学童疎開
(注:当時、戦火を避けて疎開する際、
親戚知人を頼って疎開するのを縁故疎開と言い、
縁故に頼れない児童を対象にして学校が行う疎開を集団疎開と言った。
集団疎開は大抵、農漁村の寺社・宿坊・集会所に宿泊し、教師が引率した。
世話係として、寮母などの賄い方を置いていた。
(参考資料)
呉市 学童集団疎開誌
集団疎開先地図
空襲前の呉市街中心部
空襲後の呉市街中心部
岩方国民学校などの所在地(米国立公文書館所蔵 1945.4.12..8.2.)
中央・東西に走る防火帯用の建物疎開地、その中央すぐ上に岩方国民学校
右端すぐ上に呉市立本通国民学校、呉一中と二河川を挟んで
五番町国民学校の南下に呉市立二河国民学校がある。
元気な学童の様子(ビデオ)
呉市立岩方国民学校の三田村への集団疎開
撮影日時:1945(昭和20)年5〜6月頃、16mmフィルム7分
撮影著作:稲田萬治(稲田写場)
撮影者の稲田氏は、写真館を営み、警防団員であった。
集団疎開の子供を心配する保護者に対し、疎開先の子供が元気に過ごしている
様子を撮影し、学校で映写し、保護者を安心させたものと思われる。
ー呉市岩方国民学校児童の集団疎開―
子供たちの太平洋戦争
「―呉市岩方国民学校児童の集団疎開―」 山崎 優
岩方国民学校が三田村へ集団疎開した時、地元住民として共に生活した人の目線で、
集団疎開児童の生活を掘り起こした記録である。
集団疎開の記録は、いままで疎開児童の側からのみ記録されており、
疎開を受け入れた地元住民の側からの記録は稀有で大変貴重である。
《関連体験記》
引率教員の体験記
岩方国民学校(稲田 茂、開内一嘉)
疎開児童の体験記
岩方国民学校(小野利枝子・山本哲也)
「私の戦争ー学童疎開体験記ー」
「私の戦争ー学童疎開体験記ー」
久万(旧姓・太治)正栄(くまん・たじ・まさえ)
呉市立二河国民学校から甲奴郡上下、清岳村・天理教会の本堂に疎開
《関連体験記》
引率教員の体験記二河国民学校(宮野前 孝、清岳小学校)
「集団疎開の思い出」
「集団疎開の思い出」 朝倉邦夫
呉市立本通国民学校から豊田郡本郷町・仏通寺へ集団疎開
《関連体験記》
引率教員の体験記本通国民学校(座談会記録)
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