、原爆が「どのようにして/海を焼き島を焼き/ひろしまの町を焼き/お前の澄んだ瞳から、すがる手から/
父さんを奪ったか/母さんを奪ったか/ほんとうのことをいってやる/いってやるぞ!」
(『原爆詩集』所収「もいさい子」より)と占領軍の言論弾圧に敢然と挑戦した。
そして、「ちちをかえせ/ははを加えせ/としよりをかえせ/こどもを加えせ/わたしを加えせ/
わたしにつながる/にんげんを加えせ/にんげんの/にんげんのよのあるかぎり/くずれぬへいわを/へいわをかえせ」
(『原爆詩集』「序」)と、原水爆禁止運動の原点となった「ヒロシマの心」をうたいあげた。
 八月六日の平和大会の準備がすすむなかで、広島市警は占領軍の命令で八月五日以降のいっさいの集会を禁止し、
広島市内外を戒厳令のような状態におき、天道正人(党県委員)、中下前(広船労組委員長)は五日から六日まで呉のCICに軟禁諮された。
しかし、八月六日には広島、福山、三次で弾圧をけって平和集会とデモ行進が敢行され、広島では午前十一時半、八丁堀の福屋百貨店前に五〇〇人、午後は広島駅前に三〇〇人集まって平和大会をひらき、多数の警官隊の警戒にもかかわらず一人の検挙者も出さなかった。
その日、福屋の窓や屋上、そして市内映画館で平和のたたかいを訴えたビラ二万枚がまかれた。
翌五一 (昭和二十六)年には、このときのだたかいの詩も収めた峠三吉の『原爆詩集』が占領軍の弾圧をかいくぐって発行された。
このころ、県内のストックホルム・アピール署名数はI〇万人を突破した。
 このたたかいを契機に、翌年の八月六日の原爆記念全国平和会議(広島市荒神小学校)にかけて労働組合、婦人、青年、学生の朝鮮戦争反対、原子戦争阻止の運動が広がり、再軍備反対、全面講和実現の要求に発展した。
 一九五一年一月には、共産・労農の両党と労組代表、文化人、知識人による広島講和問題懇談会や共、社、労農の三党による統一選挙、全面講和促進の懇談会がひらかれ、
第二十二回メーデー(分裂)には、再軍備反対、全面講和と全占領軍の即時撤退などのスローガンがかかげられた。
 一九五一年十月、国民の反対を押し切ってサンフランシスコ「平和」条約、日米安全保障条約の批准案が承認され、
翌年の四月に同条約が発効。アメリか帝国主義の全面占領から半占領へとかわった。
「アカハタ」は復刊し、いままで占領軍のプレスコードの前に沈黙していた一般のマスコミも初めて被爆地広島の実態をつぎつぎと報道し始めた。

  あらたな運動の高まり

 一九五四(昭和二十九)年三月一日の第五福竜九のビキニ水爆被災事件は、アメリカの核兵器開発にたいする全国民の怒りを爆発させた。
全国に広がった原水爆禁止署名運動は、翌三五年八月六日、広島でひらかれた第一回原水爆禁止世界大会に結実した。
 広島では、世界大会までに山口勇子(広島子供を守る会副会長)など一〇人の婦人によって発起された一九五四年五月の原水爆禁止広島市民大会、
県内七〇余の諸団体で七月二日結成された原水禁広島県民運動連絡本部の一〇〇万署名運動、八月六日の原水爆禁止広島平和大会などが展開された。
広島でのこれらの運動は、その当初から原爆被害者の救援を呼びかけるとともに「被爆者をモルモット扱いにするな」と比治山にあるABCC(アメリカ原爆調査委員会)にたいする怒りを燃えあがらせた。
党はこれらのだたかいを重視するとともに、党員である峠三吉、山代巴、川手健らによって着手された原爆被害者の組織化(五二年八月)、
党広島市段原細胞を中心とした段原被害者の会の結成(五三年)など先駆的な役割を果たし、被爆者運動は五六(昭和三十一)年三月十八日の広島県原爆被害者大会、五月二十七日の広島県原爆被害者団体協議会の結成を経て、八月十日の日本原水爆被害者団体協議会の誕生へと発展した。
 第一回原水爆禁止世界大会後結成された広島原水協は、太平洋水爆実験阻止や原水爆禁止の平和集会を広島や岩国でひらき、一九五八(昭和三十三)年の第四回世界大会(東京)にむけ、初の平和行進(一〇〇〇km)を送り出した。
 また、一九五四年七月、岩淵泰夫ら一三人によって広島商工会(現広島民主商工会)が結成され、
五五年九月には福島医療生協、翌年四月に日中友好協会広島支部、七月に沖縄返還国民運動広島県協議会がつくられ、五八年九月には広島平和委員会が誕生し、十月に第一回広島県母親大会がひらかれた。
 文化運動の分野では、一九五四年五月、広島合唱団が結成された。広島のうたごえ運動、平和美術展(五五年八月五日第一回)は、原水禁運動とともに成長し、広く大衆に根づいていった。
広島映画サークル協議会(五六年五月)、広島演劇鑑賞会(現広島市民劇場―五九〈昭和三十四〉年十一月)も結成され、広島民衆劇場など演劇団体の活動も前進した。
 戦後まもなくから発展させられた原子戦争反対の闘争は一九五〇年十一月、トルーマンが朝鮮で原爆使用の可能性を示唆したとき、
また、五八年、台湾海峡危機にあたってアイゼンハワーが中国本土に核攻撃を加えることを検討したとき、これを阻止した全世界の平和の世論を高めるうえでも積極的役割を果たした。
こうしたたたかいは、広島の革新勢力と、党の誇りであり崇高な責務でもあった。
 県党組織は、献身的な党員の真摯な努力に支えられて団結をいっそう強め、第七回党大会にむかって着実な前進をかちとっていった。

三 第七回党大会から六〇年代の闘争

  第七回党大会と第ハ回党大会

 第七回党大会は、五〇年問題を総括して党の統一と団結を回復し、自主独立の立場を確立した。
そして二つの敵とたたかう当面の「行動綱領」を採択し、「五一年綱領」を廃棄した。
一九五八(昭和三十三)年十月五日の第十六回県営会議は、松江澄、翌五九年十月三日の第十七同県党会議は、徳毛宜策をそれぞれ県委員長に選んだ。
また第ハ同党大会は、数年にわたる綱領草案の全党の民主的討議と安保闘争や党勢倍加運動などの実践をふまえ、全員一致で綱領をきめた歴史的な大会となった。

  安保改定反対闘争と統一戦線

 一九五九(昭和三十四)年から六〇(昭和三十五)年にかけて歴史的な安保闘争がたたかわれた。
 これより先、一九五七年秋から始まった動評闘争は、翌年一二月には広島市で一万三○○○人の集会をひらくまでに発展した。
党は教育、平和と民主主義をまもる運動として重視し、広島市牛田、観音など各地に動評対策会議をつくった。
これはその後、警職法、安保闘争での草の根共闘に発展した。  一九五八年十月末には警職法改悪反対県民共闘会議が結成され、翌年六月二十四日、安保条約改定阻止県民共闘会議が発足した。
安保闘争と結合してたたかわれた三池闘争では数百人のオルグ団を現地に送り、多くの職場に「三池を守る会」を組織した。v  安保共闘会議は、広島で初めて共、社が公然と中心になった共闘組織であり、県下四十数ヵ所の地域、職場に組織がつくられ、
一年有余、二〇次にわたる統一行動をたたかう統一戦線組織となった。v 一九六〇年一〜八月の統一行動にのべ八三万人の労働者がストライキや職場集会でたちあがったのをはじめ、全階層がたたかいに参加した。
党は、上京団、デモ、集会などつねに戦闘性を発揮して献身的に活動し、トロツキストの策動を排除して共闘のなかであらわれてくるセクト主義、反共主義を克服し、統一行動、統一戦線を正しく発展させるために努力した。
このような大統一行動の発展は全労会議傘下の労働者にも大きな影響をあたえた。

  「二本足」の活動と反党分子との闘争

 安保闘争の高揚のなかで党の建設もすすんだ。第十七回県党会議(一九五九〈昭和三十四〉年十月)は、
「大衆運動にとりくめば党は自然に大きくなる」とか「党勢のおくれの原因は基本方針のまちがいにある」という誤った意見とたたかい、
第七回党大会六中総の「党を拡大強化するために全党の同志におくる手紙」への呼応運動を重視した。
六〇年三月には八七%の細胞が返事を書き、党勢拡大運動におう盛にとりくみ、八月三十一日、全国で六番目に党勢倍加を達成した。
 第八回党大会は一九六一 (昭和三十六)年七月二十五日から三十一日まで東京でひらかれた。
七月九日の第十九回県党会議は一一人の大会代議員を選出するとともに、春日庄次郎の反階級的裏切り行動にたいして中央委員会幹部会の声明を支持する決議を採択し、
七月十七日の第十二同県委員会総会は、内藤知周ら党破壊グループの挑発行動を糾弾する幹部会声明への支持を決議した。
ところが、綱領草案に反対してきた松江澄は、内藤らの反党活動を支持し、「原則的に異なる見解をもつ機関でともに活動することはできない」と県委員の辞任を表明して部署を放棄した。
このため県委員会総会は松江を県委員から罷免した。七月九日の県党会議の数日前、党にかくれて春日の使者遊上や内藤らと秘密の会議をひらいた松江は、七月十九日、「全県党の同志諸君に訴える」との党を中傷する個人文書を党の内外に配布し、分派活動に乗り出した。
松江が所属していた事務所細胞は二十一日、緊急細胞会議をひらいて松江の除名を決議、翌二十二日、第六回広島地区委員会総会は出席者全員一致で除名処分を承認した。
第8回党大会最終日の七月三十一日には、山口氏康、広兼主生、板倉静夫ら三〇人が反党文書を発表した。
党は直ちに反党分派活動として彼らを除名した。その後、彼らは「社会主義革新運動広島準備会」を旗上げしたが、参加者は三〇人にすぎなかった。
 彼らは再建まもない民青同盟の乗っ取りをたくらみ、県委員長、広島地区委員長を引き込むなど策動したが、民青同盟からも除名された。

  「高度成長」と広島県政

 岸内閣にかわって登場した池田内閣は一九六〇(昭和三十五)年十二月、「国民所得倍増計画」を打ち出し、大企業奉仕、国民犠牲の「高度成長」政策にのり出した。
県下では、すでに五二年、前年初当選した大原知事が「生産県構想」をあきらかにして大企業本位の県政を推進していた。
 一九六一(昭和三十六)年十月、日本鋼管の福山誘致をきめ、六四年九月には福山市など備後地区一七市町が工業整備特別地域に指定された。
日本鋼管誘致協力への謝礼として六一年十一月、県議会議長中津井真が県費四六三万円を使って全県議に純金の模造大判小判を配るという「大判小判事件」が発生した。
五九年のいっせい地方選挙で党公認で初めて議席をえた松江は、除名後も党の辞職勧告にもかかわらず議員に居座りつづけ、他の議員とともに「小判」を受け取って日本鋼管重役と一緒に宴会に出るなど堕落ぶりをあらわにした。
県民の批判が高まるな−かで、大原知事は翌年四月辞任し、かわって永野厳雄が登場した。  永野知事は「日本一住みよい県にする」と豪語して、広島、福山、呉、大竹をはじめ瀬戸内沿岸都市部での急速な重化学工業化をすすめた。
大企業本位の産業基盤整備に湯水のように県費をつぎ込み、日本鋼管だけで一四六億円の巨費を投入し、七億八〇〇〇万円もの奨励金まで支払った。
海は埋められ、大気・水質の汚染がすすみ、農業、漁業は犠牲にされて農山漁村から大量の若年労働力が都市部へ流れ込んだ。
一九六〇年に全体の三一・五%を占めていた農林漁業従事者は七〇(昭和四十五)年には一七・三%に激減した。
 社会党までもが自民党県政に追随するなかで、党は日本鋼管の誘致をはじめ大企業本位、住民犠牲の「地域開発」に反対し、
農林漁業、中小企業、地場産業などつりあいのとれた産業の発展を要求して住民のたたかいの先頭にたった。

  ケネディ=ライシャワー路線と広島

 安保闘争によって打撃を受けた米日支配層は、共産党を中心とする民主勢力と、社会党、総評などとを分断し、共産党を孤立させることを基本方針としてその努力をかたむけた。
そのため、アメリカ帝国主義は、一九六一(昭和三十六)年四月、ライシャワーを大使として日本に送り、
反共親米の民社党、全労会議などの右翼指導部をひきつづき援助すると同時に、社会党、`総評、中立労連の幹部や文化人をつぎつぎとアメリカに招待するなど、右翼的潮流の育成に力をそそいだ。
 広島では、県労、東洋工業、三菱広船などの組合幹部が訪米した。そして、東洋工業では、一九六四(昭和三十九)年から六七(昭和四十二)年にかけて
「地下室のメロディ」といわれる活動家への攻撃がつづき、三菱広船では、六四年の三重工合併を契機に、六五年から翌年にかけて組合分裂が強行された。
このようななかでおこなわれた六四年春闘で、党は四月十七日のストライキを「アメリカ帝国主義のたくらむ挑発スト」と規定して反対するという指導上の誤りを犯し、
労働組合内の党の勢力に重大な打撃をあたえた。
国鉄、電通、全逓などでは、組合決定に違反したということで不当な統制処分をうけた。  統一戦線運動も多くの障害に直面した。
社会党などは安保共闘の活動を休業状態にレようとしたが、党はねばり強く再開を主張し、一九六〇年九月五日、安保破棄・憲法擁護広島県共闘会議として再発足した。
地域共闘も三原、三次、庄原、安芸で再開し、呉、広島、尾道で新たに確立した。
共闘会議は六一年から六三年にかけて、安保破棄、政暴法反対、日韓会談粉砕などをかかげて運動を展開したが、社会党などは消極的態度をとりつづけた。
 原水禁運動も激しい分裂工作にさらされた。
一九六一年十一月、自民、民社、総同盟によって核禁会議が結成され、翌年一月、広島でも県民会議が組織された。
六三年に広島で開催された第九回世界大会では、社会党、総評の指導部が「いかなる国の核実験にも反対」や「部分枝停条約支持」をおしつけようと策動し、
不可能とみるや突然大会参加をやめ、会場の使用をその前日になって妨害するなど公然と日本原水協に敵対し分裂活動にふみ出した。
しかし、大会は「一致できる課題を中心に統一しよう」という道理にかなった方針で団結し、分裂策動をのりこえて大きな成功をおさめた。
 分裂にふみ出した人びとは、一九六四年三月には原水爆被災三県連絡会議を結成して日本原水協に敵対し、分裂を固定化した。
日本原本協の伝統を継承し、第十回世界大会の成功を願う人びとは、六四年六月七日、広島県原水協(会長鈴木直吉、理事長佐久間澄)を、つづいて広島県被団協(理事長田辺勝)を再建した。
 被爆体験継承の課題もさまざまな形でとりくまれた。
一九六三年八月に劇団月曜会は「河」を上演し、『木の葉のように焼かれて』(新日本婦人の会広島支部)、
『あさ』(山下会)、『壁』(福島地区被爆音の会)、『老いと怒りと』(告昌枝傷者の会)などの体験記も出版された。

  ソ連、中国の干渉とのたたかい

 第九回原水爆禁止世界大会(広島)に参加したソ連代表団(団長ジューコフ)は、部分枝停条約支持を大会におしつけようとしたが成功せず、一致する課題での国際共同行動を呼びかけたアピールに賛成した。
中国代表団も、部分枝停条約反対を大会が表明するよう求めたが、異なる意見は保留し、核兵器完全禁止、核戦争阻止、被爆者救援など
一致点で共同するという日本共産党の態度を聞いて共同行動のアピールに賛成した。
ところが、ジューコフはわが党から除名された反党分子とひそかに会談し、帰国後、「プラウダ」に、「広島の声」と題する論文を発表、
日本共産党と第九回原水爆禁止世界大会を名ざしで攻撃し、社会党・総評の分裂集会を支持して大国主義的干渉を強めた。
 中国共産党は、「反米・反ソ統一戦線」を主張して「文化大革命」礼賛や中国流の人民戦争方式を日本共産党や民主運動におしつけ、
それが拒否されると反党分派を組織し、日本共産党の破壊を企んだ。
 広島県党組織は、「五〇年問題」や内藤・松江ら反党修正主義者との闘争の教訓を生かして党の団結と自主独立の立場を堅持し、大国主義の不当な干渉をき然として排除した。
 六三年三月三日には新婦人県本部が結成された。さらに、国民救援会県本部(六二年四月)、広島県労働者学習協議会(六三年三月)、
広島県農村労働組合連合会(六五年四月)などが相次いで結成され、全日農広島県連(六三年八月)が再建された。
 文化分野では、広島詩人会議(六四年四月)、広島県美術会議(六五年一月)、民主主義文学同盟広島支部(六五年六月)が発足し、
広島県文化会議は機関誌『ひろしま』を創刊(六四年八月)した。

  ベトナムに広島をくりかえすな

 安保共闘会議が再開不能になった時点で、党は一九六五(昭和四十)年、労組・民主団体とともに安保破棄・諸要求貫徹広島県実行委員会を結成した。
同年七月に憲法改悪反対広島県各界連絡会議、翌六六(昭和四十一)年六月には沖縄・小笠原返還同盟県本部も誕生して運動をすすめた。
 ベトナム侵略戦争が本格化するなかで、党は「”ひろしま”をベトナムに、世界に、くりかえさせるな」のスローガンをかかげ、ベトナム人民支援センターをつくって、一日分の賃金の拠出など創意あるたたかいを展開した。
一九六七(昭和四十二)年十月には、米軍が朝鮮戦争以来一一年ぶりに黄幡弾薬庫から川上弾薬庫への輸送を本格的に再開した。
共、社、県労、呉地区労など二十数団体は翌六八年六月、「弾薬輸送反対、黄幡弾薬庫返還要求県民共闘会議」を結成し、共闘が実現した。
 一九六一年一月発足した陸上自衛隊十三師団は、六五年十月、「創立一五周年記念」と銘打って平和公園に全装備を結集し、平和大通りを行進するという平和運動への露骨な挑戦を計画し、以後毎年市内で観閲行進を強行した。
これにたいして広島の民主勢力は、「平和都市広島を軍靴でけがすな」をスローガンにねばり強いたたかいを展開し、七四年には中止に追いこんだ。
 原爆ドームの保存でも党は大きな役割を果たした。
市当局は、破損がひどくなった原爆ドームを修理し永久保存する予算がないとして保存に消極的態度を表明したが、
党は直ちに民主勢力に訴えて永久保存運動を展開、一九六六年七月の市議会では党議員団が提出した永久保存の決議案が満場一致で採択された。
こうした世論の力で当局は態度を変え、永久保存にふみきった。
 一九六〇年代後半には、日本科学者会議広島支部(六六年六月)、広島県商工団体連合会(六六年七月)が結成され、民医連安佐診療所が六六年八月発足した。
文化分野では六九年十一月、広島県文化団体連絡会議が結成された。

  沖縄問題などの大衆闘争

 一九七一(昭和四十六)年から七二年にかけて日米沖縄協定をめぐる闘争が最大の闘争となり、各地で集会がひらかれるなど急速な高まりをみせた。
七三年四月には田中内閣の小選挙区制強行のたくらみにたいして党は直ちに行動を起こし、民主勢力と共同して小選挙区割粉砕統一集会(五月十五日、県内七ヵ所二万五〇〇〇人)をひらくなど奮闘した。
 一九七〇年代に入ると、「高度成長」の矛盾がふき出して都市問題が激化し、公害に反対し環境をまもる住民組織と運動が各地で活発となった。
 一九七三(昭和四十八)年十月の第一次石油危機を契機として、日本経済は深刻な危機に直面した。
とくに、造船、鉄鋼、石油化学など極端な重化学工業化をすすめてきた広島県では生産が激しく落ちこんだ。
大企業は「狂乱物価」をつくり出す一方、首切り、出向、配転などの徹底した「減量経営」で、労働者、県民に犠牲を転嫁した。
党は生活防衛対策委員会(七三年十二月)をつくって大企業の横暴を徹底的に追及し、重油や洗剤の確保など多くの要求を実現し、労働者の権利を守り要求実現のために積極的にたたかった。
七三年十二月、永野のあとをうけて知事になった宮沢弘は、「地方の時代」「コミュニティ」などの言葉で目先を変えながら
大企業奉仕、住民犠牲の県政をつづけたが、党は県議会内外でその本質を追及してたたかった。

  反共、分裂主義との闘争

 一九六九年から広島大学で中核派などトロツキストの学園封鎖、テロが激化し、同年三月、二回にわたって警察が広大構内に出動した。
トロツキストは「解同」小森派と結びついて学生にひん死の重傷を負わせるテロをひん発させ、女子学生を監禁して暴行するなど横暴のかぎりをつくした。
松江ら反党分子は彼らを擁護し、社会党・県労は反共分裂主義の反党分子やトロツキスト暴力集団を共闘に加えることに固執し、共闘の実現を困難にした。
 党にたいする公安調査局や警備警察などの卑劣な手段によるスパイ活動も執拗に強化された。
党はこれら反共集団との闘争を重視するとともに、第十二回党大会できめた「四本柱」の党活動、党と民主勢力の防衛の活動を強めた。

 七〇年代後半には、共産党の躍進にたいする反動勢力の反攻作戦が強まり、党は大規模な反撃のたたかいをすすめた。
 戦前の治安維持法等被告事件を使った『文芸春秋』の立花論文(一九七五〈昭和五十〉年十二月)と春日違憲質問(七六〈昭和五十一〉年一月)、袴田の転落(七八〈昭和五十三〉年一月)などにたいして、
党は「犬は吠えても歴史は進む」を掲載した『文化評論』や反共・反撃のクリーン・パンフを大量に普及した。
また、七五年九月には救国と革新の国民的合意を呼びかけて、三次では危機打開のための農業団体代表との懇談会(同年十月)がひらかれ、
これが契機となって七八年六月、県北の農業を守る連絡会議が結成された。
さらに自由法曹団広島支部(七六年十一月)、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟広島県委員会(七七年一月)が発足した。
 第三十七回県党会議(一九七七年十二月)は、「反共攻撃と革新分断の策動をうち破って前進できる強大な大衆的前衛党建設」の方針をきめ、県委員長に沖野輝男を選んだ。
 「職場に憲法なし」という状態をつくり出した大企業の職場支配にたいしては、「職場の自由と民主主義を守る広島県連絡会議」(一九七七年三月)を結成し、
第十三回臨時党大会(七六年七月)が採択した「自由と民主主義の宣言」を武器にしてたたかった。
また、第十一回参院選前には「企業ぐるみ選挙を告発する広島県連絡会議」(七七年六月)を発足させて
石播呉工場や中電、広銀労働者らの内部告発と呼応した社会的糾弾と大量宣伝を展開した。
この参院選では、選挙違反を口実に呉警察署が呉民商に不当な弾圧をかけるという事件が起こったが、
党と民主団体はき然と抗議するとともに、起訴後は「守る会」をつくって裁判闘争をつづけている。
 全国的な反共攻撃に呼応して、県内でも、トロツキスト暴力集団、勝共連合、右翼の策動が活発になり、一九八一年には「日本を守る広島県民会議」が勝共連合・右翼勢力によって結成された。
 反共分裂主義の「解同」小森派は、学校や自治体に乗りこんで暴力的糾弾をくりかえしたが、
福山市同和行政の「窓ロー本化」について広島地裁は「違法」との判決(一九七七年七月二十九日)を下し、
戸手商事件(七三年十二月四日、小森らが戸手商高校に集団乱入して教師を殴打した事件)についても、広島地裁は小森らに有罪判決(八○年二月)を下し、八三(昭和五十八)年十月十三日には小森らの有罪が最高裁で確定した。
 一九七九(昭和五十四)年十一月、党は県議会で県庁の不正経理問題を追及した。知事は翌年二月、中央役人を高級クラブや料亭で接待していたことを認め、
補助金行政の改革や人事の公平・明朗化、外郭団体の整理などを約束した。
 原水禁運動では、一九七七年、NGO主催の被爆国際シンポジウムが広島市でひらかれ、被爆の実相を世界へ知らせるうえで大きな役割を果たした。
また、七八年七月には「黒い雨・自宅看護原爆被害者の会」が結成され、地域指定拡大の運動が進んだ。

  反核・平和の闘争と革新勢力の前進

 高度成長政策を全国に先がけて強行してきた広島県では、矛盾も激しく政治革新の課題はより切実となっている。
また、党が先駆的にかかげた「ヒロシマの心を世界に」のスローガンは、核戦争の危機の増大と平和運動の高まりによって多数の県民に広がっている。
 一九八〇(昭和五十五)年三月の県党会議は、人民的陣地の構築、とくに強大な党の建設をきめた。
八二年九月の県党会議は、平和闘争での広島県党組織の責務を強調し、八三年選挙勝利のための奮闘を決議し、県委員長に松田昌征を選んだ。
 「平和と民主主義をめざす広島県民懇談会」(個人加盟四〇〇人、二五団体、六万人)は、社会党の右転落のもとで革新統一戦線結成を追求して八ー年三月に結成された。
労働戦線の階級的統一をめざす広島県統一労組懇は八○年四月に結成され、その後呉、福山に地域組織をつくり、組合員は二万人に達した。
「軍事費を削って国民のくらしと福祉・教育の充実を求める国民大運動」は、軍備拡大、臨調「行革」路線と対決する県民の切実な要求を結集して着実に前進している。
農業再建をめざす「県北の農業を守る連絡会議」の運動はますます大きな役割を果たしている。
 党は一九八一(昭和五十六)年九月、「大企業黒書」を発表し、いくつかの労働者の要求を実現した。
十一月、石川島播磨重工業呉事業所の労災死を「病死」とする「資本の論理」むきだしの犯罪的行為にたいし、党と統一労組懇は社会的糾弾を組織して労災死を認めさせた。
七九年七月に結成された東洋工業党委員会付属バンド「未来」は、「第二十二回赤旗まつり」(八ー年五月)に出演して全国の人たちを励ました。
 一九八一年、ラィシャワー駐日大使の核持ち込み証言から「非核三原則の法制化、核積戦艦の寄港中止」の要求と行動が広がり、
八二年の三・二、五・二三、国連軍縮総会、世界大会などの諸行動とともに、被爆記録フィルムの「10フィート運動」、高校生の原爆瓦発掘運動、「非核町宣言」をした府中町での運動など、草の根からの創意ある反核・平和のとりくみがすすんだ。
「核抑止力」論、「軍事力均衡」論による際限のない核軍拡競争、とくに八四(昭和五十九)年六月からのトマホーク配備によって日本の核戦場化の危険は増大し、
党の先駆的活動と相まって「トマホークくるな」の声は保守層もふくめて急速に広がっている。
 県内の民主的進歩的運動を継承して戦前戦後一貫して奮闘してきた県党組織は、輝かしい伝統を発揮して一大飛躍をなしとげる任務に直面している。
「歴史に学び歴史をつくる」立場で、県党組織はいま、「非核日本実現の先頭に立とう」「ヒロシマから必ず国会議員を」の決意を固めてあらたな前進を開始している。

《一部省略》(出典「前衛」 1984.7.特大号 〈創立62年〉わが地方の日本共産党史)



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